見出し画像

「絢辻詞」は4人いるのよ

画像1

お疲れ様です、んぱんてと申します。

 先日このような話題をTwitterに投稿いたしましたが、これにつきまして私の見解を綴りたいと思います。(今回は主にゲーム版アマガミについてのお話です。アニメ版の方はまた別の機会に考えを纏めたいと思います)

※主に絢辻詞ルートのシナリオについて多分にネタバレを含みますので、ご注意ください

 最初にABCDという4つのバージョンにつきましては絢辻詞役の名塚佳織さんご本人がお話されていますので、アマガミSS+plusブルーレイ第1巻の特典ブックレットや、「良子と佳奈のアマガミ カミングスウィート! 第146回(ラジオCD vol.17収録)」等でぜひご確認ください。


以下、んぱんての見解


(“”内は引用部分です。また、主人公の氏名をデフォルトの「橘純一」と設定します)

本格的にお話を始める前に


 まず何故4つにバージョンを分けるのかというと、たとえ一貫して「絢辻詞」の台詞だとしても演者が明確に演じ分ける必要があるほど毛色の違う「絢辻詞」が存在するためです。


 これは作り手の意図のお話になってしまうので何処まで行っても憶測の域を出ません。しかし少なくともABCDという概念に基づきアマガミのシナリオが創られたことは事実として一つ受け入れなければなりませんね。

 受け入れられた方、拙文ではございますが以下に記す私の見解をご覧いただければ幸いです。


①絢辻さんの目標

 はじめに、絢辻さんの人生における根源的な動機は終始“自分の居場所を獲得したい”であると考えられます。最初(幼少期)の絢辻さんはD(わたし)を「自分」と据えていたようです。

 スキ√のとあるイベントで以下のように独り言を言います。
“私にはね、自分がないの”
“最初から自分の世界を持つことを許されていないから” 

 つまりDとして振る舞う自分を親から認められなかった、やがてDを自分としても受容出来なくなった(扉を閉じた)ということでしょう。
そうして“小学生の頃には、もう今の私になっていた”というのです。

(なお一連のシーンでの一人称は常に「私」ですが、これは便宜上の理由で絢辻詞個人を指す代名詞として用いられているものと解釈しました)

 ここで言う「今の私」とは どのような人物かと言うと
“目標を追いかける事が今の全て”である人
↓(目標とは?)
“社会に出て、自分の居場所を獲得”すること
↓(もう少し具体的には?)
“社会というものに自分を認めて”もらうこと
↓(その手段は?)
“利用できるものはするし、邪魔になりそうなものは事前に手の内に丸め込む”こと

 すなわち「社会から認められる」という彼女の目標達成には、ある程度の打算的な思考と実行力が必要であると彼女は考えたのです。それは言い換えればB(あたし)という役を演じることでした。
 ただしBのような いわゆる打算的な人物は往々にして世間から疎まれることを彼女は自覚していました。
“ポイントは排除しないってことね。敵は作らないのが私流よ”
 それも打算の内かもしれませんが、もとより社会からの受容を原理とする彼女は特に社会志向性が強い人物と言えるでしょう。
彼女は首尾よく社会に適応するためにA(私)という役を同時に演じることにしました。

②「絢辻家」の呪縛

……少し話が逸れるかもしれませんが

“親に認めてもらえなかった子供が、社会に認めてもらえるのよ”

 この自嘲気味に放たれる台詞からは彼女の抱える問題の根深さが浮き彫りになります。

・第一に「社会に」という点です。
 大嫌いな家族に囲まれ抑圧されながら生きていた彼女は、身近な個人から認められることに絶望したのでしょうか。D(わたし)の独白に次のような台詞があります。
“誰にも期待しない。自分でそう決めたはずでしょ・・・・・・。”
 彼女は特定の誰かから認められることを諦め、社会的なステータスを得ることでこのスキマを埋めようとしました。しかしそのために意固地になる彼女はまるで「過剰なエリート意識を持つ父」と「一つの物の見方しか出来ない母」の写し鏡です。

 つまり何が言いたいかというと、本人の自覚はさておき、B(あたし)は彼女の両親をロールモデルとしているのではないか、ということです。
 そして無垢を装い、いわゆる外交官として世間と絢辻詞を橋渡しするA(私)ですが、これは「何も知らない姉」である絢辻縁をモデルとしているのではないでしょうか。優秀でありながら愛嬌があった縁が世間から認められていた(ちやほやされていた)ことを詞は知っています(うさぎとかめの話を参照)
 身内の成功体験というものは骨身に染みるもので、彼女は「私」という一人称に縁を投影し演じ切ることで承認を得ようとしました。具体的に言うならば、例えば髪型を真似ることです。(姉妹という設定上似通うのは仕方ないだろうと言われたらそこまでですが)縁と詞は共通して黒髪ロングの前髪ぱっつんです。優等生業界ではスタンダードのこの髪型ではありますが、大嫌いな姉となぜ同様のヘアスタイルであり続けるのでしょうか。現に詞は姉の「毛づくろい」を間近で見てきた事実があります。真似をするとまで行かなくとも外面上の振る舞いに大きな影響があってもおかしい話ではないでしょう。そもそも姉と競争するためには同じ土俵に立つ必要があるのですから、外面上同質になるように意識することは自然なことと言えます。

 以上のことからAは絢辻縁、Bは両親の姿を投影した姿であると考えることが出来ます。彼女は大嫌いな家族に囲まれながらもA,Bを演じ「絢辻家」に順応することでD(わたし)を守り続けたのです。

(その観点から言えば、子を儲け新たな家庭を築き、おまけに髪を短く切っているナカヨシエンドでは見事に両親と縁からの決別が果たせているとも考えられます)

 話は先ほどのシーンに戻りますが、そんな話をしている最中、主人公が「絢辻さん」と声をかけると
“絢辻? そっか・・・・・・”
“あれ? だったら・・・・・・”
“わたしはだぁれ?”

と言い残しその場から走り去ります。
これは彼女が心を許しつつある相手から「絢辻さん」と名字で呼ばれることで、A,Bが「絢辻家」由来のモデルであることを強く感受してしまった結果と捉えることができます。のちほど説明をしますが、この時彼女にとってC(あたし)の存在はまだ不安定なものでした。それを自分自身だと完全に認識するには至っていないということです。

・第二に「子供が」という点です。
社会に出て、社会に認めてもらうことが前提とするならば些か不自然です。「(大人になって)社会に認めてもらえるのよ」ということともとれますが、ここは少し発想を広げたいと思います(その方が面白いからです)

 やや強引な解釈かも知れませんが、絢辻さんは実はいわゆる社会人としてではなく「子供」のまま認められたいのではないでしょうか。「自分」を失った原因も創設祭に躍起になっていた理由も、立ち返れば幼少期の抑圧が根底にありますから当たり前といえば当たり前なのです。心を開いた彼女の言動が時折子供じみていることや、Dで見られる純心さは、まさしく「子供」の自分を受容されたいという願望が顕れるところです。この点は千年王国の呪いによって彼女が子供の姿に変貌したことも関係しているでしょう。この呪いが「受けた者の願望を反映する」という通説を鵜呑みにしつつ考えれば、やはり彼女は「子供」の自分を受け入れられることを自覚のないまま強く切望しているということではないでしょうか。このとき“あたし・・・・・・ずっとこのままなのかな?”と不安そうに主人公に問いかけますが、まさに彼女の内面はずっと、このままで・・・・・・あるかどうかは主人公次第かもしれません。(ナカヨシ会話では「早く大人になりたい」旨の発言を聞くことができますが、さてその実はどうでしょうか……)

 さて、ここまでをまとめると「今の私(絢辻詞)」とは社会から認められるためにAとBの二つの役を演じる者であると言えます。ただしこれは小学生の頃から、主人公と親密になる前にかけての話であるというのが、んぱんての見解です。

“あなたのせいで”、つまり主人公の影響によって、この一連の独り言は破綻します。すなわち、この時点で既に“私とは違う価値観を持っている”橘純一と触れ合う中で徐々に絢辻家に縛られない「自分」が形成されつつあるのです。

③Cの『あたし』とは?

 ここからいよいよC(あたし)について述べたいと思います
Cに関しては、んぱんての拙い絵と大雑把なキャプションの所為で多大なる誤解を与えていることかと思われます。

Cとは決して「スキGOOD後日談で『のみ』見られる彼女の一面のこと」ではありません。もっとも、スキGOODこそCの特色が顕著にあらわれているルートであることに変わりはありません。Cとは、先ほど述べたA,Bないし絢辻家に縛られない「自分」のことです。というのも、「私にはね、自分がないの」から始まった独り言(①参照)は、おそらく彼女が過去に言語化した「絢辻詞」の状況です。何故ならば、確実に現在の彼女の状況を変えた橘純一(主人公)の話がここに加味されていないからです。本当の意味で「今」の絢辻詞を顧みてきちんと分析しているとしたらば、橘純一の存在を無視するのは不自然ではないでしょうか。

 そして橘純一も彼女の独り言を全て承諾したわけではないのです。
“あれだけ完ぺきな絢辻さんが、全部努力で作り上げたものだったなんて・・・・・・。そんなの・・・・・・絶対違うと思う”
これが彼の感想です。絢辻詞に「自分」が形成されていることを彼がきちんと理解しているとは思えませんが、「絶対違う」とまで言わしめる違和感の正体は橘純一にとって「Cが確かに存在すること」だったのではないでしょうか。もしかするとここで彼女の独り言という形ではなく、お互い冷静に対話が行われていたらば、この場で双方納得がいく答えが出せたかもしれません。なおその後、彼はこの違和感について言及しようとして失敗し、熱いビンタを受けます。

 さて、ここから「Cはいつ生まれ、一体どの絢辻さんがCなのか」という最もセンシティブな話題に触れていきます。先ほどから述べているように既存の側面であるA,B,Dとは違い、形成途上のCは実に不安定ではっきりとは見えません。ただし明確なターニングポイントがいくつか存在すると思われます。

 例えば“橘君をあたしのものにします”これは最たる例であります。“あたしと考えが違いすぎ” つまり価値観がまるっきり違う橘純一を“あたしのものに”すると決めた時点で、既存の価値観(絢辻家の投影)であるAでもBでもない、オリジナルの何かが生まれつつあったのではないでしょうか。
それを踏まえ、先ほどのビンタの後に橘純一は謝罪しつつも次のように意見します。
“自分がないなんて言わないで。絢辻さんは絢辻さんじゃないか”
“ずっと一人だとかやめてよ”
“僕が一緒にいるから”
“僕は絢辻さんのものなんでしょ?”


 これには絢辻さんも納得したご様子です。ここで絢辻詞は価値観の違う橘純一を構成要素とし、新たに形成された自分(つまりC)を自覚します。
「これ(社会に認められるために奔走すること)しか生き方がない」と考えていた過去の絢辻詞はアップデートされ、橘純一に認められるCとしての生き方という選択を取ったのではないでしょうか。橘純一といると、“本当の目標が何か分からなくなる”のが絢辻さんです。彼女は身近な個人に認められることを諦めていましたが、彼女の行動原理から言って本当に目標とするべきことは、どこに見出しても良いから“自分の居場所を獲得”することだったのではないでしょうか。
(なお彼女は橘純一に「今の私」の目標の話をした時点で“既に新しい目標があった”と後に述べることになります。この話は後ほど詳しく説明します)

 そして、やはり彼女を象徴するイベントである手帳を燃やすシーンもまた、ひとつのターニングポイントであり、彼女の言葉を借りるならば“あたしの再出発点”なのです。同級生相手に大勢の前で啖呵を切った彼女は、もはやA,Bという役を演じることが出来なくなります。というよりも、必要が無くなりました。このとき何故吹っ切れたかと言うと、同級生たちの言いがかりの中で橘純一が否定されたからでしょう。繰り返しますがCにとって橘純一は自身の生き方の支柱となる存在です。彼女は啖呵を切ることで上辺の愛想(A)も社会的な承認(B)も捨てました。ある意味この時点で彼女はCを認めたと見ることも出来ます。そしてその意思表示が橘純一の目の前で手帳を燃やしてみせることだったのです。

 例えば、デアイ→アコガレのレベル変化にて絢辻さんの独り言を聞けますが
“私が誰かを気にするなんて、もしかして初めてじゃない?”
“も・し・か・し・て・・・・・・詞、お気に入り?”
“ああっ、もう! 何考えてるんだろ、あたし”

このように一人称を変化させAとBを交えながら自問自答する姿が見られます。
しかしアコガレ→スキのレベル変化つまり手帳を手放したあとでは、一人称を「あたし」と固定したまま独白し、絢辻詞自身の現状に思いを馳せています。
そういった意味でも手帳を燃やすイベントは『あたし』の再出発点という表現がマッチします。この後も彼女の気持ちは揺れ動きますが、Cである『あたし』を自分と認めるキッカケであることは間違えなさそうです。

 少し余談ですが、んぱんてが何故「C」の絵にスキGOODを象徴するエプロンとフライパンを描写したかと言うと、手帳を燃やすシーンを経てスキ√に移行した絢辻さんであることを強調するためです。またBとポーズは同じながら(手厳しいことを言うこともあるが)スタンスが違うことを表現したく、あのような絵に仕上げました。繰り返しますがスキGOOD以外のルートにもC(あたし)は存在すると思っています。

 さて、ここでは《書き殴ったあれ問題》について敢えて触れませんが、手帳の内容が絢辻詞の社会的評価を著しく落としかねない内容だったことは想像に難くありません。そして絢辻詞本人の意図は別として、手帳を燃やす行為は絢辻家に囚われる自分(A,B)との決別でもあります。それに関連してか、以後つまりスキでのイベントにはたびたび絢辻家の事情が登場するようになります。

そうして初めて橘純一の前でDが顔を覗かせるのです。

④D(わたし)の願い

 お待たせしました、D(わたし)についての見解を記します。
「D = スキBEST」という印象をお持ちの方は多いと思われますが、先ほどまでのお話からも分かる通り、スキBEST以外でもDが登場しています。したがってDは封印されて完全に表出しない側面というわけではないのです。そもそもどの√にも共通で見られる「創設祭を成功させたい」ひいては「クリスマスにはみんなに平等に幸せを提供したい」という願いは幼いDの抱いたものです。Dは何時も確かに絢辻詞のうちに存在します。もしかすると“わたしは、だぁれ?”というような疑問を彼女は常に自身に投げかけているのかも知れません。ただし、これはあくまで絢辻詞の独り言に過ぎません。
 何が言いたいかというと、橘純一とDが「対話する」のはスキBESTだけなのです。抑圧されたDに対し“ありのままでいいよ”という声を掛けることができるのはスキBESTだけなのです。そして憶測ではありますが、おそらくスキGOODやナカヨシエンドの世界では、橘純一とDが対話することは叶いません。(可能性があるとするならば、どちらかといえばナカヨシエンドだと思います)

 さて、ここで一点疑問が浮かび上がるかと思われます。
それはスキGOODとスキBESTの違いです。前述の通りスキ√を経た絢辻詞は総じてA,Bとの決別が済んでいます。しかしながら決定的な差異が彼女の告白シーンにありますね。

そもそもスキGOODの条件とは何か。
 スキGOODを見るためには主人公を「浮気者」にする必要があります。つまりクリスマスデートに2人誘っておいて一方との約束をすっぽかす必要があるのです。この主人公の非道な行為より、絢辻さんに“本当にあたしでいいの?”という疑問を抱かせることになります。この発言を「スキGOODのシステム上仕方なく翌日に持ち越すためのセリフ」と捉えることも出来ますが、黒沢典子の横恋慕を敏感に察知する絢辻さんのことですから、どこか含みがあります。他のヒロインと主人公がどれほど親密な関係であるか細かく把握していても全くおかしくありません。考えてみれば、D(わたし)の望みとは「クリスマスに『平等に』幸せを配る」ことでした。必ずヒロインの誰かが深く傷つくことになるスキGOODを、Dが許してくれるかといえば、これは首を横に振らざるを得ません。Dにとっては過酷な結果であると言えます。

⑤絢辻詞の居場所とA'

 スキGOODでは創設祭の翌日、神社の境内に絢辻詞を呼んだ主人公は彼女の告白の返事をします。この時なぜ境内を返事する場所に選んだのかという彼女の問いに対して主人公は「満点の答え」が出せません。彼女が期待した満点の答えとはズバリ、「その場所が“あたしの再出発点”だから」でしょう。新たな自分の居場所であるCを確かなものにした再出発点で愛を確かめ合うことがCにとっては極めて重要なことだったのです。ここまで考えて、やはり改めてスキGOODがCの居場所を認めてくれるエンドであることを提唱したいと思います。なおスキBESTの告白でのみ、「橘純一のそばにいられるように頑張る」という“新しい目標”の話をしてくれますが、これは目標の話をした時点で既に立てられていたもののようです。したがって、スキGOODでも明かされはしないものの絢辻詞は“新しい目標”を持って生きていたことが考えられますね。

同じスキ√ですから、もちろんスキBADでも同じことが言えます。

……もしもそう考えるならば、スキBADとは何だったのか。
 それは、これまで縋っていた「社会から認められる」という目標をなげうってでも「橘純一のそばにいる」という新しい目標を選び取った彼女から、その「橘純一」を奪う選択です。その結果、もはや何の目標もなく“記憶に負けないよう気丈に振る舞っているだけ”が彼女の生きる意味になってしまいました。そして彼女はこんなことを言います。
“あの子が生きていた証拠が、私の世界に穴を開けている限り・・・・・・”
ここでは彼女が「自分の世界を持つことを許されていない」過去の絢辻さんではないのがポイントです。橘純一の手によって形成された彼女の世界を敢えて踏み躙らなければ、この台詞はあり得ません。A,B,C,Dいずれの状況にも当てはまらない性質であり、んぱんてはこれをA'と名づけてしまいました。公式には存在しない分類であることを改めて明示します。お気に召さなければ無かったものとしてお考えください。

⑥最後に

 大変長くなりましたが、最後に。
ナカヨシ√の告白シーンにて彼女の口から“あたしには、まだ橘君が知らない一面があるの” と述べられます。すなわちDのことです。ここに示したABCDとはあくまで彼女の一面のことであり決して「人格」が複数あるわけではありません。
人間ならば誰もが持ち合わせている多面性にスポットを当てて描かれた、等身大の女の子こそが絢辻詞なのではないでしょうか。気分や状況によってひとの表に現れる性質が変わることなど、皆さんも日常的に経験することでしょう。どれか一つの性質だけが絢辻詞の真の姿であると決めつけてしまうのは些か乱暴です。
その全ての側面を絢辻詞として抱き締めることとしましょう。
 また、最も物議を醸すであろう「いつ、どの絢辻さんがCなのか」についてぜひ皆さんのご意見を伺いたいです。

以上が私の見解であります。ここまで読んでくださり、誠にありがとうございました!


“・・・・・・少しは自分の考察を入れて 
あなたの頭は空洞なの?”

おしまい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?