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風邪とともに歩む。
風邪を機に、
日々の仕事や私生活の悩み?なのかな。
頭や心の中を蠢く騒音から解き放たれたような気がして。
過去の自分が背中を強く押しすぎてたり、未来の自分が心配そうに僕が迷わないように道を整備してくれたりしてるありがたいものなのだけども。
ではその間何をやっていたかというと、
例えば
サッカーゲームをひたすらやってみたり、
気になっていた本を味見してみてはすぐに飽きて放り投げる。。
布団の中でぬくぬくと無駄と思える時間を惜しみなく過ごすことで生じる、この背徳感は意外と悪くない。笑
とにかくひと通りできることはやりきったぞ。
ふと毎日において、ひどく反射的であるがゆえに
環境にコントロールされてるなぁと。気づく。
何故反射的であるのかというと、
意思決定に疲れているのかもしれないな。
そうそう、思った。
オンライン越しでの対話環境にも馴染みつつある現在において、僕が話しているのは"人"かPCの画面か。
僕は視覚で相手のボディランゲージからのメッセージを無意識的にキャッチし、
環境との相互作用によって生まれているのであろう、ひどくくだらない即興的な場面場面が好きで、
それがあることで言語コミュニケーションも"乗ってくる"というか、僕なりの情報伝達を支える基盤になっているんじゃないかな?と自認し始めた。
この環境に適応し新しい自分に会いに行くのか?それとも
この環境が忘れさせているかもしれない側面に目を向ける必要があるのか?
その問いの間に彷徨っていた。
"デジタルツールを日々の暮らしを充実させるために駆使したい。"
が僕の真ん中にあったりなかったりするのだけれども、
知らず知らずの間にデジタルへの重力に引き寄せられて、引きづられている感覚だ。
もちろん、その重心がどちらに偏ろうと一人一人のその時々の考えや感覚に基づく判断によるものでそれ自体何ら不自然なことではない。
ただスピードが速くて、拡散性がある。
一方で無法的な荒野でもあり、何か互換性のあるようなものに感じてしまうデジタルの世界への扉を叩くことに夢中で、その扉をそっと閉めること
を忘れていたのだ。
世ではDXなどと、暮らしを侵食するスピードもえげつなくて、
むしろ1歩進んで2歩後退くらいの距離の取り方がちょうど良いのかもしれない。
僕はあたりまえを更新し、
新しい生活を享受しようとしていた。
その点に関しては頑張った自分を褒めてやりたい。
「よしよし、いい子いい子。」
移りゆく時代の中で"あたりまえ"という言葉ってどんな意味だったっけ?って考えてみるとともに
あたりまえに寄生している何か変な違和感みたいなのを感じ取っているのかもしれない。
僕らの享受するあたりまえは誰かによって意図的に作られたものではないか?
そのことで僕は誰かの手のひらで踊らされているのではないか?
いわゆる"余計なこと"が頭に浮かぶ。
というより
どうせ踊るなら、
楽しく踊りたいものだね。笑
でも"自分"っていうあたりまえの枠組みが
誰かの手によって縁取られていることに気づき、そのことに何かうっとおしさを感じる。
枠組みによって支えられている、ありがたみに感謝できるほど僕はまだできた人間ではない。
今は自分の手で。
こう〜刻んでいきたいものなんだよなぁ。
自分っていう存在の暮らしの底にある
あたりまえを。
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