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コロナ時代を生きぬくための聖書のことば(19)~幸いなのは神の懲らしめを受ける人

 主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、
 罪のきっかけを思い出させて人を諭される。
 悪を捨ててあなたを信じるようになるために。
                                                              知恵の書12章2節

このみ言葉は、ある日の教会のミサで聞いた第1朗読の箇所でした。
ここでは罪の問題が取り上げられておりますが、その中の「少しずつ懲らしめ」とか「罪のきっかけを思い出させて」という表現が、殊の外私の心を引きつけました。
なぜなら非行に走ってしまった10代の子どもたちに長年接してきた私にとって、ここで述べられていることは、カウンセリング的かつケースワーク的な手法と見事に合致していたからです。

神さまは私たちの罪がどんなに小さくても、心を痛められるお方であることは間違いありません。
小罪をそのまま放置しておくと、いずれは大罪へと移行してしまう危険性をはらんでいるからです。
そのため神さまは悪の渦中にある人に対して、ときには事前警告のようなかたちで小出しに「懲らしめ」を与えます。
しかし、生死にかかわる重大な事象でないかぎり、神さまは、おそらくいきなり大きな「懲らしめ」をもっての介入はなさらないでしょう。

したがって神さまは、その人の器に応じて反応を見ながら「少しずつ懲らしめ」ていくという方法をとるのだと思います。
なんという温かい神さまのご配慮でしょうか? 

実は私が非行の子どもと向き合っていたときに取った方法も、まさにこれでした。
家庭裁判所だからといって、法を笠に着た強制的な関わり方は更生の助けになるどころか、むしろ妨げになってしまうからです。

2行目に「罪のきっかけを思い出させて人を諭される」と書かれてあります。
罪はそれを指摘し断罪するだけでは、ほんとうの教育や指導にはなりません。
本人がみずから「罪のきっかけ」を思い出させるようなかたちで関わっていくことこそ、罪の自覚による更生の第一歩が始まっていくのです。
ここでは関わりを持つ者は、相手に対して常に包み込むような尊厳的なまなざしと寛大なゆるしの精神を抱いていることが肝要です。
そして二度と同じ過ちを犯さないようにするためには、罪のきっかけ(契機)や引き金ないしは誘因などをきちんと自己認識・自己分析させるということも求められています。

ちなみにあの苦難の人ヨブも「幸いなのは神の懲らしめを受ける人」(ヨブ記5:17)とポジティブな受けとめ方をしています。

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