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コロナ時代を生きぬくための聖書のことば(3)~「見守り」と「寝ずの番」

🔹見守る神

見よ、イスラエルを見守る方は
まどろむことなく、眠ることもない。
             詩編121編4節

冒頭に掲げた詩編は、

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。
          (詩編1節~3節)

という、あの有名なことばから始まっています。
しかも、この121編では「見守る」という言葉が6回も使われているのです。

では、見守ってくださるお方はどなたなのでしょうか。
言うまでもなく「父である神」にほかなりません。
「見守るお方」は、終始、目を覚ましていて、ちょっとしたまどろみ(居眠り)さえなさらないのです。
それはちょうど風邪をこじらして高熱でウンウンうなっている我が子が心配で、徹夜で看病する母親のような存在といっていいでしょう。

ヘブライ語で「見守る」は「シャーマル」と言い、その語源は「目を注ぐ」のほか「愛する」という意味合いが込められているそうです。
それに関連して私は「見守る」という言葉から、もう一つの個所、出エジプト記12章42節の聖句を想い出しました。

🔹寝ずの番をされる神

その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである。

先に述べた「見守る」と「寝ずの番」の言葉は、なんと響き合う合うことでしょうか。
当たり前のようですが、「見守る」から、それは「寝ずの番」になるのであり、「寝ずの番」をするから、それが結果的に「見守る」ことになるのです。

約束の地をめざす旅を開始するにあたって、主は徹夜してイスラエルの人々を見守ってくださったのです。
ですから、そのことを記念して以後、イスラエルの民は各家の門柱に犠牲の子羊の血を塗り、徹夜しながら「過越祭」を祝うことになったのでした。こうして主による「寝ずの番」は、イスラエルの民の中に見事に引き継がれています。

🔹ゲツセマネの園でのイエスさま

さらにここで、私たちは、ゲッセマニの園において弟子たちが眠りこけているそのそばで、みずから苦い杯を受け入れようと血の汗を流しながら夜を徹して祈られたイエスさまの姿を思い浮かべないわけにはいきません。
イエスさまは、いざという時に実に脆くなってしまう弟子たちを横目にしながら、心配のあまり、やはり「見守り」つつ「寝ずの番」をされたのでした。
ここに主イエスの限りない愛のまなざしが感じられないでしょうか。

私たちは、このようなコロナ感染下にあって、常に「まどろむことなく、眠ることもない神」の現存を心に留めておきたいと思います。

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