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#09 彼が通り過ぎても、もう泣かなくなった
寒くなってクローゼットの奥の奥から冬のパジャマを引っ張り出したとき、目の前を彼が通り過ぎた。
そうか、このパジャマはむかし彼の家に置いていた服だ。夏が来る前、全部送ってもらったんだっけ。
ふわっと香るそれは、世界のなかで何にも変えられない、間違いなくいちばん好きなにおいで、横に座って笑ってる私の姿を思い出した。
「きみ、ほんまにいいにおいがするね」
はじめて彼のにおいに包まれた時、私は泣いてた。大切な人から信頼を失って、ぽろぽろ泣きながら相談してた時だった。今振り返ると泣きながらほんまにいいにおいがするって発言してるの、結構気持ち悪いなっておもう。許して。
でも、本当にいいにおいだった。
香水でもない、柔軟剤でもない、太陽とコインランドリーと冬の風を混ぜたような、何にも変えられない優しい彼のにおいが私は大好きだった。
貸してくれたパーカーも、深夜のコンビニめざして隣を歩いてる時も、映画みてる時も、寝ても覚めても彼のにおいと彼と私はいつでも一緒だった。
お別れした時、ああ、もうこの人のにおいに触れることは一生ないんだろうなと思った。
それだけでずっと泣いた。
しばらくしてダンボールが届いて、箱を開けたら彼のにおいが溢れた。無機質な東京の部屋に彼との思い出が溢れかえって泣いた。彼に会いたくなって泣いた。彼に会えなくて泣いた。泣いても仕方なくて泣いた。会いたいのが私だけだったから泣いた。ダンボールは部屋の片隅に置きっぱなしにした。あの箱を開けたら全部思い出しちゃうから。だから自分の気持ちとダンボールに蓋をして閉じた。夏の匂いがした、あの日。
あれから何ヶ月たった?もうすっかり冬だ。
そして今、彼が通り過ぎた、懐かしい、彼のにおいがした。
彼のことが大好きな気持ちを思い出した。
彼のことが大好きだった気持ちを思い出した。
思わず服を抱きしめてしまった。
ああ、彼のにおいがする。
でももう泣いてなかった。
それは、今日までに好きな気持ちに蓋をしなかったからで、好きな気持ちをだきしめることができたからで、大切な気持ちを記憶としてクローゼットにしまうことができたからだ。
彼のにおいと私、出会いも別れもどっちも泣いてた。でも、もう泣いてない。
目の前を彼が通り過ぎた。
出会ってくれて、ありがとう。
週末、洗濯しよう。
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好きな気持ちの行方はこちらに。
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