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オープンワールドとプログラミングスクール:自由と発見(と報酬)

ゼルダの伝説が楽しすぎる!

最近 ゼルダの伝説の新作のゲームをやっています。「ティアーズ・オブ・ザ・キングダム」です。これがめちゃくちゃ面白くて、5月12日発売なのに7月に入ってもいまだにプレイし続けているんです。

夜仕事が終わると、もう猿のようにずっとやっていて、いったいトータルで何時間費やしたのか、ちょっと怖くてほんとうは数えたくないぐらい(下の画像参照)です。このゲームは、自分が主人公の剣士になって、魔物に襲われた王国を救う、ロールプレイングゲームという種類のゲームです。それ話自体はよくあるものなんですが、その活躍の舞台がオープンワールドと呼ばれるものになっています。

250時間!

たいていのロールプレイングゲームは決まったストーリーを進めるゲームです。たとえば、お城でお姫様が誘拐されることから始まり、勇者が捜索の旅に出て、姫をさらった敵の魔物を次々に倒し、とうとう最後には魔王を倒して姫を救い出す、というようにストーリーの型があるわけです。

そのストーリーの進行に従って、最初はお城、次は城下町、その次は地下の洞窟、最後には魔王城、みないに決まった道筋を進んでいくっていうのが従来のゲームだったんだですけれど、10年くらい前からオープンワールドという設定が流行っていてます。これは、行かなければならない道筋が決まっているわけでではなく、いつでもマップのどこに行っても良いよ、というタイプのゲームです。

特にゼルダの伝説シリーズの前作「ブレス・オブ・ザ・ワイルド」(以下ブレワイ)が 2017 年に出たとき、そのオープンワールドの自由度がものすごく高かったので世界中で評判になりました。

従来のオープンワールドは、自由と言っても例えば建物の屋上に行けなかったり、ちょっと段差があると乗り越えられなかったり、わりと限定的なものでした。

でもゼルダは、ほぼ見えるところはどこでも行けるのです。当然建物の上にも行けるし、山の上にも行けるし木の上にも登れる。それだけじゃなくて、例えば木があったらその木を切って橋にして川を渡ったり、木をさらに細分化すると薪になるから、その薪に火をつけて上昇気流を起こし、それに乗ってさらに高いところに行けたりとか、自由度が一段上がっているんですよね。

というわけで最近のセルダの伝説シリーズはオープンワールドとして有名で、2ヶ月ずっと遊んでしまうくらい楽しいんだけれど、オープンワールドはどうして楽しいかについて考えてみたいと思います。

ティアキンの典型的なプレイ体験

このゲームの典型的なプレイ体験は以下のようなものです。(この例はあくまでもこんな感じ、という話なので実際のゲームとは違います)

ティアーズ・オブ・ザ・キングダム(以下ティアキン)は、空に浮かんだ島から主人公が広大な大地に降り立つところからゲームが始まります。京都市(任天堂の本社の所在地)と同じくらい広いと言われるマップは、どこに行っても自由です。

最初の街で出会ったキャラクターに、北西の村で異変が起こっているのを聞いて、とりあえずはその村に行ってみよう!と思うわけです。そして道中の魔物を退治しつつ村に向かって丘を歩いていると、丘の向こうに湖が見えて、その水面の中央にうずまきができています。それに興味を惹かれてじゃあちょっと寄り道をしようかなと湖の方に向かうと、こんどは街道の脇にコの字にへこんだ彫像が立っています。

なにかありそうだな、とそのあたりを調べてみると、まさにコの字の形のブロックが落ちていて、それをはめると彫像が動いて階段が現れて、階段を降りると宝箱を見つけます。宝物にホクホクしていると、彫像の影になっていた遠くの山に、「のろし」が上がっているのを見つけて、あれはなんだろうと、今度は山の方に向かいます。こんなふうにして、異変の村を救うために歩き出したのに、次々とマップに何かを発見をして当初の目的そっちのけで寄り道をしていく、というのが典型的なティアキンとブレワイのプレイ体験です。

ご想像のとおり、すぐに異変の村に行って異変を解決すれば物語が進むのですが、寄り道ばかりしているので物語がまったく進まず、250時間もプレイすることになるわけです。それがめちゃくちゃ楽しいんですね。

「自分で発見した」感覚

たぶんゼルダのオープンワールドの楽しさのポイントは、「発見」にあります。マップをぶらぶら歩いているとなにか怪しいものを見つけ、調べてみると、はたして宝箱が見つかったり、パズルがあったり、敵の罠だったり、なにかしらのゲーム上のギミックがあります。ここで「怪しい」というのは、例えば、木が3つ正三角形の形に生えていたり、小石が浜辺に点々と正円を描いて置かれていたり、そういうものです。ティアキンとブレワイではそういう怪しいところにはほぼ必ずなにかギミックが用意されていて、発見がかならず報酬で報われるようになっています。

この「怪しさ」をどういうふうに作ったらユーザの目に止まって、どのくらいの難易度のギミックにしたらユーザが満足するか、そのようなゲーム体験が綿密に計画されて作られいるように見えます。その意味では、ほんとうは「発見した」ではなく「発見させられた」というのが正しいのだと思いますけれど、オープンワールドで移動が自由なだけに「自分で発見した!」という感覚になるのです。
これが一本道のマップで、道中にギミックが点在しているとしたら、見つけるのは当たり前でなにも驚きはないでしょうが、まったく自由に歩き回ることができる世界で「偶然」見つけるのですから、「自分で発見した」という気持ちになるのではないでしょうか。

(「発見」が容易なのはたぶんギミックの密度が高いのもポイントだと思います。このサイト☆によると、ブレワイではマップの広さが75km2のようです。ほぼ同じ地上マップのティアキンではギミックのひとつ、「コログの実」だけでも900箇所あるそうで、もしギミック全てで1500個あるとすると、
$${\sqrt{75 / 1500} ≒ 0.22}$$
220mx220mのエリアにかならずひとつはギミックがあるということのようです。200m歩くと必ずお宝がある世界ってすごいですよね。
☆https://twinfinite.net/features/this-console-generations-8-largest-open-world-maps/)

オープンワールドとプログラミングスクール

ティアキンとブレワイをプレイして改めて考えてしまうのは私達が運営しているプログラミングスクールTENTOのことです。TENTOは子どもたちに学習の自由を与えることがテーマになっています。学習の自由というのは、「プログラミングに関係するものならなんでも自分で選んで学んでいいよ」という自由です。
これってオープンワールドに似ていませんか?近年のゲームでオープンワールドが採用されているのは、移動の自由を与えることで「ゲームをやらされている感」を減らすためだと思いますが、TENTOで「学習対象の自由」を与えているのも同じ理由です。学ぶものを自由に選べるので「学習をやらされている感」を減らすことができるはずだ、という考え方です。従来のやり方では、Scratchをまずやって次はPythonで次はJavaで・・・というふうに決められた教材をこなすだけなので、どうしても「やらされ感」が強くなります。でも、自分で学ぶものを選べたらもっと学習が自分のものになるはずなのです。もし同じ題材を学ぶのでも、人から決められた場合と自分で決めた場合では、自分で決めたほうが粘り強く取り組むはずです。

(たぶんここについてはもっと深い話が必要で、学習の自由が単に学習の効率につながるということだけではないと思うのです。自分の学びの責任を自分が取る、という態度を身につけてもらうことも考慮に入れる必要があると思っています。)

このような理由でTENTOはプログラミングスクール版の「オープンワールド」にはなっているとは思うんですが、今回のゼルダの圧倒的な楽しさを見ると、まだその広い世界を活かしきれてないなあと思うのです。

ゼルダが面白いのは、自由な世界で発見の楽しみがあることです。変わったことが世界にたくさん配置されていて、それに「偶然」出会うことができます。はたしてそれをTENTOで子どもたちに提供できているのか?

現在のTENTOで、子どもたちが「怪しいもの」に気づくのは、他の先生や子どもがやっていることを見ることを通してです。TENTOではいろんな子どもたちが自分の好きなことを授業中にやっているので、それを見ることで自分の知らなかったプログラミング言語やソフト、プログラミング環境の存在に気づくことがあります。たとえば、Scratchでシューティングゲームを作っている子どもが、Processingで似たような作品を作っている子どもの画面を見て、同時に動かせるキャラクターの数の多さに驚くとか、そういう気づきを得ることはあるでしょう。他の子の存在が、新しい言語を知って取り組むことに繋がります。

他人を介さない発見

でも、人がやっているのを見て発見するのと自分でいろいろやっているうちに発見するのではかなり違った経験なのではないでしょうか?
私はティアキンをプレイしているとき、クリアするまでは攻略サイトやYouTube動画を見ないようにして、マップ上ので発見や謎解きはすべて自力でやりました。クリア後も残った謎はあったので、それは攻略サイトを参考にしたのですが、やはり人の動画を見て知ったものを同じようにプレイしてもあまりおもしろくありません。それはあくまでも他人の体験の「追体験」で、自分の体験ではないように感じられてしまうからです。

そうするとやはり、能動的な発見のためには、他人を介さない「怪しいもの」の配置が必要なのかもしれないと考えます。リアル教室の場合であれば、本棚を充実させてそこにたくさんのプログラミング関係の本を置いておく、ということかもしれません。子どもたちが自分で本棚に行って本を手にとって発見するかもしれないからです。
オンラインの場合は、おもしろい教材をたくさん用意するのがいいのかもしれません。ネットにはいくらでもフリーの教材はたくさんあるので、それを探せば良い、という意見もありますが、子どもたちは「自分が入っていよい領域」と「自分が入ってはいけない領域」をものすごく意識しています。その意味では「教材」というような枠を作ってその中に各自の発見を促すような仕組みにするのが良いのかもしれません。

発見後の報酬

ただ、ゲームと比較してプログラミングスクールに良いところがあるとすれば、発見後の報酬の部分です。ゼルダの伝説はかなり注意深く設計されているとはいえ、報酬はゲーム内通貨であったり強い武器であったり、それほどバリエーションがありません。それに引き換えプログラミングの場合、「自分の好きなものを作ることができる」というのが報酬になります。報酬が個別化されているのでゲームに比べたら圧倒的なアドバンテージがあります。
自分が作りたいものを作ることは、「自分ごと」としての学習という意味でも効果がありますし、人のコードをコピーしてくることができないので、適度に失敗するという意味でも学習効果が高そうです。
とはいえ、ティアキンはその部分がブレワイから進化していて、「マジックハンド」や「スクラビルド」の自由度がものすごく高く、課題をクリアするための手段が無数にあり、その意味で報酬(の達成の過程)の個別化が実現されています。まったく恐ろしいゲームです。。

まとめ

ティアキン(とブレワイ)からプログラミングスクールのために得られる教訓としては、楽しい学習のためには「自由と発見と報酬」が必要だということです。自由は学習の題材を子どもが選択できることで実現できますが、「能動的な発見」は、人を介したやり方では実現できず、たぶん教材の工夫が必要になります。ただし、報酬については、プログラミングのほうがバリエーションを多く持たせることができそうです。
TENTOは「発見」についていままで意識していませんでしたが、今後はもっと重視する必要がありそうですね。

ティアキンとTENTO

(TENTO代表 竹林 暁)


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