コロナ時代を生きぬくための聖書のことば(11)~計り知れない神の愛
わたしがあなたを忘れることは決してない。
見よ、わたしはあなたを
わたしの手のひらに刻みつける。
イザヤ書49章15節~16節
静かに語りかけているこの聖句を読むと、だれもが例外なく慰めと勇気をいただけるのではないでしょうか。
実はこの直前に
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
という反語法の聖句もみられますが、試練続きの当時のイスラエルの民にしてみれば、先行きが見通せない状況の中で、いささか神さまへの信頼を失っていたことは確かでしょう。
そんなとき、神さまはイザヤの口を通して「私はあなたのことを決して忘れないよ」と語りかけたのでした。
3行目の「わたしの手のひらに刻みつける」は、口語訳では「見よ、わたしは、たなごごろにあなたを彫り込んだ」と訳されています。
もちろん「手のひら」とは「たなごころ(掌)」の同義語ですが、何とあたたかな触感をもつ言葉でしょうか。
広辞苑を見ますと、それを「掌にする」と動詞で表現すると、「手中にする。思いのままにする」という意味合いになるのだそうです。実に神さまの御力と権威が感じられる言葉ですね。
また「彫り込んだ」は「刻みつける」よりもっとシビアな印象を与えます。
「彫り込む」ためには鑿(のみ)か小刀のような鋭利な道具を使う必要があります。
それを使って主はご自分の掌に私たちの一人ひとりの名前を彫り込んでくださるというのです。
そして私たちの名前が永遠に消えないようにとの思いをこめて彫り込みをつづけられるのです。
十字架上で磔(はりつけ)にされたイエスさまの両手の釘打ちがまさにそのことを象徴していたと言えるでしょう。
父なる神のご計画は、我が子をそのような残酷な仕打ちで成就されることをおゆるしになられたのでした。
イザヤ書の「掌」は原語のヘブライ語では複数となっていますから、文字通り両手を意味していたのです。
釘を打たれたときのイエスさまの御手の衝撃、その痛みがどれほどのものだったか、私たちの想像を絶しています。
そしてその傷痕から御血が流れ出て、その御血によって私たちは救われ、罪から解放されたのです。
私たちは、聖書以外に、これほどの深い神秘を見つけることができるでしょうか?
私たち一人ひとりは神さまの掌に彫り込んでいただくほどに、熱く愛されている大切な存在なのです。
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