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コロナ時代を生きぬくための聖書のことば(14)~争いと平和

 一切れのかわいたパンがあって、
 平和であるのは、
 ごちそうと争いに満ちた家にまさる。
            箴言17章1節(新改訳)

 
右の聖句に初めて接したのは、私が神学校で学んでいたときのことです。たまたま経済学の非常勤講師として来られていた早大の酒枝義旗という教授の口から、何度もこの聖句を聞かされたのでした。先生は内村鑑三の影響を受けた無教会主宰者でもあり、私は経済学そのものよりも熱く語られる先生の聖書講義のほうにむしろ心が引きつけられました。

とはいえ、当時、この聖句の意味が今ひとつ分からず、軽く聞き流してしまっていたことを覚えています。後年になってから私は、ようやく先生は私たち学生に実に大事なことを教えようとしていたのだなということに気づいて、今はただ恥じ入るばかりです。

若い人には、あまりピンと来ないかもしれませんが、この聖句は、わが国の戦後復興の歩みを共にされて来た方には大いにうなずかれるのではないでしょうか。食糧難にあった戦争直後の当時と比べますと、今や「一切れのかわいたパン」どころか、毎日が「ごちそう」の連続で、それが当たり前の時代に突入しているからです。

ところが、ご存じのように、食糧が満ち足りるのと反比例するように人々の心は荒み、家族内の紛争が増加してきています。長年、社会の縮図の現れとも言われる家庭裁判所で実務に携わり、現に子どもたちの非行や家庭紛争にふれ、その諸相をこの目でつぶさに見てきた私は、この聖句が実感として迫ってくるのを抑えることができません。調べてみますと、箴言の他の個所にも同様の意味合いをもつ、こんな聖句が見つかりました。
  
 野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。(15  章17節、新改訳)。

箴言の著者は、今の我が国の時代状況の到来を見通していたかのように語っていて、それにはびっくりします。たとえ経済的に貧しくとも、家庭に団らんがあれば間違いなく家族同士の心は安らぎ、慰め合うことは可能でしょうが、残念ながら現状は家族同士の絆が薄れつつあります。そして家庭の団らんを持つことを渇望しながらも、それがかなえられない危機的な社会的、経済的な構造が進行しているのです。

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