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自由って今どうなってるんだ!① - 『新記号論』の衝撃 【転石庵茫々録】

インターネットを利用することは、個人に関する情報を何者かに自動的に回収されることでもあり、WEB上に、回収された個人情報からなる、自分のゴーストを出現させることでもある。

という、単純な事実にどこかで気付き、居心地の悪さを感じていながら、この状況に対して、どうしてよいのかわからないというのが、今を生きる上でのひとつの実感だろうと思う。

例えば、WEB上のAショップ。

Aショップを利用して書籍を購入していると、(実感的には)いつのまにか!プライム会員になり、毎月会員料をとられ、何だこれはと会員契約を何度か解消しながらも、会員であるとプライムビデオというのでWEBにつながっているTVで新作映画やドラマを見ることができることがわかり、意外とこれはコスト的にもお得かもとそのまま会員になって、携帯では、AMusicまで聞くようになり、Aからの個人宛の個人に特化したお知らせメールをごく自然に受け入れ楽しむことになる。しまいには、Aで掲載するレビューや、購入した商品へのほかの会員からの質問の回答までそれとなくメールで依頼され、無理のない範囲ではあるが、応えていたりする。

インターネットに接続している僕は、情報としてデータ化され、二進法のアルゴリズムにより微分され、必要に応じて積分されることで、いつのまにか僕のゴーストがインターネットを通じて出来上がっている始末だ。

僕のゴーストは、リアルな僕にかかわりなく、マーケテイングの対象とされ、その都度の依頼者により有効に活用されているらしい。

広告代理店などに協力し、指定された場所に出向き、アンケートやインタビューに応えて報酬をいただいていた時代が懐かしい。

世界の事象を数学で表すことを構想したのは16世紀のライプニッツだそうだが、今や、情報化という名のもとにあらゆる事象が数字記号化されることが当たり前となり、僕という存在もインターネットを通じてデータとして数字化している。

自身が数字化された情報になっていることをゴーストといったのは、僕の中に残る文芸志向的イメージであり、曖昧な実感だ。実際は、数字やアルファベットなどの文字記号により記載されている情報があるのみで、身体的な輪郭なぞはあるはずがない。一種のアバタはあるか。

というわけで、リアルな僕は自分のゴーストと適度な距離を図りつつ情報社会のなかで上手く生活している、と思っている。ゴーストを通じての推奨品を楽しんだり、購入したりしながら。

自分の好みにかなった情報を選択することで、快適な環境を楽しんでいる。

そして、まだまだ、自分という存在の根拠は、意識では把握できていない無意識、数字化できない情動の根源である無意識である、かのフロイト先生が言ったエスの領域にあり、意識でのコントロールは不可だが、数字による記号化(情報化)からは免れて、自分のなかで自由に活動している、はず、と思ってきた。

ところが、事態はさらにすすんでいるらしい。

例えば、睡眠中の無意識の活動の証である夢に対して脳波による研究が進み、どんな夢をみているのか、歩いているのか、親しい人といるのか、車に関する夢なのかといったことが脳波の統計的な分析により判明しつつあるらしい。

この研究の行く先はすでに見えている。夢見る本人に働きかけて、その夢をコントロールすることだ。

今は、それこそ、夢のような話だが脳波の研究により、夢経験に関する膨大な情報が集積され、アルゴリズムによる夢分析が進めば近い将来そうなるだろう。

20世紀にTVなどのマスネディアでの広告を楽しみ商品を購買するように乗せられたように、僕は夜見る夢を通じて僕の無意識は外から管理操作され、あたかも自分の欲望に忠実であるかのように勘違いし、夢の実感にもとづいて行動することとなる。

ドウルーズが、遺言のように語っていた、「ハイパー管理社会の到来」は、着々と進行している!としか言いようがないじゃないか。本人が気持ち良い、快いと思っていることは、すでに外部から仕掛けられ仕向けられた結果であり、管理されていることを本人の内面では気づけえない「ハイパーな管理者会」の実現だ。

幾重にも情報化された生活環境にあらためて気付かされると、アーチストの故三上晴子氏のことばを思い出す。

デジタル情報に囲まれた生活環境の中では、私たちは、「データ化された身体」と「ここにある身体」の2つを持つ、ということばだ。

「データ化された身体」とは、繰り返しになるが、数字によって表された身体であり、その身体のある環境はすべて数字記号化されている。

現在の僕たちは、少し上の世代が想像もできなかったくらいにITを通じて記号に囲まれて生活しているとも言える。スマホなしの生活がありえないように。

ところが、20世紀初めのソシュールから再構想された記号学、20世紀末には、学問の花形だった記号学がこの過剰記号時代に機能しなくなっている。

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本書は、事象を数字化するという構想や、事象を媒体(メデイア)によってあらわす行為をもう一度見直し、現在起こりつつあるハイパーな管理社会に新しい記号論を提案しようとする真摯な試みとなっている。

そもそも記号論とは、記号過程でのメデイアとは、いったことが、アルタミラの洞窟画の時代から、現在に至るまでの間にわたり、記号論をリブートするために読みなおしされてゆく。

第一講義では、新記号論への志が語られ、第二講義では、20世紀の記号論の大きな開拓者であったフロイトが、神経生理学者であった面からリブートされ、第三講義では、記号を導く書き込みの体制が2000年を境にどう変化したかが解説される。

そして、補論として、文字学(新記号論)、資本主義、権力について、さらに、自由について語られてゆく。

どの講義も眼から鱗の繰り返しで、とても刺戟的であり、400ページの大冊に思えたものが読み終わると、これだけ豊かで示唆に富んだ内容をこの厚さによく収めたものだと感心してしまうのだった。

特に、最終講義の自由についての文章は、たいへん重い。

僕は、先に無意識が心のエスにあり、「ここにある身体」に属しているイメージを記したが、情報化社会のさらなる進展のなかで、この無意識が「ここにある身体」を離れ、「データ化された身体」の先の場所へと移っていってしまうという未来がついそこまで来ているという感じがしてくるのだった。

第二講義での、フロイトが脳科学を参照しながら、神経生理学のなかに、心というモデルを作ってゆく過程が魅力的に語られていただけに、最終講義でのこのイメージは、僕にはとても重たく、残り少ない人生でそう扱えば良いのか、途方にくれてしまうのだった。

もともとは、講義の形で石田英敬氏が語り、東浩紀氏が聞き手としてまとめとコメントをはさみながら進み、語り起こしという読みやすさの形式だが、内容がさすがに容易ではないので、東氏のまとめコメントが内容理解への大きな補助になっている。

三歩進んで二歩戻るという亀のような読書で読み終わり、この実感を強めることとなった。

もちろんアマゾンのおすすめ情報には、重宝し、グーグル検索で自分の興味のあることから優先順位をつけられて紹介されるのも助かっている。

GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)によって、僕のゴーストはしっかりと築かれ支えられ、資本主義社会に活用されている。もともと好奇心の強い僕としては、ありがたいことだとは、思ってきた。

しかし、この居心地の悪さはどうだろう。

この居心地の悪さについて、本書ほど示唆に富むものは、今のところないだろうと思う。

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