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コロナ時代を生きぬくための聖書のことば(16)~わたしはあなたの名を呼ぶ


恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。
           イザヤ書43章1節

振り返ってみると、私は小・中学校を通して担任教師から出欠を取られる以外は、ほとんど私の名前を呼ばれた記憶がありません。それは私自身が目立たないおとなしい性格だったからかもしれませんが、もしも教師から一言でもやさしい声掛けがあったら、どんなにか慰められ生きる勇気が湧いたことでしょうか。

ところが、ひょんなことから大学の教員となって急に子ども時代のことが思い出され、学生たちの中でせめて私のような淋しい思いを抱く人が出ないようにという思いで教壇に立ちました。そして必死になって個人写真と首っ引きで学生一人ひとりの名前を記憶したことを覚えています。

その上で学生と廊下などで会えば、名前を呼んで語りかけ、授業の中でもできるだけ名指しでコミュニケーションを図ろうと心がけました。そのせいでしょうか、自分で言うのもおこがましいのですが、学生たちは私を慕ってくれるようになり、幸いにも実に楽しいキャンパス生活を送ることができました。
 
私の個人的な体験を持ち出しましたが、聖書の世界においても、しばしば神さまはこの世の人類の一人ひとりに向き合って、固有の名前で呼びかけられていることが分かります。冒頭に掲げた聖句もそのひとつです。

神さまは私たち一人ひとりをかけがえのないいのちある存在として創造されました。しかも一人ひとりを名前で呼んでくださっています。ですから神さまにとって私たちの名前は単なる識別された記号ではありません。
 
それが証拠に、あのサウル(後のパウロ)がクリスチャン迫害の急先鋒として活動していたとき、イエスさまが出現されて呼びかけられた言葉を思い出すだけで十分でしょう。

使徒言行録にこう書かれてあります。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(9:4)。イエスさまは、ここで、あえてサウルという名前を2度も繰り返されたのです。

このことからも、イエスさまは人間の貴賤をもって呼びかけられたわけではなく、上下の別なく、どんな人たちに対しても分け隔てすることなく積極的に呼びかけられていることが分かります。

私たちはそれに対して「フィアト」(み旨が行われますように)という言葉をもって応答しているでしょうか。

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