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コロナ時代を生きぬくための聖書のことば(5)~喜ばしい誕生

天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリザベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」
                   ルカによる福音書1章13節~14節

この記事は、洗礼者ヨハネの誕生が天使によって父ザカリアに告げられた場面です。
ヨハネの父は祭司職を務めていたのですが、長年、子どもを授かりませんでした。
ところが、老齢の身になってようやく妻に子どもが宿り、ついに夫婦の願いはかなえられたのでした。
彼らにとって、そのときの歓喜はどれほどのものだったことでしょうか。

そのような喜びのメッセージを味わっていたところへ、つい最近、私の目に衝撃的なニュースが飛び込んできました。
今のコロナ禍にあって「反出生主義」(Antinatalism)という考え方が、数年前からインターネットで世界に拡散していたからです。
はじめて、この「反出生主義」という言葉を耳にした方のために、少し説明をしておきましょう。

文字どおり「出生」に反対する立場のことです。略して「アンナタ」とか「反知性」と呼び、「人間が生まれたことを否定し、新たに産むことも否定する」という思想のようです。
唱えたのは、南アフリカの哲学者、デイヴィッド・ベネターで、邦訳があるようですが、私はまだ読んでいません。

デイヴィッド・ベネターの主張を抜粋・紹介した記事を読んだところ「生まれてくることは、その本人にとって常に災難であり、それゆえに子どもを産むことは反道徳的な行為であり、子どもは産むべきではない。(中略)人間は絶滅した方がよい」と書かれてありました。

「人間は絶滅した方がよい」という文章に至ったとき、私の目は点になりました。
私の拠って立つキリスト教の立場からすると、真逆の考え方だからです。
2016年1月にはイギリスで「反出生主義党」が正式に発足していると聞きますから、いかに世界的に共鳴者を増やしつつあるかが分かります。

では、なぜこのような考え方が人類の中に、はびこって少しずつ共感をよび、浸透してきてしまったのでしょうか。

我が国に限ってみても、今のこの時代の閉塞的な状況を眺めるだけでも分かるように、息苦しさや生きづらさを抱える大勢の若者たちが存在することに気づきます。
若者だけではありません。働き盛りの中年ですら、日々の糧を得るのに汲々としていて、自分の人生を積極的に肯定できない人が多いように見受けられます。
生きる価値が見出せなければ、失意のうちに絶望の淵に追いやられてしまうことは言うまでもありません。

ある女性はツイッターで「生まれてきたことこそ死に勝る災厄」と書き込み、「この世は地獄だ」とつぶやいていました。

だからと言って聖書が全面的に手放しで、この地上での人生を肯定し、生きることを賛歌しているというわけではありません。この世は「嘆き(涙)の谷」(詩編84編)でもあるからです。
しかし、キリスト者は確かな救いの道を、平和のうちに大胆に歩むことのできる存在なのです。

旧約聖書のコレヘトの言葉(伝道の書)には、こんな言葉があります。

コレヘトは言う。
なんという空しさ。
なんという空しさ、すべては空しい。(2節)

何もかも、もの憂い。
語りつくすこともできず
目は見飽きることなく
耳は聞いても満たされない。(8節)

もちろん、コレヘトは最後まで、このトーンで絶望し切ったまま人生を放棄しているわけではありません。
人生の酸いも甘いも味わい尽くした人だからこそ、このような言葉を書き残しているのですが、にもかかわらず人生は神さまの前にあって生きるに値するという心境に到達し、その書の最後のところで、こんな言葉をもって結んでいるのです。

すべてに耳を傾けて得た結論。
「神を畏れ、その戒めを守れ」(13節)

インドの詩人、タゴールは次のような詩を書き残しました。「反出生主義」を吹き払うかのような力強いメッセージだとは思いませんか。

すべての嬰児(みどりご)は
神がまだ人間に絶望していない
というメッセージをたずさえて生まれてくる
             (『タゴール詩集』山室静訳)


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