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創作を続ける理由と、祈り。

大学時代、僕は創作をする部活に入っていた。
そして創作をしていた。でも、卒業したらきっと筆は置いてしまうんだろうな、と在学中はそう思っていて。それはある出会いによって筆を置く未来は遠のいたんだけれど、結局そちらもある別れによって破綻し頓挫してしまった。しかし、それでもまだ創作を続けていることについて、先週の記事に書いた『腐れ縁』とはまた別の『理由』について今日は書き連ねていきたいと思う。寝言のようなものなので、曖昧な部分もあります。あしからず。

僕はその『理由』を説明するとき、いまは『祈り』という言葉を使っている。『いまは』とつけたのはこれから変化するかもしれないから。


創作は、とても楽しい。好きなものや、面白いと思うもの。頭の中にあった自分だけのそれらが目の前に現れてくれるから。自分がつくるんだから、現れる、って言葉は変かもしれないけれど。やはり完成形を眺めるのはとても楽しい。
小説もそうだ。脳内にしかない映像(僕は視覚映像主体で創作をします)を、文章という連ねた言葉を記すことで、それは現実に存在するものとなる。両者とも精進してもっと素晴らしいものを作りたいと思う。でも今や過去の自分の作品も決して嫌いではない。

そして、自分の作品をインターネットの大海原にのせて、自分の部屋から外に放つことができる。何人もの人から反応をもらって、そしてその作品へ感想という文が届くこともある。それはとても嬉しく、刺激的で、楽しいことだ。

さて、『祈り』という言葉から少し離れてきたので話を戻す。
創作を続ける理由。それは楽しいから、反応が嬉しいから、クスッと笑ってほしいから。もちろんそれも根源にあることは確かなのだけれど、それだけではないんだ。
様々な理由の根っこが覆い隠す小さな動機。それが僕にとって一番なのかはわからない。でも大切にしまいこんでおきたい感情。
それが『祈り』。

創作とは孤独な作業だと思う。作業Skypeとかコラボとか色々あるけれど、自分の作品を作るのは自分自身に他ならない。でも、同じ創作をする仲間がいるのは本当に尊いことだと思っている。窓を開けてインターネットの海原を見ると、たくさんの人々が目に入る。でも現実を見てみると、創作をしている人はさほど多くない。クラスの変わり者だった人たちが、インターネットの海原に集合しているだけなのだ。

(もちろんそれで多くの悲しい出来事やつらい思いをする人もいるんだけれど、今回はそこについては触れないものとする)

だから、創作仲間が一人でも増えるのはとても喜ばしい。
ありがたいことにしばしば、「創作意欲が湧いた」「自分も作ってみたくなった」と言われることがある。それは(もちろん他者のことはわからないから想像でしかないんだけれども)、少しでも創作の楽しさが伝わった結果なのだと勝手に思っている。

そして、その『少しでも創作の楽しさを伝えたい』というのが、僕の『祈り』なんだ。
作品を楽しく作り続けていればきっと、自分が感じる楽しさも伝わるんじゃないか。少しでも、微々たるものでも、人の心の水面に僅かな波が広がっていけたら。そう願いつつ、布教でも紹介でもなく、ただ創作の仲間ができたら嬉しいというだけの私利私欲で作品を出し続ける。
僕はそのちいさな動機を『祈り』と形容している。

信仰というほど、祈りを続ければ叶うと信じているわけじゃないんだ。
ただ、自分の個人的な欲のために祈っているだけだから。

やっていることは「宝くじ当たりますよーに!」と手のひらを合わせていることとほぼ同じ。

でも、確かに祈っている。最近、諸事情でしばらく作れなかったことで、つくっていた自分を遠くから眺め、改めて思った。
様々な理由の根っこの奥に、小さな祈りが存在し続けていることを。

いまは『楽しく』創作ができないから、創作はつぼみのままぎゅっとしぼんでいるけれど、いつかはまたよくわからない花を咲かすだろう。

最奥にあるともしびはまだ消えていないのだから。

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