『TPP交渉について』(2011年11月1日、10日のブログ記事)


皆さま、こんにちは。


本当に更新が滞ってしまった。
すでに下書きとして保存している記事を含めても、ここ3,4ヶ月に2,3しか記事を投稿できておらず、ちょっと情けない。

この夏が、珍しく自分の力量を超えた忙しさだった事と、日ごろ情報収集に利用しているツイッターで、農業関係者を含め、縁のあった多くの方がしていた「原子力発電所事故」問題に関する発言が、半ばヒステリックに反原発を掲げ、東京電力や政府を感情的に糾弾するものと感じられたことなどから、インターネットにおける発言のあり方について少々考え直していたためだ。


社会は、様々な要素が複合的に、それこそ大海に投げ放たれた網のように複雑に絡み合って流れてゆくものだ。

原発だけが悪であるかのような、そうした短絡的な構図で世の中を見ることは非常に誤謬を孕んでいて、それはそれでまた危険なことであると強烈に感じた。


そして、同時に、我々日本人の心に潜在的に宿っている「共生・共存の精神」と、慎ましやかな生活を是とする控えめな姿勢が、多くの場合、水路のエビやザリガニ、小魚たちが、あたかも“何者かの接近”によって起こされた混乱の最中にとるような後ろ向きの逃走であったり、まさに四分五裂な姿勢になりがちなものであるようにも感じられた。


筆者は化学や物理学の専門ではないので、詳細は述べられないが、放射線は日常生活でも多かれ少なかれ浴びているのだが、反原発と言われる方にとってはたとえ0.1μsv/hであっても「放射性セシウム」であっては拒絶で、そのようなものを拡散するリスクがある原子力発電所だけは、何があっても許せないというのである。


親たちの「子供を守りたい」という気持ちは、同じ子を持つ親として十二分に理解できるし、影響が明確でないからこそ、子供がそうしたものに触れる機会は極限まで減らしたいというのは当然の帰結だとも思う。


ただ、放射性物質と病原菌と一緒に論じて良いものでない事(影響度)を承知の上で、誤解を恐れずにそれを述べるとすれば、「とにかくばい菌は病気の因子で危険だから、日常用品をなんでも抗菌素材で作られたものにする」という事と同じくらい“過剰な反応”であると言ってよいのではないかと思うのである。(環境過敏症)


放射性物質の健康影響については、過去の統計に基づいた知見でもって推し量るしか現状では手段がない。

しかし、それについての明確な事実解明が果たされる前に、感情的(=ヒステリック)に一切合財を拒否するという反応は頂けないし、“まごころ”や“親切”という「感情」が、日常的な社会生活において非常に欠かせないものであるのに対し、非常事態においては、より“冷静”で“理性的な判断”が求められ、両者は簡単に両立するものではないと改めて気付かされる。


健康被害などの生体への影響は、注視の必要があり、予断を許さないものであるが、「東北産の製品はすべて汚染されている」だとか「直ちに国外へ避難する」などというのは行き過ぎであり、冷静さをあまりに欠いたものであると言わざるを得ない。


放射性物質が「まったく危険でない」というようなことを述べたいのではなく、詳細な分析を待たず過敏に反応する姿勢が「集団ヒステリック」と言われるような状態に陥り、それが社会全体に及ぼす影響を危惧するものである。



本来、冷静かつ精緻に亘って分析しなくてはならないような事項を、感情的に論じることによって、本質がまったく霞んでしまう事が問題だと筆者は感じる次第なのであり、このことは加熱するTPP交渉の是非を報じるメディアの姿勢の混沌からも伺える。



さて、引き続き、TPP交渉の行方について、思うところを述べてみたい。

前回、反原発(≠脱原発)と呼ばれる方々のその意見や姿勢に、感情的なものが多く見られるがために、それが事態の解決や、被災地の復興、被災者の方々の救済とはおよそかけ離れた議論となっているとの疑問を呈した。


なぜなら、専門家の見解でさえ、人体に影響を及ぼす放射線のレベルの定義に乖離が見られる事や、さらにはホルミシス効果や“耐性”についても述べられている見解もあり、そのような判断材料が乏しい状況で急いで結論を“出してしまわん”とする態度は、あたかも火災が起きた映画館から、(それもどのあたりで発生したかもわからず)もしかしたら火元に一番近い出口に殺到してしまうのと変わらない事態と言えるからである。

それは福島原発の事故をどう処理するかという事でなければ、既存の原発の安全性をいかにより確かなものとするかという事でもないわけで、そのような捨象はイデオロギーの吐露に見えてならない。


それは今回の表題でもあるTPP交渉に纏わる議論においても起こっているように思われる。

まず、GDPの高さからアメリカ主導になるとする見解が多く、事実上の日本とアメリカとのFTAであるとする向きである。

それであればこそ、なおさら初期の段階から交渉に参加すべきで、交渉のテーブルにつく前から悲観的にわが国の将来を杞憂するのでなく、毅然たる態度で、強かにわが国の主張をなすべきである。
初めから負けや押し切られる事のみを想定していては元も子もない。

そして、見解の多くは、交渉の結果、わが国は唯々諾々と、まさにアメリカのいいなりになって、不平等な取り決めがなされても脱退さえできず、多くの産業は壊滅的な打撃を受ける、と結ぶ。


しかし、グローバリズムの波は間違いなくこれからも進み、世界は狭くなる。

それが同時に多くの混乱を引き起こし、様々な国・地域で軋轢を生じさせ、あるいはEUにおける経済危機もそうであるが、ますますこれまでに起きたこともないような問題も起こるだろう。

しかし、TPPなどの二国間、あるいは複数国家間における協定を"小さな視点"で片付けることなく、マクロ視点で、来たるべき“地球時代”に向けた課題として、発展的に長い長い目で見て捉えるべきだ。


さて、作業を終えて、ふと周りに目をやる。

集落を見下ろすようにそびえる山々が赤茶色に染まり、青々とした針葉樹との色彩が際立つ、そんな秋田県ならではの晩秋の景色を眺めながら、続々と飛来する白鳥の降り立つ先を見送り、手をもみながら白い息を吐く。

今朝、今シーズン初めての降霜があった。

作物の刈り取られた畑の土肌は、一面キラキラと白く輝くのである。


この記事は、2011年11月にAmebaブログに投稿した記事で、筆者の農業観の一部を表すものとして、加筆修正・再構成の上、改めて投稿するものです。

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