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立憲民主党は初心に返るべき

 最初に言っておくと、支持している政党は立憲民主党である。
 そうなんだけれども、立憲民主党もなんだかぱっとしないと思っている人は多いと思う。なんだかどこかで信念がぐらついていて、ふらふらしているんじゃないか、と。
 旧民主党時代から、なんだかポンコツなところがあって、党首の選び方を間違えたり、小池百合子のところに走ったり、まちがった世論=メディアの印象操作にぐらついたり。
 ほんと、しっかりしてほしいと思う。

 立憲民主党がたよりないのは、何を目指すのかがはっきりしていないことなんだと思う。
 そもそも、旧民主党までの流れを考えると、根底にあるのは、自民党の旧田中派と社会党だ。かつての自社さ政権というのが、形としてあるんだろうと思う。

 田中角栄というと、すっかり金権政治家というイメージだけれども、政策は豊かさの再配分というところに力点が置かれていた。それと、かならずしもアメリカの言いなりになっていなかったことは、日中国交回復で示されている。
 「日本列島改造論」(復刊されるらしい)を読むと、どうしても地域に公共事業をつくってお金をまわしていくというところが見えてしまうのだけれども、根底は取り残された地方を豊かにしようということではある。
 だからといって、自然破壊をしていいというものではないのだけれども。でも、例えば新幹線の整備によって地域間のアクセスが変わったということは、大きな影響を与えている。
 たぶん、こうした発想は、現在においては、地方対都市ではなく、地方の中、都市の中で豊かさの分断が起きているということへの対応になるのだろう。
 一方、社会党はといえば、かつては組合に支えられた労働者側の政党だった。その組合はといえば、どんどん弱体化し、連合となって正社員しか守らない、労使協調路線へと進み、見る影もない。
 そうした中で、組織化されていない労働者、一般市民を巻き込んだ政党へとなるはずだった。社民党こそまだあるけれども、その多くは旧民主党、現在の立憲民主党や国民民主党に吸収されていった。
 組合が労使協調で生き延びているのであれば、政治家もそこによって立つわけで、その意味では、国民民主党が自由民主党と距離を縮めているように見えるのは、当然といえば当然なのだと思う。

 旧民主党時代から、なんだか自由民主党の方に行っちゃった人は少なくないけど、そもそも自由民主党にいたら当選できないからといって、やってきた人もいないではない。でもまあ、根底にあるのが旧田中派なので、違和感はないはずだ。
 そして、立憲民主党に残っている人たちというのは、本当は旧田中派+社会党的な人たちであるはず。自覚はないだろうけど。
 でも、そこにあるのは、豊かさの再配分を、地方対都市、だけではなく、労使間での再配分であり、世代間の再配分であるということ。そして、立憲という文字が示すのは、本質的には憲法に示されていることを実現していく、ということなのではないだろうか。

 現在の自由民主党はといえば、お友達に利益を供与し、アメリカの言いなりになり、1945年より前の日本の亡霊に取りつかれた人たちの集まりだといっていいだろう。そもそも、自由民主党は憲法改正を悲願としている政党だ。
 そうした中にあって、現在がだめすぎるからといって、明治時代に時計の針を戻そうというのは、わかりやすい。でも、そのことで見誤ってはいけないはずなのだが。

 立憲民主党は、なんだかぐらついているのだ。自分たちがよって立つものは何なのか、見失っている。そのことが問題なのだ。

 立憲民主党が立ち上がった時、枝野幸男は演説で「立憲民主党はあなたなんです」と語りかけた。その言葉のインパクトは大きかったし、このときの選挙ではそれなりに得票があった。
 これは、街頭演説で「あんな人たちには負けない」と語った元首相とは大きな差がある。
 政治的なことは個人的なこと。今でいえば、ダイバーシティ(多様性)とインクルージョン(包摂性)を重視した政策を実現すること。一人ひとりが政治の主役であること。これって、主権在民と一致することだ。
 本来はそうあるべきだと思うのだけれども。
 だから泉健太郎もまた、「立憲民主党はあなたなんです」と語ったらいいと思うのだ。
 

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