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どこまでも追いつかない対人関係能力について

 世間一般を基準にしたときに私の対人関係能力は低いかと思う。そもそも自分から他者に話しかける気にならない。客観的評価を気にしなければ一人で過ごすことも苦ではない。けれど対人交流を大多数の人々は重視しているようである。

 誰ともかかわらずに過ごすのは「そういう人」であり、「そういう人」にもかかわらず思い上がり、社会のなかでの立ち位置を見誤るとつまらないし関わりたくないという評価が発生する。

 こんなことを書いている時点で面倒な人物と思う。

 最近は誰とも関わらずに家で眠っていたいと思うことが増えた。好きにすれば良いという気もするが、それで後悔しないかというとあやしいので、誘いがあればなるべく「ぜひ」と答えている。

 人類の歴史のなかで他者の存在は最重要だ。他者がいなければ成人まで育つこともできないだろう。インフラも食料供給も分業によって成り立っている。私のようにここまで育っておいて、社会インフラにフリーライドしようとするのは、褒められたものではないと我ながら思う。

 一方で多様な社会を構築するうえで上記のあり方は税金のようなものではないだろうか、という気もする。

 人と関わる力に関しては、世間一般に対して生涯追いつくことのないだろうと見立てている。富むものは富み貧しいものは貧しさを増すのが世の常と思う。どんなにがんばってみたところで距離を詰めるのはむずかしい。それが現実としても、その現実に対して、どのような態度を取るかが問われていると思う。

 また態度をあえて明確にしないことも可能であり、ほどほど、保留、穏当的な過ごし方をするのもありと思う。その結果が積み重なると事後的に現実への態度が確定することもあるのではないだろうか。

 さいきん思いついたけれど、この世界に意味はないと思う。対象に意味がないとすれば好きなように意味付けができる。「人間は自由の刑に処せられている」とサルトルは言ったけれど、自分で考えて、行動して、自分で責任を持つ意思が必要だ。優柔不断な私にとってはとてもきびしい話である。

 あえて意思決定をしないとしても、その責任を引き受けるのは自分なのだから、この世界は不条理でありながらよくできているなあと思い、なんだか笑ってしまう。

利用者S・K

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