冨岡義勇の名ゼリフと日本国憲法前文を照らして
10月16日から公開された『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』は、歴代最速で興行収入100億円を突破!
このままいけば、歴代興行収入第1位である「千と千尋の神隠し」(2001年)の308億円を上回るのではないでしょうか。
私も公開初日に鑑賞し、推しメンである煉獄さんと猗窩座(あかざ)の死闘に号泣しました。
煉獄さんの遺言とも言える「心を燃やせ」というセリフは、主人公の炭治郎だけでなく、今を生きる私たちをも鼓舞し続ける言葉だと思いますが、
今の時代にこそ、改めて噛みしめるべき名ゼリフが他にもあります。
第一話で、鬼になってしまった妹の禰豆子(ねずこ)を、殺そうとする冨岡義勇に対し、炭治郎は土下座して懇願。そんな炭治郎に冨岡が言い放った言葉が…
「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」
冨岡はさらに、
「弱者には何の権利も選択肢もない
悉く力で強者にねじ伏せられるのみ!!」
「鬼共がお前の意志や願いを尊重してくれると思うなよ」などと炭治郎を激しく叱責します。
このような冨岡のセリフを通じて、私の中で思い出されたのが、日本国憲法の前文の次の箇所でした。
「日本国民は、……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
(注:日本語の正しい表記は、「公正と信義”を”信頼して」)
さて、私たち日本国民の「安全と生存」を、「諸国民」任せで良いのでしょうか?
日本国民ではない「他人」(他国)に「握らせ」て良いのでしょうか?
一般的な「諸国民」は、「平和を愛」しているかもしれませんが、私たちの隣国の、中国やロシア、北朝鮮のリーダーたちも、「平和を愛」していると言えるでしょうか?
そんな独裁者たちの「公正と信義」を信頼できるでしょうか?
私の中には、今も冨岡義勇の叫び声がこだましています。
「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」
「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」
「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」
「鬼滅の刃」の舞台は大正時代ですが、令和の現在においても、”力”(主には軍事力)によって辛うじて平和が保たれています。
ロシア人は「”力”には必ず屈服する」と言われています。
当たり前の話ですが、他国に「生殺与奪の権」を握らせないためには、一定の”力”が必要です。
「悉く力で強者(=強大な他国・大国)にねじ伏せられ」ないためにです。
現代の独裁者たちが、日本の「意志や願いを尊重してくれ」ないのは明らかでしょう。
「生殺与奪の権」を他国に握らせないためにも、令和の時代に生きる私たちに何ができるのか、真剣に考えてみる必要があります。
ちなみに、冨岡義勇の「義」と「勇」は、明治に新渡戸稲造が著した『武士道』で、徳目として挙げられている最初の二つであり、「義」と「勇」は、「武徳」(武士として守るべき徳義)とも言われています。
江戸時代後期の思想家である林子平は、「義」について次のように解説しています。
「義は自分の身の処し方を道理に従ってためらわずに決断する力である。死すべきときには死に、討つべきときには討つことである」。
また、「水戸黄門」としても知られる水戸(徳川)光圀も次のように語っています。
「生きるべきときは生き、死ぬべきときに死ぬことこそ、真の勇気である」と。
現在、空前の大ブームとなっている「鬼滅の刃」。
第一話での冨岡義勇によるあの叱責は、令和の日本に生きる心ある人たちの胸にも、きっと届いたと信じています。
炭治郎や冨岡ら柱のように、実物の剣を持つことはできませんが、私たち国民も、「剣の精神」「刃の精神」を持つことはできます。
「生殺与奪の権を他人(他国)に握らせ」ないために…
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