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コロナ時代を生きぬくための聖書のことば(1)~苦難から希望へ

わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 
                  ローマの信徒への手紙4章3節~4節

🔹コロナ時代の到来

この聖パウロの手紙は、今まさに私たち人類へのメッセージとして受けとめることができるのではないでしょうか。
なぜならば、私たちは今、コロナ感染というパンデミック危機の真っただ中を生きているからです。
このような苦しみが世界的にしかも同時多発的に生じているというのは、これまで例を見なかった現象といえましよう。

私たちは、顕微鏡の下でしか確認することのできない、いかにもちっぽけなウイルスによって翻弄され、当たり前の生活の自由を奪われているというのは、まことに歯がゆく皮肉なことと言わねばなりません。
とりわけ、このウイルスによって成長盛りの子どもや若者たちが、さまざまな場面で自由が制限され制約され、親友との会話さえままならない状況下におかれていますが、これは不自然極まりない光景としか言いようがありません。
つい最近では、ソーシャルディスタンスの掛け声が、むしろ「コロナうつ」を発症する要因にすらなってしまっているのです。

🔹苦難の先にあるのは希望

でも、嘆いてばかりもいられません。
私たちは、いたずらにコロナ感染の蔓延を恐れているだけでは何の進歩もありませんから。
せめて「なぜ、私たち人類とこの世界の上にこのような苦しみが与えられたのか」といった命題をかかげて、とにかく第一歩を踏み出さなければなりません。
私は今「なぜ・・・苦しみが与えられているのか」という問いかけをしました。奇異な感じを受けた方がおられたかもしれません。
苦しみは避けたいし、だれもが苦しみについては「与えられる」という感覚を持ち合わせることはできないからです。

しかし、冒頭の聖パウロのことばを、もう一度読んでください。

苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む

と書いてあります。
つまり苦難の先にあるのは、失望ではなく希望なのだというのです。これは単なる慰めの言葉ではありません。
私たちは、こんにちコロナ感染下にあって忍耐を強いられているのです。それもだれ一人として、そこからのがれることができません。
どんな災難であれ不幸であれ、聖書は、それが神さまのお許しなくしては起きないと教えています。ですから、コロナ禍も神さまによる試練として受けとめなければなりません。
そして私たちは、その試練に耐えていくことが求められているのです。忍耐は原語のギリシャ語では「ヒュポモネー」という言葉が使われています。
「ヒュポモネー」は、ただ黙って耐えるという意味以上のもっと強い意味を有しています。それは、たとえどんな苦難に遭遇しても少しも心が揺らがず、ただ黙って待ち望むという姿勢にほかなりません。

🔹火に精錬されたあかつきには

キリスト教というものは、本来、洗礼をうけてクリスチャンになれば苦難が避けられるというご利益信仰とは縁遠いものです。
イエスさまを信じていても、人生のこまごまとした場面で、苦しみはたえずつきまとうのです。 
しかも体験的に言えることですが、ある意味では、精神的な苦しみはそれ以前よりも、むしろ増し加わるということも少なくありません。
でも、そうした試練からしり込みしてしまってはなりません。

神さまによって与えられた試練によって、おのずから私たちは練達へと導かれるからです。
練達はギリシャ語で「ドキメー」といい、練り清められた品性のことです。
正確には、燃えるかまどから不純なものを浄化させ、それによって純金を取り出すという作業といった意味合いがあります。
こうした一連のプロセスを終えたあかつきに希望が生み出されるのです。それは信仰者にたいする揺るぎのない信仰の保障といってよいでしょう。

それについて、さらに聖ペトロはペトロの手紙一1章6節~7節でこう語っています。

今しばらくの間、いろいろな試練に悩まなければならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、賞賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

#コロナ #キリスト教 #聖書 #生き方  



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