【考察】 絢辻さんと「蛙化現象」
お暑うございますが皆さんいかがお過ごし。んぱんてでございます。
何はともあれアマガミ考察です。
この記事では再び絢辻詞を中心にキャラクターの内面を読み解きつつ
絢辻さんは何故「サンタクロース」になりたかったのか?
「ファラオ 謎の入り口」とは何だったのか?
上崎裡沙は何と戦っていたのか?
といった「アマガミへの答え」を模索していきたいと思います。
これまで述べてきたことに別の角度から解釈を加えている箇所がありますので、少し混乱されるかもしれませんが悪しからず。
また、今回は『アマガミ』とは関係の薄い作品からの引用や専門用語などが多めに登場します。できる限り背景知識を必要としないようにお伝えしますので、厳密性に欠ける上に回りくどい表現がございますがご了承ください。
そして『アマガミ』本編や『ぬくぬくまーじゃん』『ちょおま』『アマガミ ジャイアニズムスペシャル』といった派生作品のネタバレをしますので、あらかじめご注意くださいませ。
1. キスの次は「あまがみ」
10代後半、いわゆる青年期における恋愛というのは得てして自我同一性(アイデンティティ)の掴み合いでしょう。
いまだ自分が何者なのか判然としていないこの時期、生まれも育ちも違う他人(恋人)を通じてようやく自分自身が分かるようになるということです。
特に高校生の時分ですと独り立ちはなかなか難しい。経済的にも精神的にも全く独立して生きるのは困難極まりなく、どうしたって家庭環境や親の影響がその人の「人となり」に大変色濃く反映されるものです。
そんな青年期の恋愛では、ちょうど「キス」の次ぐらいに差し掛かろうとした辺りで互いの「親」が見えてくるというわけです。親子の関係性や生活歴の中で培われたある種の「癖」を自然と見せ合う段階と言うべきでしょうか。
それは例えるならば猫の「あまがみ」のようなもので、言わば恋愛の場に再現される親子関係の物語なのです。
というのが、もっともらしい「あまがみ」解釈です。
『アマガミ』という作品を語る上では親と子の関係性は外せないテーマでしょう。パッケージヒロインの絢辻詞は中でも顕著ですが、そのほかの登場人物についても概して同じことが言えます。
しかもどのヒロインを取っても単純な家族愛・親子愛の物語に帰着するドラマではないというのもまた面白いところです。
いわゆる「美少女ゲーム」や「深夜アニメ」の典型として「親の不在」があるかと思います。
例えば不自然に海外出張中の両親であったり、あるいは全寮制の高校であったりと作品によって様々な方法で親を物理的に遠ざける工夫がなされています。
作劇上の都合から設定の段階で不必要な親の描写をカットするのは理に適っていると言えましょう。それに購買層のニーズも十分に考えればあまり「魅力的」でない親の描写はノイズになりかねません。
それは『アマガミ』もそうでしょう。
現に『アマガミ』では主人公やヒロインの父母(または祖父母)にあたる世代の人物は、台詞こそ与えられていたとしても立ち絵や声のある“キャラ”として存在しておりません。
もちろん例外的に黒沢典子の父親が後頭部のみ露わにしていたり、中多母が電話口で応対してくれるときに声(CV.今野宏美)が付いていたりしますが、本当にそれだけです。
こんな具合に『アマガミ』もまた他の美少女ゲームの例に漏れず親の描写を省略しがちな作品であることは間違いありません。
が、さりとて物理的な排除を受けているわけではないし無視されているわけでもないのです。
あくまで描写の省略により「見えざるもの」となっているだけで、多くのキャラはリアルタイムに親と同居しております。
しかも先に述べた通り『アマガミ』は登場人物の親子関係を推して知る物語という側面を有しておりまして、むしろ真正面から「親」をテーマとして扱っている作品であるとも言えます。
過去作との比較という意味で『キミキス』を見てみると例えば二見瑛理子の母親が回想シーンで登場したり、里仲なるみの祖父「里中軍平」などはサブキャラクターの扱いで登場していたりと『アマガミ』と比較してみれば親族の露出は多いと言えますね。
特に二見瑛理子と絢辻詞の境遇は(対照的ながら)似通ったものがありますが、一体どうして絢辻さんには幼少期の回想シーンがないのでしょう?
これが『アマガミ』の真骨頂であり、本日の主題です。
『アマガミ』は恋愛SLGの様式にしたがって「親」を見えなくした上で「親子関係」を鮮烈に描写しているのですが、一体どのような手法でこれが実現しているのでしょうか?
……と言いつつ実は既に一つ答えが出ているのですが、それは象徴的に「動物」などを登場させるということです。
2. 『アマガミ』は「メルヘン」
タイトルの由来でもある猫の「あまがみ」が、その代表選手と言えます。
前回の七咲逢に関する考察で述べたように『アマガミ』作中では猫が「母性」の象徴として取り扱われているようです。
これについては『モモちゃんとアカネちゃんの本』シリーズに登場する黒猫の「プー」が七咲逢の母性に対立するというお話とともに説明いたしました。
母性の抱える葛藤や両面性について黒猫を用いて表現しているわけです。
詳しくは以下のリンクより前回の考察をご覧ください。
(今回の記事とは一部解釈の相違がございますが併せてご一読くださればと存じます)
https://note.com/tenpanco/n/nf7709bcf8a14
また、絢辻詞はイソップ寓話の『うさぎとかめ』を引用し、姉妹間の密かな競争について語っています。(46, 52)華やかで天才肌の「うさぎ」である姉の絢辻縁と比べて地道な努力家の「かめ」である絢辻詞は、競争に勝っても両親から認めてもらえなかったということです。
そのために彼女はずっと姉を恨めしがっているのですが、彼女の部屋のベッドには、よりにもよってうさぎのぬいぐるみが置いてあるのです。(背景CG参照)
面白いですね。
このように『アマガミ』のストーリーテリングにはどこかメルヘン(神話や童話などの空想的な物語)を感じさせるものがあります。
メルヘンというのは現実の人間関係や普遍的な人間の心理について数多くの象徴(擬人化された動物など)を用いて語られるものです。
それはときに読み手による後付けの注釈であったり深読みであったりしますが、物語に落とし込むことで子どもたちでも抽象的に物事を理解できるのがメルヘンの素敵なところです。
特に絢辻さん自ら童話を引き合いに出したことを考えれば、『アマガミ』全体の楽しみ方としてあながち的外れな見方では無いと言えましょう。
そこで本日は徹底してメルヘンとして『アマガミ』を分析してみたいと思います。
「作品に描写されている全てのものに意味を見出そうとするのはかえって不誠実だ」と思われる方もいらっしゃるでしょうが、どうか少しの間だけ私のメルヘンにお付き合い願いたく存じますわ。
……メルヘンといえば。
唐突ですが『かえるの王さま』というグリム童話をご存知でしょうか。
『かえるの王さま』のプロットを箇条書きで概説すると以下の通りになります。
姫は菩提樹の木の下で金色の鞠(まり)を放って遊ぶのが何よりも楽しみだった。
ある時、姫はその鞠を誤って泉の中に落としてしまった
泣いている姫を見かねて水の中から醜いかえるがやってくる
姫がかえるに事情を話すと、かえるは「自分と「友だち(=寝食を共にする関係)」になる」という条件の下でならば鞠を取っても良いと言う。
姫は内心、醜いかえると寝食を共にするのは嫌だったが、どうしても鞠を失いたくないのでかえると「友だち」になることを約束した。
かえるが金色の鞠を水底から放り投げると、姫はそれを持ってかえるから逃げるようにして城に帰る。(約束を反故にする)
城にやって来たかえるを姫は拒絶するが、事情を知った王は姫に対して「約束を破ってはならない、かえるの言う通りになさい」と嗜める。
姫は嫌々ながら王の言いつけに従ってカエルを受け入れたが、いよいよ同じベッドで眠ろうとしたかえるに怒り、壁に投げつけてしまう。
投げつけられたかえるは美しい目をした王子さまになっていた。王子さまが言うことには「自分は悪い魔女の魔法によってかえるの姿に変えられ、あの泉に囚われていた。姫さまが自分を救ってくれた」らしい。
王子さまは姫と結婚し、自分の国に姫を連れ帰って「若い王さま」になった
王子がかえるになったことで心を痛めていた従者の胸から鉄のタガが外れた
この作品は今後の考察にしばしば登場しますので、ご存知でない方は以下のリンクよりご一読いただければ幸いです。
パブリックドメインとなっておりますから無料で閲覧可能です。https://www.aozora.gr.jp/cards/001091/files/42313_15548.html
……さて、改めて読んでみるとこんなお話だったのですね。
この『かえるの王さま』というお話、ご存知の方も多いと思われますが最近あちこちで話題になっている「蛙化現象」の元ネタともいうべき寓話でございます。
「蛙化現象」の最も一般的な語義は「こちらが好意を持っていた対象から好意を向け返されると、一転して対象に嫌悪感を抱いてしまう」というものです。
その心情の変化を童話になぞらえて、「本来は美しい王子さまだったのに醜いかえるとして自分に好意を寄せてくるように見えてくる……」といったところから「蛙化」という名がついたのでしょう。
そして、現在は恋愛における「幻滅」を指す異様に幅広い概念として人口に膾炙しているというわけです。我侭の押しつけ合いね。
それはさておき、この若干不条理な「かえるの王さま」という童話について分析心理学的なアプローチから真剣に考察した方々が多くいらっしゃるのです。種明かしをしてしまうとユング派分析家の方々なのですがね。
分析家の方々の主張をまとめると、およそこの物語は「父性による抑圧や排除を受けて育った少女が、『成熟』した女性になる過程を描いたものだ」といったものです。
それまで姫にとっては「父の言いつけを守る」ことが絶対だったわけですが、初めて「醜いかえると友だちになりたくない(男性の欲望を受け入れたくない)」という気持ちが克ってこれを拒絶し、壁に投げつけたのです。
ここで言う「成熟」というのは「ほかの誰でもない自分になる」ことで、それは彼らの言葉を借りるならば〈個性化〉するということです。
強い父性の下で育った少女……つまり童話の中の「姫」がどんな状況に陥っているのかということについて分析家のシルヴィア.B. ペレラが〈父の娘〉という概念を用いて説明しています。
少し説明を端折りますが、要するに強い父性の下で成功するべくして育った女性は「母性」を拒絶する。内的な女性性が未熟なままであり、自分が何者か分からない。性への不安や恐れから男性と恋愛できる状態にない(男性がかえると化してしまう)ということです。
物語の冒頭で姫が失った「金の鞠(golden ballと英訳されますが)」は“何よりの楽しみ”ですから、彼女の自己を規定するものだったと言えます。「鞠を泉に落としてしまう」ことは自己を見失う(アイデンティティを喪失する)こととほぼ同義と思っていいでしょう。
そして鞠の球形が〈心の全体性〉を表していると見ることができるようです。
なんだなんだ〈心の全体性〉って。
……と、それは一旦置いておくことにしましょう。
さて、一体これまでのお話とアマガミと何の関係があるのかというお話に移りたいと思います。
アマガミには〈父の娘〉のイメージぴったりな女の子がヒロインとして登場するではありませんか。
そうです、絢辻詞です。
3. 絢辻さんの「ボール」遊び
以前の記事で述べたことの繰り返しになりますが、ここで今一度絢辻家の内情をおさらいしましょう
彼女は複雑な家庭環境で育ち、親から承認を得られなかったために優秀な人材として社会から承認を受けることを目標に努力を重ねていました。
「あたし」の行動を裏打ちする価値観とは皮肉にも過剰なエリート意識を持つ父親の写し鏡でありました。彼女自身は力の限り反発しているつもりが、結果として父親の理想通りの娘になろうとしていました。
このイベントは以下のシーンへと続きます。
「絢辻」という姓は父親から引き継いだ「父の名(本当は母子を分かつ父性原理のことを表す用語なので間違った使い方)」そのものです。
このシーンの絢辻詞を 橘純一の何気なく放った「父の名」によって、自身が〈父の娘〉であることを自覚した としてみましょうか。
このときまで彼女は「絢辻詞」自身の価値観で生きていると信じていましたが、いつの間にか大嫌いな父と同一化するために奔走しており、大嫌いな父性を反復していたことに気付きます。
それで「わたしはだぁれ?」と呟いたのですね。「本来の私」を見失ってしまう〈父の娘〉らしさをこの辺りに見出せると思いませんか。
自覚さえしなければ首尾よくやっていけたはずなのですが、橘純一をキッカケに自己を見失ってしまいます。(自覚なくこれを遂げてしまうのが「ソエン」なのです)
ここでようやく彼女と「かえるの王さま」が繋がりを帯びてくるわけです。
何を隠そう、イベントの冒頭で彼女は「バレーボールでリフティングして遊んでいる」んですね。
このイベント、本当に脈略も説明もなく1人で遊んでいるシーンが挿入されますよね。
橘君も不思議がっています。咲野明日夏ならいざ知らず、絢辻さんがリフティングをするのは意外なんです。“しかも、結構上手い”ことから彼女がリフティングのような1人遊びに慣れていることが推測されますね。もちろん家族と遊んでいる絢辻詞を想像するのは難しいですし、幼少期から自由時間にリフティングぐらいしていてもおかしくないですが……
お察しのこととは思いますが、これを思い切って「金色の鞠を放って1人遊びしているお姫さま」になぞらえてお話しさせてください。
先ほども少し触れましたが、「鞠(=ボール)」は〈心の全体性〉の象徴です。というのは、意識や無意識の統合のことです。人格の光も影も仮面もまるっと包含するのが「全体性」ということで、絢辻さんに当てはめて考えれば4つの絢辻詞(「絢辻詞A」から「絢辻詞D」まで)を統合するものと考えても面白いかもしれませんね。
そして橘君と関係していくことで「絢辻詞」の統合が崩れてしまったのは言うまでもありません。
このシーンで言えば橘君が「パス!」と声をかけたことで、「お姫さまが鞠を泉に落としてしまった」ような状況が出来上がったのです。
「橘君のせいで目標が分からなくなること」
……これが強い父性原理で形作られた「絢辻詞」が破綻してしまうことを言っているのだとしたらば、橘純一は「かえる」と「王子」の役割を担っているのではないでしょうか。
この辺りについても後ほどじっくりと解説いたします。
さて、彼が絢辻詞の同一性問題に踏み込む以前には、彼女はどんな風にボール遊びをしていたのでしょうか。
例えば体育のバレーボールでは……
あるいはバスケットボールでは……
これが非常に上手なんですね。
ここにおけるボール遊びの上手さというのはスポーツ上での勝利だけでなくクラスメイトと表面上良好な関係を築くことも含まれます。彼女にとってボールで遊ぶと言うのは自己を巧みに操って成果を積み上げることだといっても差し支えないでしょう。ここでは「絢辻詞A」の作用が存分に発揮されています。要するに彼女が続けていたボール遊びの一側面として「猫をかぶる」ことがあるのです。
……出てきましたね、猫。
これは冗談ですが「猫をかぶる」のは〈場の倫理〉を保つための非常に母性的な振る舞いでしょう。なんてね。
さて、「猫をかぶる」ことの破綻が描かれるのも奇しくもボール遊びのシーンでした。それが例のドッジボールです。
ドッジボールがこれまでのボール遊びと何が違うのか簡単にご説明します。
彼女にとって周りにいたクラスメイトは「友達」でも何でもなく都合よく寄せ集まった人間関係でしたから、バスケもバレーも彼女にとっては実質的に「1人遊び」でした。ゴールを決める、アタックを決める、といった好プレイで称賛を浴びるのは勉強や委員会活動でも同じ。彼女の得意ごとですよね。
しかしドッジボールは違います。どうしたって敵味方のはっきりした「やるかやられるか」の世界ですし、得点も無ければ賞賛も無く「1人遊び」に落ち着くことができません。このシーンで絢辻詞は孤軍奮闘…クラスの女子全員を相手取って戦わねばならないシチュエーションに陥りました。
“誰にも負けられない”絢辻さんがあわや負けてしまう……というところで棚町薫(と、田中恵子)の助太刀が入りまして、そして橘純一がボールをキャッチし、パスしたことで勝利したのです。
まずはこの多勢に無勢の構図が生じてしまった原因を辿ってみましょう。
そもそも絢辻さんがクラスメイトの反感を買ったのはツリーの件で追及された際に「素で怒って」悪態をついたからです。
ここでは「猫をかぶる」ことを捨ててまで橘純一との関係を護ったのですが、これはどういうことでしょう。
「猫をかぶる」のは目標(=社会から承認を得ること)に必要なことだったはずですが、これを捨てたということは目標の方にも変化があったということですね。
つまりここで(無自覚ながら)目標の更新が行われていました。したがってスキBESTでは橘君のそばにいられると本望が遂げられるのですね。
以下、社会から承認を得ることを「古い目標」
橘君のそばにいられるように頑張ることを「新しい目標」と呼びます。
この事件後、ツリーの件について責任を取る形で創設祭実行委員長の座から下ろされてしまうことになりました。
それではさらに遡って彼女にとっての「創設祭実行委員長」とは何かを考えてみましょう。
それはつまりクリスマス会の主催者でありクリスマスツリーの責任者です。
何某かの長を務め上げるのは分かりやすい社会的成功の形ですから、古い目標に沿った動機としては単純明快です。
しかし絢辻さんというのは、「成功」のためとはいえ無闇にトップに立ちたがる人間ではないのです。
絢辻縁や棚町薫など明確な競争相手がいれば別ですが、基本的には目的なく高みに居るのは避けるべきだと考えているようですね。
多少強引な話の持って行き方かもしれませんが、つまり絢辻さんが何かのトップに立つときにはもっと複雑かつパワフルなモチベーションが背景にあるということです。
それでは、そんな彼女をいったい何が突き動かしているのでしょうか?
色々な答えがあって良いと思いますが私は「夢」だと解釈します。
塚原先輩といい絢辻さんといい何故医療職に寄るのかというと輝日東高校のモデルの一つである高山先生の母校、茨城高等学校に「医学コース」があるからだと推察しますが(塚原先輩は高山先生のご友人がモデルだそうですし)
(※2023年7月17日23:44 修正:『アマガミ』発売当時の茨城高等学校には「医歯薬外部連携講座」があったようですが「医学コース」は令和2年に新設されたものでした。ご指摘いただきありがとうございます)
それはさておき「秘密」の方の「夢」についてです。
それはおそらく「サンタクロース」になることでした。
橘純一と同様に、彼女にとってもクリスマスは因縁のある日でした。
幼少期の絢辻詞はサンタクロースを信じていましたが、何かをキッカケにその正体は大嫌いな自分の親(おそらく「父親」)だと知ることになります。
その過程がとても残酷だったと本人は言いますが詳しく語られることはありません。
私は大きく分けて以下の2つの場合が考えられると思います。
⑴「居場所」を授かれなかった
⑵ プレゼントが「不平等」だった
まずは⑴から考えていきましょう
「居場所」を授かれなかったというのはつまり親に認めてもらえなかった彼女が愛に満ちた他者であるサンタさんに救いを求めたということです。
「居場所」をください
わたしを見つけてください
助けて下さい……
というような悲痛なお願い事をしたのではないかと。
どうしてこう考えたのかというと、その根拠はスキBADの台詞の中にあります。
「最初から信じなければ、裏切られる事もないのに、信じて救いを求めてしまう」という過ちを「わたし」が繰り返してしまったのがスキBADのようですね。
“繰り返してしまった”というのがミソで、私はこの過ちの初回に当たるのが幼少期のクリスマスだったのではないかと考えました。
要するに「信じて救いを求めたサンタさんに裏切られた」のです。
「ほしい」という言葉も引っかかりました。まるでサンタさんへのお手紙のようでしょう。
いたいけな子どもが言う「『アマガミ』のゲームソフトがほしい」と……
そういう「ほしい」なのではないかということです。
当然この願いはサンタさんに届くことはありませんから現実を突きつけられたと言うに足るでしょう。
時を戻して高校2年生の冬、彼を信じて新しい目標を胸に生きようとしていた彼女のもとに橘純一は来なかった(スキBAD)わけですから、過ちは繰り返されてしまったと言えます。
一旦この説を飲み込んで見ると浮かび上がってくるのは、これがまた非常にグロテスクな仕掛けなんです。先ほどなぜ「サンタさん」を父親に限定したのかというと、桜井梨穂子の『お父さんサンタ』の話と対になっているように思えたからでして。
これはどちらも「サンタさんを信じなくなったキッカケ」のお話でありながら、その顛末が全く異なっています。前々から絢辻詞と桜井梨穂子の対照的な境遇について思うところがあるのですが、スキルートのクリスマスイベント中に語られる昔話がその集大成に思えます。あるいは絢辻詞も“誰か”との関係修復を願ったのかもしれません。……それが彼女の場合「家族」であった、とか。
まだまだ根の深い問題が眠っていそうですが、ここでは掘り下げることを控えます。
続いて⑵の説ですが、これは⑴に述べたことと少し重なるところもあります。
私が考えるに、彼女が信じていたサンタさんみたいな事とは「平等」に幸せを与えるものでしたから、それが裏切られたとなると突きつけられた現実が「不平等」だった可能性が大いにあります。(論理的には危ういですが)
つまりクリスマスプレゼントでさえも姉妹に優劣の差をつけられたと言うことです。
これは推測になりますが、おそらく彼女がどれだけ「よい子」であろうとしても姉のプレゼントの方がより素晴らしい物だったのです。
あるいは、ある年のクリスマスは「よい子」じゃなかったから彼女にだけはプレゼントが届かなかったのかもしれません。
これはある種、絢辻家のルールなのです。「よい子」でなければときに「わが子」であることすら否定され居場所を剥奪されてしまうのです。
ここで言う「親」もまた何も父親に限った話じゃないのでしょうが。
いずれにせよ、絢辻詞はたとえ些細なことでもサンタクロースの正体は「父」であることを悟ることが出来たのでしょう。
なぜならば姉妹の愛情に差をつけるのはやはり「父」だったからです。
全ては姉よりも父に愛されたいがために、どこまでも「よい子」であったのに、いつも父から優遇される姉は「神様から届くはずの祝福」であるクリスマスプレゼントでさえ優遇されていました。
そんなところから彼女はサンタクロースを信じなくなったのではないでしょうか。
もちろん縁には何の悪気もないわけですが、こういったことが積み重なって姉妹間に溝が生じたのでしょう。
そんな彼女は、自分こそ本当の「サンタさん」になることを誓います。
「よい子」にも「悪い子」にも同様に愛情を注ぎ、同様に居場所を与えてくれる存在になりたかったのです。
これはあくまで一般論のお話ですが、きょうだいを優劣つけることなく「平等」に愛してくれるものは「母性原理」と呼ばれています。
こうして考えてみると、彼女は絢辻家に作用する強すぎる父性原理によって喪失してしまった「母性」を持ちたかったのかもしれません。
なぜ私がここまで絢辻詞の母について触れないかと言うと、そのくらい影が薄く作中では実質機能していないからです。ペレラの言う「父権制の娘は、母との関係性が薄い」ということなのでしょうか。
あるいは母への葛藤は絢辻縁が一手に引き受けてくれているのでしょうか。
まとめると、空想上の「サンタクロース」とは皆の父にして善き母性を有するもの。「わたし」にとってみれば、いわば「親」の理想形なのです。
「サンタクロース」になりたいという「夢」と社会的承認を得たいという「古い目標」……橘君も気付いていますが、絢辻さんはどちらかといえば「夢」のために委員を引き受けていたのです。目的は「夢」を叶えるためであって、その手段として「目標」を利用していただけ……というとややこしい話になってきますね。
整理すると、「素で怒った」前後では「サンタさんみたいな事がしたい」という「夢」を
父親の敷いた「古い目標」の下で叶えるか
橘純一とともに「新しい目標」の下で叶えるか
が切り替わったのだと見てはいかがでしょうか。
創設祭実行委員長を降りてまでツリーを守り、パーティを生徒主動で執り行ったのは「サンタさん」にこそなれませんでしたが「サンタさんみたいな事」としては最低限その役目を果たせていると見て良いでしょう。私はスキルートが「夢」をも諦めた末のものとは思えませんから。
ここでは敢えて分けましたが「夢」も「目標」も同じものだろうと言われればそんな気もします。彼女の場合はどちらも「居場所がほしい、自分を見てほしい」ということを出発点としていますから、全く別物と言い切らなくっても良いでしょう。
この辺りは理屈っぽく捏ね回すだけ野暮かもしれませんが、これを読んだ皆さまにもぜひ考えていただきたく存じますわ。
スキBESTが少し破滅的だというご意見もありますが、私の持論を述べますと、たとえ「親の心子知らず」であっても実はスキBESTに近い方が「成熟」しているので中年期以降も安定してハッピーなのではないかと思います。が、それはまた別の話。
ちょっとお話は戻ります。
「古い目標」のために始まった絢辻さんのボール(≒アイデンティティ)遊びでしたが、彼女は挫折してしまいました。やはり強すぎる父の影響に囚われた「絢辻」──大嫌いな父と同一化する自分自身──を見つめてしまったからです。
さて、そのほかに絢辻さんのエピソードに登場するボールのお話といえば「Kissing Ball」でしょうか。
絢辻さんも言う通り、このヤドリギとキスのお話は北欧神話に由来する伝承です。
なんだか、またもメルヘンの香りがしてワクワクいたします。
ここで僭越ながら由来となった神話の内容をザッと説明しましょう。
お話は、フリッグという女神が自身の息子であるバルドルを不死にするべく、ヤドリギを除く世界中の全てのものと「息子を殺さない」契約を結ぶところから始まります。
北欧神話は契約を重視する世界なのです。神を含めた森羅万象が契約を結んでおり、全てはその縛りの中で存在します。
ヤドリギはそんな北欧神話の世界において唯一「契約を結べない」ものとして語られる存在です。
その理由はヤドリギが「半寄生」の植物であり、いわば親に養われている幼い子どもだからなのですね。
結果これが祟ってバルドルはヤドリギを突き刺されて死んでしまうのですが……
すったもんだがありまして、息子のバルドルは再生します。
この死と再生を祝してヤドリギを愛の象徴として扱うようになり「kissing under mistletoe」の習慣ができました。諸説あり。
投げやりな説明で申し訳ありませんが、ここで大事なのは主に前半部分であります。
「kissing ball」ことヤドリギは「半寄生」の自立していない存在であって、通常、大樹の力を借りて生きています。
このヤドリギで出来たボールがもし絢辻詞の「金色の鞠」……すなわち自己の一つの形だとしたらばどうでしょう。
彼女が「キス」と「契約」にこだわる理由をここに見出すことができるのではないでしょうか。
橘純一と対等な関係でキスをするとき「契約」が成立します。このとき初めて彼女は「半寄生」状態を解くことになるのです。
あるいは本物の指輪を欲しがっている(40, 46)のも同じ理由かもしれません。
橘純一との契約、あるいは社会との契約が「絢辻家」の大樹から独立させてくれるのですから。
……いいえ、これが全く的外れでも構いません。「クリスマスツリーに飾るオーナメント一つとってそんなに深読みしようとするのはどうなんだい?」と思われても仕方のないことです。
この先はまた一段と話が妖しくなってまいりますが、どうかご容赦ください。半ば都市伝説を楽しむようなおつもりでご覧いただければと思います。
ここから始まるのは「クリスマスツリー」そのものについての考察です。
4. ツリーを奪い合う〈父の娘〉たち
「木」といえば内面の成長、成熟……つまり〈個性化〉のシンボルでありまして「かえるの王さま」にも冒頭に巨大な菩提樹の木が描写されています。その他にもエジプト神話においてはオシリスの棺を閉じ込めた「イチジクの木」のお話がしばしば〈個性化〉と結びつけて語られています。
先ほども述べた通り、絢辻さんにとって「創設際実行委員長」はクリスマスツリーの責任者という重要な意味の含まれたポジションでありました。
立派なクリスマスツリーを実現させることは「サンタクロース」を体現することと同義で、これが「わたし」にとっての「成長」であり「夢」だったのですが、これを妨害する勢力として立ちはだかるのが黒沢典子です。
彼女がどんな人物であったか振り返ってみますと……
なんとまあ彼女も見事な〈父の娘〉ですよね。
絢辻さんが「半寄生」とするならば黒沢典子は「寄生」にほど近いです。
彼女は市議会議員である父親の権威を利用して根回しを行い、絢辻さんから「創設祭実行委員長」の座を奪おうとしました。その原動力は単なる橘君がらみの嫉妬と横恋慕ですから大したものです。
ナカヨシルートでは絢辻さんが黒沢議員に直談判することでこの対決に勝利し、「古い目標」を残したまま「夢」を叶えました。それに対してスキルートでは対決から降りることで彼女にその座を譲りました。もちろんその結果、セレモニーはグダグダになりました。
しかし因果応報という落とし所ではなく、男子生徒との幸せな恋の予感を醸して終わります。絢辻詞はそんな黒沢典子すらも祝福できるほど「平等」なクリスマスを強く願っていたのです。
ただお話がここで終わらないのが『アマガミ』のニクいところですけれどね。
外伝的作品の中でのお話ではありますが、相手の男子生徒のちょっとした裏切りにより取り残されて彼女のロマンスはその日のうちに終わってしまいます。
本編にそのまま適用してよいかは些か疑問ですが、いずれ終わるインスタントな恋愛であったことと、彼女がいまだ父親の威を借り続けるであろうことが示唆されているのでした。
そしてこの急速なガッカリ具合ですが、これはひょっとすると若者言葉で言うところの「蛙化現象」ですよ。
それは別としても彼女はどこか根本的に惚れっぽく、異性に「王子さま」の幻想を抱きやすいことが伺えます。
そんな黒沢典子から一方的に想われているのが橘純一。この恋心には一体どんなきっかけがあったのか……気になるところですが、全くの謎です。
いや、むしろきっかけは謎(橘純一は覚えていない些細なこと)であることが重要なのです。
絢辻さんの推測によれば、要するに彼が無自覚に振り撒いた無償の優しさに惹かれたのだろうとのことです。
言ってみれば絢辻詞にとっても橘純一の無償の優しさは魅力的であるということです。無論そんなものは全女子、全人類にとっても同じく好感を抱くことには変わりないのですが。
原初、橘純一は「王子さま」であったのです。
けれど彼はいつからかポルノ野郎……もとい醜い「かえる」になってしまいました。
『かえるの王様』の物語になぞらえて考えてみると、さればこそ橘純一には〈父の娘〉と邂逅する宿命的な性質があるようです。
ここからは橘純一が「王子さま」から「かえる」に変貌してしまったとある事件についてお話ししていきましょう、げこげこ。
5. 「ファラオ 謎の入り口」をあばく
そもそもなぜ『かえるの王さま』のお話をしなければならなかったのか、その核となるのが遊園地デートイベントにおける「ファラオ謎の入り口」です
ここまで一切のファンタジー要素のなかった『アマガミ』ですが、突如として放り込まれる異質な超常現象に面食らった方もいらっしゃるのではないでしょうか。
しかしここまで読んでくださった方ならば既に「ああ、またメルヘンか」と受け入れる態勢が出来ていることでしょう。
ナンセンスなギャグシーンとして受け止めれば良いというのもごもっともですが、ここは一度真正面からメルヘンとして承ってみますから、皆様は肩の力を抜いてお読みください。
まずは「ファラオ」についてちょっとしたおさらいです。
そもそも「ファラオ」というのは言わずと知れた古代エジプトの専制君主のことで、元々は「大きな家」という意味の言葉だそうですね。
ファラオとなった人物は、エジプト神話の神ホルスの化身として絶対的な権力を得ることができました。これまたメルヘンですが、この経緯についてものすごーくざっくりとしたエジプト神話をお伝えすると
太陽神ラーが現世の王位(=ファラオの座)をオシリスに授けた
オシリスの弟、セトはこれに嫉妬し、オシリスを棺に閉じ込めてナイル川に流した
棺は流れ着いた地でイチジクの木に包まれてしまった
イチジクの木は棺ごと宮殿の柱として使われていたが、それをオシリスの妹であり妻であるイシスが探し出す
何とかオシリスの入った棺を取り戻すがセトに見つかりオシリスの遺体はバラバラにされた挙句エジプト中にばら撒かれる
イシスはエジプト中を探し回りほぼ全てのパーツを手に入れるが、唯一魚に食べられてしまった男根だけは手に入らない。
イシスは彼の男根を除く全てのパーツを繋ぎ合わせてミイラを作り、オシリスを復活させる。
男根がなかったので流石に現世には生きられなかったが、代わりに冥界の王として蘇った。
イシスとオシリスは交わりホルスが生まれた。オシリスは現世の王位をホルスに譲り、ホルスは現世の王(ファラオ)となった。
と、こんな感じでございます。
ファラオとホルスの関係をお話しするふりをして、本当に言いたかったのは先ほど「木」の話をするときにも触れた「オシリスの棺」のお話です。
一度殺害されたオシリスは、妹にして妻であるイシスによって復活させられました。この死と再生、そして変容こそが〈個性化〉過程のキーになると考えられているのです。
そろそろお話を『アマガミ』に戻さなくてはなりませんね。
つまり橘純一とはオシリスです!!
『アマガミ』では安易に人間の死が描かれることはありません。しかし橘純一という男の子は「2年前のクリスマス」に一度象徴的に死んでいるのです。
いわば『アマガミ』はそこから立ち直る「死と再生」そして「変容」の物語であると言えます。
そういった意味で彼にとっての「棺」は「押入れプラネタリウム」であり、前回の記事でも申し上げた通りこれは彼の「胎内回帰」であるわけです。(『アマガミSS』1話で自然と胎児姿勢を取る橘君が見れます)
そんな彼を励まし、再生を手伝ったのは妹である美也ですから、神話に当てはめるならば彼女はイシスの役目を担っていると考えて宜しいでしょう。
……なんだか話が段々メルヘンからオカルトとかスピリチュアルに変わってきたわね
オカルトついでに、大変興味深いものをお見せいたします。
なんと今お話ししたオシリスもイシスも「押入れプラネタリウム」にしっかりと描かれているではありませんか。
ここでは詳しいお話はいたしませんが、要するにエジプトには「オリオン座」をオシリス、「シリウス」をイシスと見做す文化があるということです。
もちろんこれらは12月の夜空ならば見えて当然。いわゆる代表的な冬の星座にすぎません。「2年前のクリスマス」に彼が見上げていた星座をそのまま映し取っている……というオシャレな演出の一環だと見るのが健康的でしょう。
ただ、私はアマガミ世界最大級のオカルト「ファラオ 謎の入り口」に挑むにはこちらもオカルトという毒をもって制する覚悟が必要であると判断いたしました。
一旦オシリスやイシスのお話はそういうものだと思って置いておくことにしましょう。
このアトラクションにおいて大切なのは象徴的な「死と再生」そして「変容」の部分です。
ファラオはエジプトの政治の最高権力であると同時に儀式の主催者でもありました。
とどのつまり何が言いたいのかと、このアトラクションは「呪い」を受けている自己を内省し、象徴的な死と再生を体験するための言わば「イニシエーション(通過儀礼)」であるということです。
難しいことはさておき、この「呪い」という点についてお話しましょう。
天の声いわくヒロインたちがキングによって変貌させられる姿は「真実の心」を反映したものだそうです。
ここでいう「真実の心」はまさしく「呪い」を受けているおのれの姿と言い換えると宜しいかと思われます。
その「呪い」はファラオ……つまり「王」の呪いである、とすればやはり「父性」の呪いでしょうか。もう少し意味を広くとって「親」の呪いとしてもよいでしょう。
……と言っても決して彼女らの親世代の罪を咎めたいわけではありません。彼女らは「呪い」とも言える抗いようのない強い力によって自己がこのように形取られていて、その力の源こそが「親」や「父性」によるものだと言いたいのです。
絢辻詞の場合は「つかさ」という幼少期の彼女自身の姿に変貌します。これはいわゆる「絢辻詞D」である「わたし」とも違い、小学生時代の「つかさ」なんですね。
これが彼女の「真実の心」だとするならば、絢辻詞は父性の呪いを受けて〈永遠の少女〉と化していることが伺えます。
〈永遠の少女〉というのは、リンダ・シアーズ・レナードという分析家が提唱した概念です。
彼女の見解を簡単にご説明すると、〈永遠の少女〉というのは「父-娘関係に傷ついた女性が陥りやすいとされる状態」です。
〈永遠の少女〉を心に抱えた女性は、他者に期待されるままに役割を演じたり、いつまでも何かに依存して生きていたり、時に空想の世界に逃避したりします。実際は自分自身の生き方というものを持っておらず、自分が何者なのかが分からないのです。
先ほどから述べてきた〈父の娘〉とも密接に関係しています。今さら言うことでもありませんが、絢辻詞というキャラクターそのものが〈永遠の少女〉のようです。
「ファラオ 謎の入り口」に戻りましょうか。
このイベントには続きがあります。ヒロインの変貌後、絢辻詞のルートにおいては唯一以下のような選択肢が設けられているのです。
要するに「つかさ」に意地悪をするためにその場に取り残すか否かです。
上(取り残さないこと)を選択したら、そのまま一緒に出口に向かう流れになります。以下の台詞はそちらの選択肢を選ぶことで聞けるものです。
これはこのイベントにお決まりのフレーズで、同様のセリフを桜井梨穂子、中多紗江から聞くことができます。
「ずっとこのままなのか」を彼に問いかけるのは、このような呪われた姿から変容できないのか? ということを橘純一に問うているわけです。
ファラオの口ぶりから察するに、これがヒロインたちの「願望」なんだろう? とは言っても、やはりそれは彼女たちにとっては死活問題であり、自分を縛っている「呪い」を解いてしまいたい気持ちの現れに他なりません。
この「呪い」を解くためには出口を探して建物の外に出るか、あるいは特定の条件を満たす必要があるようです。
またこの「条件を満たして呪いを解く」という点が非常に興味深い点ですね。
そこには彼女たちが成熟し、本来的な生き方を選び取るための「鍵」が隠されていると見て良いでしょう。
さて先ほどの選択肢ですが、逆に取り残すことを選んだ場合はどうなるのかというお話です。
そもそも意地悪のために絢辻さんを取り残して困っている様を見てやろうというのは、スキBADを好んで見ようとする『アマガミ』プレイヤーの趣味とバッチリ符合しているのです。
ここで戒められている不徳というのはそういった悪趣味さであり、実は作品全体を通じて語られる巨大なテーマなのです。
さて、この不徳に対する報いとして橘純一が「かえる」に変身させられてしまうのですね。
長いお話の末、ここでようやく『かえるの王さま』と繋がるわけです。
これについては今からじっくりと語っていきたいところですが、まずはどうして彼が「かえる」になるのかというところから考えていきましょう。これは勿論、かえるというのはおたまじゃくしから「変態」した姿ですから、幾度となく繰り返す変態行為を象徴しているのですが
「かえるの王さま」から類推するに、どうも橘純一の変貌にも「悪い魔女の魔法」が絡んでいるような気がいたしますね。
王子さまにかけられた「悪い魔女の魔法」ってそもそも何でしょう?
結論から申し上げると「恐ろしい母性」の呪いです。
なぜかと問われるとまたお話は長くなりますが、グリム童話に出てくる「魔女」というのは意地悪な継母(ときに実母)であるのがお決まりのパターンなんですね。みなさんご存知の『ヘンゼルとグレーテル』『白雪姫』などを思い浮かべていただければお分かりのことと存じます。
そうですね、「母性」の両面性のお話をここでキッチリと片付けておきましょう。
前回もたっぷり述べましたが、まずは七咲逢を思い浮かべてください。
彼女は歳上の橘先輩に対しても保護的な、と申しますか。まるで母親のような態度で愛情を注いでくれるわけです。
相手が先輩であっても物怖じしないので彼の逸脱行為はキチンと律するし、褒めるべき点は惜しげなく褒める。橘純一の長所を育ててくれる大変良い「母性」を持っていると言えましょう。
このような「母親のやさしさ」的なイメージを〈善母〉といいます。
いやいや……弟の世話は責任を背負いすぎて空回ってるし、スカートのポケットに手を突っ込んで肢体を弄られてもキチンと拒絶しないし、真面目な部活動中にも関わらず目隠しプレイを受け入れるし、浮気を許して海辺で膝枕するし、甘やかしすぎて対象ごと破滅させていくのではないか……? というような母性の否定的側面を多分に抱えているのも事実です。このイメージを〈悪母〉といいます。
〈悪母〉の例で言うと他にも束縛が強いことであったりとか子どもの自立を妨げるものであったりします。
七咲逢がこの「母性」の両面性、葛藤をモチーフにしたヒロインであると言うのは黒猫「プー」を絡めて説明してきました。詳しくは前回の記事をご覧ください。
https://note.com/tenpanco/n/nf7709bcf8a14
『モモちゃんとアカネちゃんの本』をある種『アマガミ』世界の「ルール」と見て考えたとき、『アマガミ』でも「母性」を持った人物は「黒猫」と分裂して対立するのです。
七咲の話は一旦置いておくとして、ここで大事なのは〈悪母〉です。これは先ほど述べた通り「悪い魔女」の持つ「恐ろしい母性」と言い換え可能でして、〈悪母〉は極端な束縛や過保護で堕落させてしまう性質を持ちますが「かえるの王さま」の「かえる」もこれによって堕落した子どもの表象ではないかというのです。
「泉」から抜け出せない「かえる」は〈悪母〉の下から自立できない……“精神的な死”に瀕している子のさまと見ることができますね。
そして橘純一にも同じく〈悪母〉の呪いがかけられていると。なるほど。では橘純一にも「悪い魔女の魔法」がはたらいているのだと解釈しつつ先ほどまでのお話を踏まえると、「泉」とは「押入れプラネタリウム」のことだと考えれば宜しいでしょう。
彼に魔法がかかった契機として考え得るなら「2年前のクリスマス」と見るのが妥当ですわね。
そう考えてみると、橘純一にとっての魔女というのは「蒔原美佳」のことなのでしょうか?
あるいは彼の実の母親かしら?
あるいは……
魔女探しについてのお話はまた後ほどすることにしましょう。
何はともあれ橘純一があの日から醜い「かえる」に変貌してしまったのです。“もう少しだけ意地悪してやるか”という選択は嗜虐的なばかりでなく絢辻詞の抱えている問題と向き合わず逃避してしまう彼の弱さの現れでもあります。さらに少し大袈裟に言うならば「取り残す」ことは幼女相手に2年前のクリスマスに受けた仕打ちの憂さ晴らしをしているとも取れるでしょう。
何もそんなに目くじら立てるようなことではないだろう……という甘えが七咲のスカートを捲って泣かせたり、女教師を突然抱きしめたり、女子更衣室を覗いたりするような事態を招くのです。
彼には大きく選択を誤らせるような素因があるということですよ。何も彼を責め立てようというのではありませんで、これが悪い魔女の魔法によって「かえる」化した橘君だというわけです。
「かえる」の象徴するものはそんなところだとして、暫しこのイベントはどう展開していくのか見てみましょう。
“おまえもひとりなの?”という言葉には非常に重みがあります。橘君も絢辻さんもやはり「ひとり」にされてしまった者同士なのですから。
ここからは「かえるの王さま」のお話とも照らし合わせつつ読んでいきましょう。
ここが絢辻さんの人となりの素晴らしいところなのですよね。
「でぐちにいきたいんでしょ」というのは「このアトラクションから抜け出して一緒に呪いを解きたいでしょう」ということです。一見突き放すような態度を取りますが「呪い」のかかったおのれを自覚した上で橘君と共に乗り越えようとしているのです。
これはナカヨシルートで彼のトラウマを詮索してしまったことへの反省の台詞からも伺えます。
たとえ相手が醜い「かえる」であっても拒絶することなく受け入れ、孤独を癒そうとするのが絢辻詞という少女ですから、これは疑いようもなく素敵な人ですね。
さて、そんな橘純一と絢辻詞の両者を縛る「呪い」を解消する方法がどう描かれているのか覚えておいででしょうか。
彼らは直感的に理解しましたが、つまり“たかいところ”にあるボタンを押すことで彼らの呪いが解かれるのです。
一つ大事なのはボタンの位置が高所であることですね。
彼の「高所恐怖症」という設定を鑑みるとそれはまさしく高いハードル、試練と呼ぶべきでしょう。
遊園地デートの前半部では彼の高所恐怖症を絢辻さんが面白がる場面が見受けられますし、意図してこれを克服させるという構造になっていると見てもあまり無理のない解釈であると思います。
この「高所恐怖症」は一体何の表象でしょうか。
もちろん彼の場合、厳密には恐怖症性不安障害のそれか「高所恐怖癖」と呼ぶべきか、ここでは問いません。ことさら彼にとっての「怖いもの」を描写ということは、やはりこれもトラウマに関連するのでしょうね。
私が思うにこれは彼の〈去勢〉への不安である、と言いたいですわ。
あんまり突くと難しい話が山ほど出てきますので表面的なことを述べますが、〈去勢〉とは「母性愛で得られる万能感を阻害する父性」と言えば、何となくお分かりいただけるかしら。彼が女の子に対して消極的になっていたのは2年前のクリスマスに万能感を損なったからであって、それが彼の〈去勢〉への不安を植え付けるものであったと。
全ての恐怖症を〈去勢〉への不安に還元するのは多少無理のある話だということは承知の上で、『アマガミ』内ではどう機能しているのかというお話をします。
彼の「高所恐怖症」が現れるのは大体「スキ」のクリスマスデート中なのです。
要するにこれからまさにヒロインと結ばれようとしているときに、ロマンチックなデートにケチをつける要素として「高所恐怖症」が働いているのです。裏を返せば恐怖を乗り越えて恋愛を成就させる最後の関門ですね。
特に彼にとって「ポートタワー」はそびえ立つ恐怖のシンボルのようです。彼は上らずとも見るだけで怖いと言ってこれを忌避する傾向にあります。
(……それが〈去勢〉だと言いたいのです。「ポートタワー」……オシリスの欠けた身体……わかるでしょう?)
絢辻さんとのデートイベント(42, 52)や『ちょおま』(『Grown up!』)等での台詞から察するに公園は6,7年前からあったようですがポートタワーは少なくともここ3,4年以内に出来た新しい施設であります。流行りものに敏感な薫も訪れたことがないことを踏まえればごく最近建ったと見て良いでしょう。
作中に新しく出来た恐怖の対象を置く意図を考えれば、これに挑戦することがトラウマ解消と間接的に繋がっていると思ってよろしいかと思います。
「ファラオ」の話に戻りますが、「かえる」になった橘君をじゃんぷさせることの重要性がお分かりいただけたかと思います。
ここでもう一つ大事なことはボタンが「壁」にあり、つかさが「かえる」を「壁」に投げつけるという点です。
これがしつこく申し上げている通り『かえるの王さま』のモチーフであると、私はそう解釈したのです。
「かえる」を「壁」に投げつけることが強い父性に呪われた少女の成熟を促し、「かえる」もまた〈悪母〉の呪いを解消し「王子さま」の姿に変わる。
これがこのアトラクションの構造なのではないでしょうか。
これを経て王子さまは「若い王さま」に変容しお姫さまは「若い王さまの妻」として別の国で生きることができるのです。
この「壁」が「押入れプラネタリウム」の襖だとか、あるいは『超初期人物相互関係図』にある「美也の防御壁」だとか、橘純一にとっての何に当たるのかを考えてみるのも愉快でしょう。
さらに余談でもう一つ「かえる」のお話をすると、絢辻さんが手帳の件で連れて行った例の神社はどうやら「蛙の神様」を祀ったものであるようですね
これにはどんな関連性があるのかは分かりませんが「再出発点」に設定するような重要な舞台にまたも「かえる」が絡んでいるというお話でした。
「ファラオ 謎の入り口」がこういった通過儀礼のイメージを内包しているということがお分かりいただけたかと存じますが、これは何も絢辻詞に限ったお話ではございません。次の章ではザッと各ヒロインの変貌が何を象徴しているか考えたことを纏めていきたいと思います。
と、その前に……
これは本当に余談なのでご興味の無い方は次の章まで読み飛ばしていただいて結構です。
ファラオの言う「真実の鏡」が何を表しているのか、少々疑問が残ります。
私の調べた限りではファラオと「真実の鏡」との間に明確な関連性はありません。考えられるモチーフとしては『ドラゴンクエスト』シリーズに登場する「ラーの鏡」に近いでしょうか。「太陽神ラー」の力で真実を映し出すという設定がファラオ(=ホルス)と繋がりますが、エジプト神話の中にそのような物語はありません。むしろ日本の神話における太陽神(天照大神)と「八咫鏡」の関係の方が近いでしょう。あるいは「照魔鏡」や「浄瑠璃鏡」……真実を映す鏡という設定自体、どちらかといえば中国や日本の伝承に多く登場する印象があります。
ファラオに寄せるならばホルスの左目「ウジャトの目」が、全てのものを見通す力や再生の力を持つという点でモチーフとして合っている印象があります。
余談ついでにもう一つ気になるセリフについてのお話です。
キングの言う「千年王国」についてですが、これまた全く別の文脈で使われる用語です。
千年王国というのは主にキリスト世界の言葉で「神が再臨して地上を支配する千年間のユートピア」のことです。人は「懺悔」することでここに参加できます。
その千年が終わるといよいよ終末でして、ここで最後の審判によって救済されるか呪われるか決定するわけですね。救済を受けた者は天国で永遠に生きられますが、呪いを受けた者は地獄で永遠に苦しみ続けなければなりません。キングの言うように罪を自らの身で思い知ることは「懺悔」に繋がりますから千年王国に関係しますが「千年王国の呪い」というのは何でしょう。「呪い」が決定するのは千年王国が終わってからですから、千年王国が何を呪うのか、なぜ呪われるのか、少しばかり不可解です。
そもそもエジプトのファラオとキリスト世界とモチーフがバラバラであって、「単に異世界の表象として神話を用いている(遊園地のアトラクションにありがちな)演出」と見ればここに整合性を持たせなくても良いのかもしれません。(もちろん一部の方はホルス≒キリスト説を唱えているようですが、大方この説は否定されています)大体なぜこのイベントが異質かというと「クリスマス」という大きなキリスト世界のモチーフがありながら唐突に「ファラオ」が登場するからでしょう。そんな風に考えていくとこのアトラクションそのものが神話的な象徴から少し距離を置いた造りになっているのかもしれません。したがって無闇にこじつけるのも健康的で無いのです。あくまで私の趣味で深読みを面白がっているだけであって、矛盾をあげつらうようなことは決して本意ではありませんわ。
そうすると考えるべきなのはファラオの呪いがなぜ「鏡」である必要があったのかということですが、これは〈鏡像段階〉の理論ですとか、絢辻さんが鏡を嫌うことなどを絡めて説明できるでしょう。これを取り上げるとあまりに煩雑な考察になってしまいそうなので、ぜひまたの機会に。
6.アマガミヒロインの「呪い」
まずは各ヒロインが何に変貌したのかを改めて確認してみましょう。
絢辻詞……「幼少期の自身」
中多紗江……「辞書」
棚町薫……「男子高校生」
桜井梨穂子……「橘純一のTシャツに張り付いた顔」
森島はるか……「ポメラニアン」
七咲逢……「ラーメン」
絢辻詞は先に述べた通りとして、その他のヒロインについては1人ずつちょっとした考察を並べて行きたいと思います。と言ってもかなり駆け足気味に暫定的なことしか言えませんのでこの段はまた別の機会にじっくりと練り直すかもしれません。
中多紗江
中多紗江の「辞書」は比較的分かりやすいですね。紗江ちゃんが厳格な父親から少々度が過ぎる保護を受けて育ったことはご存知かと思いますが、その父親というのがある出版社の社長なのです。それを踏まえた上で彼女の「呪い」を受けた姿が「書籍」の形をしていることについて思いを馳せてみましょう。
紗江ちゃんは父親の方針によって女子校という極端に異性との接触が少ない閉鎖的な環境で過ごしていました。その結果激しく人見知りする性格に育ち、特に男性に対しては萎縮してしまい上手く話せなくなってしまう。
……というのはデアイの時点で見えてくる中多紗江のキャラクターイメージです。深く関わっていくにつれて彼女は案外「積極的」であることを私たちは思い知ることになりますね。ただそれすらも実は父親の影響が大きい。橘純一のような歳上の男性から少し父性的な振る舞いをされると悦んで受け入れてしまうのです。それが「教官」プレイであるわけです。
これこそが彼女の父親によって形成された「辞書」型の娘でありましょう。出版社の社長であるところの父親が作り上げたかったものというのは当然のように「書籍」の形をしているのです。書籍は出版されてしまえば不変のものでありますから、つまりは娘の変容を妨げてしまうものでもありました。
そうなんですね、紗江ちゃんこそ強い父性の下に育った〈父の娘〉型の「お姫様」であり、「王子様」を待ち望むヒロインなのです。
「かえる」になった橘先輩に「王子様」性を早くも見出した紗江ちゃんはどのヒロインよりも先手を打って橘純一に猛アタックします。それがトラウマ体験の想起刺激となって橘純一が尻込みしてしまうのがスキルートなのです。
それにしてもこの積極性、父親の抑圧の下にありながら……いや、むしろ強い父性の影響下にあったからこそ紗江ちゃんには異性への並々ならぬ好奇心が培われていたということです。
しかもそれは他者の欲望に応答するように顕在することで満たされる性的好奇心を内包しています。つまりどういうことでしょう。
ピンと来ない方に説明しますと、“こんな単語”にマークしてあるというのは、辞典に載っている性的な語彙を次々に見つけ出してはマークするという娯楽のことでして、「思春期男子あるある」の典型を表現したものですね。
何故これが中多紗江の「真実の心」にも施されているのかと言えば、それは内面化された思春期男子のような他者にマークされることを希求しているからでしょう。
決して彼女を貶めたいのではなく、そう分析すると「ミルクフォーチュン先生」に変身する理由の説明がつくと言いたいのです。
ミルクフォーチュン先生といえば露出の多い過激な衣装でコミケッツに参加する「姫」であり、(こう言っては何ですが)多くの他者の欲望に応答することが愉しみであるわけでしょう。
余談ですが、実はこれって橘純一の〈去勢〉への不安とは表裏一体の関係にあって、「欲望に応答したい」というのはすなわち……「ポートタワー」になりたいと、そう思うことなんです。言葉を濁しました。
彼女とソエンになった結果がこれならば、放っておくと紗江ちゃんはずっと父の下にある「お姫様」であるということです。そして『輝日東男子高等学校2年A組』の著者であることから分かる通り、彼女もまた父親と同じように他者を理想の形に「書籍」化するのです。
そして彼女にかかった呪いを解く方法とは「カバー」を外すことでした。「カバー」とは「衣服」であり彼女にとっては行き過ぎた父の保護のことでしょう。
彼女が制服の可愛さに惹かれてアルバイトを始めよう(21, 28)としたり、変態的な早着替えの特訓(11, 27)であったり、彼女が「着ていた衣服を脱ぎ」そして「新しい衣服を着る」時には親離れ的な成熟のイメージが付き纏うわけです。スキBESTのクリスマスデートではコートを脱いで“先輩の好きそうな服”を見せ、スキBESTエピローグでは素敵なマタニティウェアに着替えるのでした。
彼女のカバーを脱がして「生まれたままの姿」にさせることで中多紗江の本当に着たい服を選び取らせることが父性の呪いを解く鍵となるのでしょう。
棚町薫
薫は男子高校生の姿に変貌しますが、これはどうでしょう。
こんなこと言ったら怒られると思いますが、彼女の場合「ポートタワーを手に入れたい」という「呪い」にかかっているのかと思いますわ。
それはつまり棚町家における「父親の不在」が棚町薫に男性的に振る舞うことを強いていることを指します。
これは言うまでも無いのかもしれませんが、幼い頃に両親の離別を経験した薫は母親と2人で暮らすことを選択しました。以来、金銭面で母親に負担をかけさせないようにアルバイトをしたりだとか、あるいは繊細な感受性がありながら他人に弱みを見せないよう気丈に振る舞ったりだとか、家庭が「以前と変わらない」ように代償して生きてきました。それは欠けた父親をの役割を補填するためであり、いつしか彼女自身が父親と同一化していたのではないでしょうか。
母親の再婚を拒絶したのはそのためであり、母娘関係の間に擬似的な夫婦(恋愛)関係のような「意地の張り合い」が生まれたのです。きっと彼女は親友の田中恵子にもその関係性を投影しており、恵子に近づく不埒な異性を「男性的に」排除する役目を担っています。
スキBESTのクリスマスイベントでは橘純一が「ポートタワー」──棚町薫の「父親」──を克服して恋愛関係を結ぶことで、彼女が母親個人の幸せについて考えられるようになったのです。
この「呪い」を解くためには(冗談で)男性としてデートを続けようとする棚町薫から逃げる必要があるということではないでしょうか。根本的な解決にはなっていませんが「誰かが人を好きになる気持ちってやつ」が分かるためにはまだ時間が必要そうですからね。
余談ですが「オシリスの棺」がナイル川を流されていくことを考えればスキBADのアレは「死と再生」をやり直す上では最高です。
桜井梨穂子
梨穂子は純一が着ているTシャツになります。
これに関しては占いの結果という形で一定の「答え」が用意されていますね。つまり、梨穂子は彼とずっと一緒にいたいし、純一は彼女にやわらかく包まれたい と。
これで終わりでも良いのですが、本当にそれが幸せなのかというお話です。まことに幸せならば「ずっとこのままなのか」悩む必要もなければ「呪い」を解く必要もないのでしょう。
ここではやはり純一が梨穂子をどこか「Tシャツ」のような日用品(包容力を享受する道具)として扱ってしまっていることにキチンと気づき、梨穂子がそれを拒絶する(人間として一緒にいたいと宣言する)というプロセスが大事なのです。彼らにとってただ一緒にいることはさして難しいことではなく、問題は明確に恋愛関係へと発展した上で一緒にいられるかということなのですから。
非常に面白いのがここからです。Tシャツに貼り付くという現象の元ネタが『ど根性ガエル』であることを忘れてはなりません。純一の幼馴染周りは『ど根性ガエル』を由来とするルールがあるのか、寿司屋の「梅さん」こと梅原との関連も気になるところです……
問題はそこではなくって呪いによって「かえる」に変貌している点ですよ。
これは一体どういうことでしょう。「かえる」に変貌するのは〈悪母〉の呪いが関係するのではないのでしょうか?
これにつきましては私の考えは大きく分けて2通りあります。
まず1つには、梨穂子もまた2年前のクリスマスに傷ついた1人であること。これは大いに考えられますね。つまり他の女の子に贈るプレゼント選びに協力までした梨穂子は心から純一の幸せを願っていたのに、残念な結果に終わってしまったのですから。
そして責任を感じてしまい、それから純一の傷を悪化させないように距離を取って付き合うことが日常化してしまったのならば、これは純一と同じ「呪い」にかかっていると言えなくもないでしょう。
もう1つには梨穂子自身が母親との結合が強すぎる可能性を考えなくてはなりませんね。
無論、母娘関係が良好なことに越したことはありませんとも。しかしちょっとばかし高校生としては身の回りのことを母親に頼りすぎているようにも思えますわね。実を言うと桜井家は『アマガミ』屈指の母性が強い家庭であり、そのことを作中で指摘する人物がいるのですが、その人物については後ほどゆっくりと考察いたしましょう。
他にも梨穂子はおうちデート中に母親が帰ってきて良い雰囲気が途絶えてしまったり(33, 12)「……一方その頃」でお馴染みの「しゅないだー」との会話中に母親が話しかけてきたりと、全く悪気はないけれど母親にジャマされてしまう展開が多いのです。特にレベルアップイベントは数少ないヒロインの独白であり恋愛について自問自答する非常にパーソナルな時間ですから、この場面に干渉するのは割と大ごとだと思いますね。なにしろ13歳の誕生日に純一がくれた「しゅないだー」(もちろんこれはドイツの精神医学者クルト・シュナイダーに由来しますが)だけには家族にも言えないようなことを全部打ち明けて対話出来ますし、時には励ましの言葉を貰って生きてきたのですから。「しゅないだー」が特別なのは実はそれだけではないですね。背景CGからは彼女の部屋にあるぬいぐるみの類は「しゅないだー」を除くとあとは全てクマであるように見受けられます。彼女自身クマグッズを集めていると言っていますし誕生日プレゼントにクマのキーホルダーをくれることもあります。可能ならばペットでクマを飼いたいとすら思っている様子です(シリアイ会話 Turn 1 Low「世間話」)相当クマが好きなのでしょう。実に梨穂子らしく可愛らしい趣味です……が、ちょっとヘンなのは棚の上に飾ってある「木彫りのクマ」……そして「『熊出没注意』と思わしきの標識」……
やっぱりちょっとヘンでしょう。これはキャラクターとしてのクマグッズというより何かしら動物としてのクマに何か因縁があるように思えて仕方ありません。
幸い今回のテーマはメルヘンなのでクマを何らかの象徴として捉えてみましょうか。となるとやはり子グマを守る母グマのモチーフでしょうか。うんざりされるかもしれませんが一般にクマが母性原理の象徴として用いられるのは確かです。実際この部屋にいたところ母グマが出没してデートが終わってしまったではありませんか。母グマは発情したオスから身を挺して子を守るために気を張っているものです。愛ゆえなのです。……というよりは梨穂子の母親ですから、単純に天然で間の悪さを発揮してしまっているというのが正しい解釈でしょうが。
と、このように考えれば何となく梨穂子が母なるものと結びつきが強く、そのおかげもあって純一との関係が前進しにくいのは何となくお分かりいただけるかと存じます。これが〈悪母〉かと問われると悩みますが、七咲の甘やかしを〈悪母〉に据えるならば梨穂子の母親もそうだと言えるでしょう。
それと平面ガエルになることと、どうして結び付けられるかと問われると弱ったものです。たまたま「かえる」が一致しただけだと言われればそれもそうですね。ここでもう一つ考えようによっては「平面」であることも大事なのかもしれません。つまり二次元的になる……キャラ消費されてしまうということと画面越しに見る「アイドル」になってしまうことを示唆するものだと。
『アマガミ』の時代設定で言えば1990年代の末期、日本は空前の「癒し系キャラ」ブームの真っ只中にありました。「癒し系アイドル」というジャンルもすでに確立されており、恐らく梨穂子……もとい「桜井リホ」もそのマーケティングに取り込まれることでしょう。(ありがちな芸名ながら「梨穂子」から「子」を取るネーミングもまた含意がありそうですが)
ただし少し時代にそぐわないのがKBT108という総選挙でセンターの決まりそうなアイドルグループ所属であることでしょうか。元ネタを鑑みるにこれは強い父性の働いていそうな地場であることが予想されますね。それに「108」という数字も有体に言えば煩悩の数ですから、ソエンになってしまったが最後、梨穂子が煩悩を受容する何かに溶け込んでいくのを見守るしかないということなのでしょう。
何にせよ「柔軟剤」を使われることに対して梨穂子の口から否を突きつけることが「呪い」を解く鍵なのです。梨穂子を癒し系キャラとして消費する純一の目を覚さなければなりません。
森島はるか
森島先輩はポメラニアンになりますね。だんだんと解釈が難しくなってまいります。一つ重要なことはただの仔犬というだけでなく「首輪とリードのついた仔犬」すなわち誰かの飼い犬であるということです。森島先輩といえばワンチャンの飼い主としての印象が大変強いですから、これが「真実の心」だとするならばある意味何かの反動で主客が逆転してしまっていると見るべきでしょうか。
あまりこれについて確信めいたことは言えないのですが少し夢分析的な視点から言うと、このポメラニアンは幼少期に彼女が飼っていた犬かもしれませんね。転じて森島はるかの幼少時代の表象とすれば何かと見えてくるものがございます。
ポメラニアンになった森島先輩は橘君も呆れるほど楽観的であり、はしゃいでは前足で逆立ちしながら歩行します。その時に露わになった秘部を見て橘君は呆然とするわけですが、何か見覚えのあるシチュエーションだと思いませんか。そう、これは小学生時代にスカートをはいて馬跳びに参加したときに男子に鼻血を出させてしまった事件に代表される「おてんば娘」エピソードの一つなのです。男兄弟の多い森島先輩は男女分け隔てなく遊ぶことが当たり前だったわけですが、性別というものを意識せざるを得なくなった年頃から何かと不自由を感じることが多くなったのです。例えば『アマガミテトリス〜森島はるか編〜』ではお風呂から上がってバスタオル一枚で居たところ兄弟から怒られたことを不満に思うさまが描写されています。この「(森島先輩からすると理不尽に思える)不自由さ」がリードに絡まって身動きが取れなくなることで表現されているとすればどうでしょうか。実際、森島はるかという女性は苦労することも多いのです。乱暴男に絡まれたり(47, 39)ストーカーみたいな男に付き纏われたり(46, 42)ですね。それから傍目を気にして少女趣味を隠さなければならなかったり、牛丼屋に入れなかったり。
何よりルックスを重視する殿方の視線が彼女を不自由に縛っていたのです。
そんな彼女を橘純一が抱っこすることで優しいご主人様となって初めて恋愛が出来るのですが、それでもまだ難点がございまして……
それはドーベルマンに見惚れてしまうことです。
森島先輩が異性の好みについて聞かれると「年上の頼りがいがある男性」だとか「タフな男の人」だとか「カリスマ性を感じる人」「リーダーシップのある人」……という如何にもマッチョで父性的な男性像を答えた後すべて「違うかも」と言って棄却してしまう(45, 36)のはなぜかというと、やはり芯から恋愛感情を抱くほど内的な女性性が成熟していないからだと私は思うのです。したがって暫定的にそれっぽい応答をしただけであって、そこには「ストロング」で「ジーニアス」で「ジャスティス」な森島家の男性が多分に影響していると見てよろしいかと思います。(その代わり色恋に興味がないわけでは無いし、彼女のおじいちゃんとおばあちゃんのような仲睦まじい夫婦の関係性に憧れはあるようです)
私はここで答えている「異性」に合致するのが実は塚原響のことなのではないかと分析します。塚原先輩は平均的な男子の握力を軽く越える(ナカヨシ会話 Turn 1 Low 「運動」)だとか、それこそ言い寄ってくる男子から守ってくれるだとか、タフな印象は十分にありますし、水泳部部長や昨年度の創設祭実行委員長といった実績もあって、頼れるリーダーであることも疑いようがありません。以前の七咲考察でもそれとなく触れましたが、この際なので言うと塚原響はアマガミヒロインたちの父親の役割を負ってくれてるのですよ。
七咲との付き合い方を優しく諫めたり、時には素直になれない森島先輩との仲を取り持ってくれたり。初対面の紗江ちゃんが怖がる(20, 31)のは彼女に父の姿を見たからだと考えても良いかもしれませんね。
森島先輩は「憧れる女性像」として名を挙げますが(ナカヨシ会話 Turn 5 Hi 「世間話」)普通、森島はるかが塚原響のような「ピシッとした」人物になることはあり得ません。スキBADを経て恋愛に傷付き、男性にまるで期待しなくなって初めて「ピシッとした」森島部長に変容するのです。
論理が飛躍しますが、本当はひびきちゃんをある面で理想の男性像として見ている節があるという説をここに唱えたいと思います。
それはもちろん自分の外見に性的な関心を寄せてこないからこそ理想なのであって、やはり父親や兄弟のような存在と言えるでしょう。
それが「ドーベルマン」の姿をとって彼女の前に現れるのです。ポメラニアンである森島はるかが雌犬の視点から見ると……つまり「近親者」や「同性」といったのフィルターを外して見ると、ハンサムで素敵に思えるのではないでしょうか。森島先輩はなかなかその居心地の良さから抜け出せず、今一つ恋愛が分かりかねている女性だと解釈すれば、呪いを解くためにはきちんと抱いてドーベルマンから引き離すことが重要であると、そう言いたいのです。するとあとは彼女の嗅覚に従って掘り当てたスイッチを押すことで扉が開かれるのです。「彼女が自発的に扉を開くことを待てばよい」のはスキBESTエンドそのものでしょう。
余談ですが、森島はるかスキBESTでもう一つ重要なのは「カチューシャを外す」ことですね。彼女曰くこのカチューシャはおばあちゃんがくれたもので、「アタックマーク」にもなっているぐらい大事なアイテムです。
スキBESTのクリスマスイベントが「祖父母の来日を言い訳にしたお誘い」であることを踏まえると、これまた興味深いものが見えてきます。家族仲が極めて良好な森島家で生まれ育った森島はるかは恋愛関係を数段階すっ飛ばしても幸せな「家族」を築くことが第一でした。これがナカヨシエンドで再三出てくる「おじいちゃんとおばあちゃん」ということで、その価値観から脱して恋愛するのがスキBESTだとするならばカチューシャを外すのも納得が行くのです。余談終わり。
七咲逢
ラーメン…………ラーメン
まるで何の表象か思い当たりません。
例えば明星チャルメラのキャラクター「チャルメラニャンコ」が黒猫であることとか……
申し訳ありませんが七咲に関してはほぼ憶測を並べるだけになってしまいます。七咲が父親コンプレックスを抱えていて「母性」を背負い込んだ女の子だと言うお話は前回も沢山いたしましたので、それを踏まえて考察をしてみましょうか。
そもそも七咲のラーメンキャラが定着した発端は、カップめん(どう見ても「ブタメン」)の中に創設祭のおでん屋台で提供する予定のたまごを隠していたことですね。このイベント(22, 48)で『アマガミ』最大級に気色の悪い“もしかして七咲が産んだとか?”という迷台詞が橘先輩の口から飛び出すのですが……案外これが言いたかったのかもしれません。つまり母性的なものを密かに隠し持っているイメージと言いますか。うーん……
あとは放課後一緒にラーメンを食べに行ったり、あるいは紗江ちゃんとの涙イベントではファミレスでみそラーメンを食べていたことを告白したり……これらのイベントから分かるのは少なくともラーメンが彼女の大好物であることです。
もちろん「意外性」の発見というのも加味されるでしょう。そもそも何が意外なのかといえば、ラーメンは「男性の食べ物」だった時代が長くあったわけです。ちょおまの『ファミレスに願いを』では、薫が“女子高生がファミレスに来てまでラーメンを食べたりしない”と発言しますね。(まあ確かにファミレスでラーメンを注文するのはあまりメジャーではないですけれど)今でこそ若い女性が1人でラーメンを食べるのは(店や環境によるけれど)一般的ですが、時代背景を考えるとそうはいかなかったかもしれません。本人も水泳前の半ば隠れ食いであったことから少なくともちょっぴり後ろめたい楽しみだったことは確かですね。
この抑圧されていた食欲だとか、「男性に食べられるもの」であるとか、「親指が中に入っちゃう」とか(オフィシャルコンプリートガイドによるとこのシチュエーションをやりたかったみたいですが)彼女の「ラーメン」化にはやはりどこか性的なニュアンスが含まれますよね。……含まれますよね? 七咲のキスはスープを飲み干すようだと評されるくらいですから、そういった食欲のあり方が愛情表現に直結していると考えてもさほどおかしくはないでしょう。
特にラーメンって吸啜される食べ物でしょう。何か「吸われたい」呪いがかかっちゃってるということで……何か「母性」的な。
それから「私、のびちゃいます!」と焦っていますが、七咲は結構「時間」に追いまくられることが多い人物であることも事実です。「タイムが縮まない」で悩んでいるスキルートだとか、誕生日プレゼントに時計をプレゼントすることだとか、近いうちに見頃の終わる「二期桜」だとか……
そして「呪い」の解除方法が橘先輩にコショウをかけられてくしゃみすること……
やはり何のお話かはちょっと分かりかねますが、七咲は直感的に「なると」などを食べられると元に戻れなくなることを理解しているようです。
この「呪い」は七咲の脆さ、儚さ、移ろいやすさを示しているのかもしれません。ちょっとでも吸われたりつまみ食いされたりしただけで「元に戻れない」のはスキGOOD(おそらくスキBADも)で部活を辞めなければならない、ということで橘純一が何か一つでも奪ってしまえばピースがハマらず不安定になるさまを表しているのではないでしょうか。したがってコショウをかけて足す分にはセーフと言いますか……
やはり今ひとつ発想が纏まりませんね。ひょっとすると本当に単なるエッチなシュールギャグかもしれません。それを言ったらその他のヒロインだって何の確証があって言っていることでもないのです。今回はここまでとして、皆さんもぜひご一緒にお考えいただけたらばと存じます。
7.橘純一を「かえる」化させた〈悪母〉
さて、ここからはいよいよ考察も大詰めです。
橘純一が「かえる」になってしまったのは誰のせいなのか? というお話です。
まずは蒔原美佳について考えてみましょう。『アマガミ』という作品のプロローグをご存知の方は誰しも最初は、彼の「呪い」が蒔原美佳によるものだと、直感的にそう思うわけです。
当然あの事件以来、橘純一は居心地の良い閉鎖空間で過ごすようになってしまったのは事実です。
それはつまり子どもの頃に作った「押入れプラネタリウム」であり、お宝本置き場と化した「開かずの教室」であり……誰のマナザシも届かない空間のことです。
『かえるの王さま』の童話で言えば「かえる」が閉じ込められていた「泉」に近い場所ということになります。
そもそも蒔原美佳がクリスマス当日に姿を表さなかったのが悪いのですものね。そのせいで橘君は振られた理由も分からず、
“何が起きたのか分からなくて……ただただ自分が恥ずかしくて……誘った事をすごく後悔して……いっそ何も無かった事にしようとして、考える事すら止めた”
のです。
本当に〈悪母〉は蒔原美佳でしょうか?
先ほど「オシリスの棺」に中途半端に触れてしまいましたが、これを包み込んでしまったイチジクの木というのもまた「母の腕」であって言うなれば〈悪母〉の庇護なのです。(マリー=ルイズ・フォン・フランツ『永遠の少年』より)
彼の自立を歪な愛情でもって阻害してしまう〈悪母〉が彼を閉じ込めているのだとしたらどうでしょうか?
本当に彼を呪縛している〈悪母〉とは「上崎裡沙」のことではないでしょうか。
上崎裡沙ルートを進めていくと丘の上公園で蒔原美佳と偶然に再会します。
久しぶりに会った彼女は中学時代から雰囲気が変わっており、そしてやけにテンションが高い。最初は挨拶に始まり、世間話をし、それから流行りのドラマの話、現在通っている高校の話、美也の話……と、そして上崎裡沙の話。
マシンガントークを繰り広げる蒔原美佳に対して橘純一の心の声がツッコミを入れます。このシーン、プレイヤーも若干置いてけぼりになるくらい落ち着きがないので初対面ながら橘君に共感出来ます。
けれど改めて俯瞰して見ると蒔原美佳という人物はかなり冴えていて、実はここまで目まぐるしく話題を動かしていく中で彼の反応を探りながら、触れにくい話に対して遠回しにアプローチをかけていることがわかります。
徐々に核心に迫っていき、そして2年前のクリスマスの話。
“なんであの日、来なかったの?”と切り出して橘純一を驚かせます。
ひとまず内容はさておき、非常に印象的なのは最後の台詞「……そっか、そうだったんだ」です。
この台詞から先の蒔原美佳の喋り方は、打って変わってどこか慈悲とか憐れみすらを覚えるような落ち着き払ったものになります。おそらく橘君が好きになった蒔原さんは、本来こういう話し方をする子だったのです。
どうして急にこんなに悟ったふうになったのでしょう。
それは文字通り彼女が事態の全てを悟ったからでしょう。
蒔原美佳だけはこの時、どうして2年前のクリスマスがあの顛末を迎えたのか真相に辿り着き得たのです。
“なんであの日、来なかったの?”
その答えはご存知の通り、上崎裡沙が蒔原美佳に嘘の待ち合わせ場所を教えたからです。
理由について上崎裡沙は以下のように語ります。
ここからは私の推測ですが、蒔原美佳は上崎裡沙の暗躍に薄々勘づいていたのだと思います。
確かに彼女は“元々そんなにデートに行く気はなかった”のかもしれません。しかしそれでも彼の好意に迷惑していたわけではないでしょう。相思相愛とはいかなくとも、蒔原美佳が橘純一のことをきちんと見ていたのは確かです。
その証拠に彼が恋愛によって“変わった”ことを目ざとく感知しています。変化が分かるということは、当時の彼のことも一応正面から見ていたということでしょう。
“あの日、私結構長い事待ってたんだけど”という台詞に込められた抗議のニュアンスは、確かめようがないからこそ私にはかえって真実味があるように思えるのです。
つまり蒔原美佳だけは見世物にされながらも本当に彼が来るのを待っていたのです。
これにより実は蒔原美佳もあの夜に傷つけられた1人だと私は思うのです。
彼の人となりをキチンと見たことのある人ならば当然、彼が決して悪意を持って寒い夜に女の子をひとり取り残すような人物でないことぐらい分かりますし、もし万が一なんらかの事故で当日待ち合わせ場所に行けなかったとしても後日何らかの謝罪と説明があるだろうと思います。
そう考えてみると彼女の期待はことごとく裏切られたのです。
これには何か裏があるだろうと思いを巡らせると、きっと早い段階で上崎裡沙に疑いの目を向けるでしょう。
だからこそ会話中に先手を打って上崎裡沙の話題を出すことにより真偽を確かめようとしたのではないでしょうか。
そして彼から事情を聞いたあと彼女の疑惑は確信に変わり「……そっか、そうだったんだ」と呟きます。
そこできっと上崎裡沙の思惑まで合点が行ったのです。上崎裡沙が彼を好いていたこと、自分たちの趣味の悪い余興を破綻させようとしたこと、そして、あの日結構長い事待たされたのは自分の罪に対する罰だったことを悟り、ようやく彼女の中で整理がついたのです。
蒔原美佳は善か。悪か。
私としては間違いなく悪者だけれど「非道な悪人」ではないのが本当のところかなと思っております。
それでは上崎裡沙は一体何と戦っていたのでしょう?
この疑問の答えを探るためにまずは上崎裡沙についてもう一度考えていきましょうか。
上崎裡沙のしたことといえば、「橘純一が傷つかないように」という名目で「悪い子」との関係を断たせること、そして彼を自分の世界に閉じ込めることでした。おかげで彼は問題から目を逸らしてしまい、考えることをやめてしまったんですね。
もし彼女の妨害がなく2年前のクリスマスに蒔原美佳と会っていたら?
私が思うに、橘純一にとっては「単なる失恋」を経験するだけだったのではないでしょうか。確かに遠巻きに悪意を持った人たちの視線こそありますが、彼がそれを知る由もないですょう。
「誘いを断られる」「好意に応えられないことを告げられる」……そんなことは彼にとって一時のショックであってもトラウマになるような体験では無かったと思います。
これは完全な憶測というわけでもなく、森島先輩にめげずに何度もアタックしていることを考えれば自明なのです。10代で失恋を経験することなんて極々ありふれた挫折でしょう。そこから成長なり成熟があるわけです。
しかし彼は上崎裡沙の手が加わったことにより、その「ありふれた挫折」をさせてもらえなかったんですよね。ただただ「恥」としてクリスマスの思い出とともに塞ぎ込んでしまったのです。
この台詞が母性の「すべてを吞みこんで死に到らしめる否定的な面」の表出を見事に物語っていると思うのです。
上崎裡沙の包容は彼の存在を全肯定するものであるように見えて実はそうでなく、上崎裡沙にとって理想の現状維持を続けることでした。
これが彼の自立を妨げ精神的な死に追いやっているのですから、やはり〈悪母〉的な性質が色濃く滲み出ていますね。
しかもこれを良かれと思ってやっているのが恐ろしいところです。面と向かって「橘君をあたしのものにします」という宣言をする絢辻さんが如何に自覚的で誠実だったかが分かりますね。
さて「上崎裡沙」が〈悪母〉であることはお分かりいただけたでしょうか。
七咲と対峙したとき“先輩を甘やかしそうな顔をしてます”というパンチを喰らうのも面白いですが、上崎裡沙と無批判に交際してしまえばほぼ確実に堕落した生活が待っているのも事実 (02, 34)です。
そして上崎裡沙を語る上では、それを咎めて対決してくれる〈善母〉の存在が欠かせないと私は思いますね。
ここでまた思い切った説を唱えたいと思います。
〈善母〉とは「美也」なのです。
つまり橘純一を取り巻く〈善母〉と〈悪母〉の対立が「美也」と「上崎裡沙」に仮託されているのです。
美也と裡沙ちゃんは一対の母性であり、2人とも橘純一の母親なのです。
根拠をお話ししましょう。
学校内で上崎裡沙と会えるのは彼がお宝本置き場に使っている「開かずの教室」だけでした。「開かずの教室」の存在を知っているのは自分だけだと思っていた橘純一はそこに上崎裡沙も出入りしていたので大層驚きます。
これまでに述べてきたことを総合すると「開かずの教室」に閉じこもることも彼の「胎内回帰」の一環ですから、この場所もまた母性の護り(呪い)を象徴しているのですね。
そして実は美也もまた「開かずの教室」に出入りする人物であることが判明します。橘純一が裡沙ちゃんに言いくるめられそうになっていたところに突然登場し彼女と言い争いを始めたのです。
もし彼に「美也」がいなければこの場面、彼女の圧倒的な気迫に抗うことはできませんでした。
美也は傷ついた純一を労りつつ彼の成長を喜んで見守ってくれていたのです。
こうして見ると「大丈夫」「自信もって」という包容は、上崎裡沙の〈悪母〉的な束縛と真っ向から対立するものですよね。
美也は最近の彼に起きた変化を肯定的に受け入れているようです。これがまさしく〈善母〉のある姿だと私には思えます。
彼女が「開かずの教室」を発見したのもある意味偶然ではなく、彼をここから救い出すべくして見つけたものだと解釈されます。
エジプト神話をまた引き合いに出すと「オシリスの棺」から兄を救出するイシスは〈善母〉として描かれる女神です。こじつけるわけではございませんが、兄の再生と〈個性化〉を心から願う美也だからこそ「にぃにはにぃに」であることを毅然と主張出来るのだと思うのですよね。
このように橘純一にとってみれば知らず知らずのうちに「美也」と「上崎裡沙」が母性の両面として機能していたと考えれば、さまざまなものの見方が変わってくるでしょう。
思うにそのきっかけは彼が小学3年生の頃、彼の預かり知らぬところで上崎裡沙と美也は幼馴染になっていたところからスタートしています。
上崎裡沙が美也に「にぃに」という方言を教えたことで美也も純一を「にぃに」と呼ぶようになりました。以来、美也と上崎裡沙は互いに対等な立場から「にぃに」を見つめる者となったのです。このときを境に橘純一を取り巻く母性が2人に分裂したと考えるのはいかがでしょうか。
美也を「母性」の片割れたる〈善母〉の化身と見做して考えてみれば、彼女が「黒猫」を形取っているわけを見出せるのです。「七咲逢」vs.「プー」の構図と一緒でして、「上崎裡沙」に対する「黒猫(対立する母性)」が「美也」ということです。美也も『みかんちゃんとプー』の絵本を持っていたので世界観を共有する仲間であると考えてもおかしくないでしょう。
そのほか例えば設定面でも、彼女らの誕生日が一日違いであることもある意味で彼女らが“ほぼ”同時に生じたことを示唆するものとこじつけることが出来ます。(裡沙ちゃんの方が一年早いのでしょうが)
「美也=母性」説によって見えてくるものは他のヒロインのルートにもかなり影響がありますね。桜井梨穂子のスキクリスマスイベントなど、やはり「あとちょっと」というところでえっちっちを美也にジャマされてしまうものですし、絢辻詞スキクリスマスイベントにてお宝本を全て売却するのは脱・開かずの教室を促していますよね。
美也のお話はこの辺りで一旦おしまいにしまして、上崎裡沙の考察に主題を戻すことにしましょう。
さてここから『アマガミ』の根っこの部分に関わるような大きなテーマに突入していきますが、その前に少し休憩がてらに余談を挟みます。
上崎裡沙に纏わる大きなギモンといえば、「BAD END」(01, 32)ですね。
「開かずの教室」を告げ口したのは何故かということです。あれ、彼が約束の時間に来なかったから腹いせに……? と一瞬思いますが、私はそうではないと考えますね。10年以上彼を追っている上崎裡沙が、まさか今更一回約束を破ったくらいで彼に牙を剥いたとは思えません。
これについては橘君が「自宅謹慎の処分を受けること」がはなからの目的と考えれば自然です。
そもそも上崎裡沙が姿を表すのは橘君が他のヒロインとクリスマスデートの約束(星獲得)を取り付けようとしている最中ですから、クリスマスが終わるまでの間は彼に自由に動かれたら不都合なのは当然です。
彼女はきちんと約束したはずの彼が来ないことに不安を覚えました。彼の行動の自由を奪うためには自分自身の肉体では不十分であることを悟ったのです。
もしもこの後上崎裡沙とクリスマスデートの約束を取り付けたとしても、別の女の子との約束を優先させる恐れがあります。
そこで彼女は奥の手に出たのです。彼がクリスマス当日も自宅謹慎中であればデートに出かけることができなくなります。
「開かずの教室」を捨てても「押入れプラネタリウム」に閉じ込めておけば「彼が『悪い子』に傷つけられないように」という上崎裡沙の行動原理にかなうのです。
と、考えていましたが2016年 9月2日に高山先生がご自身のTwitterにて「シナリオフローに穴があって急遽追加したBADENDであって『俺の裡沙ちゃんがこんなことするはずがない』と思った方は正しい」との旨を呟かれました。
これが作品考察の面白いところです。「私の裡沙ちゃん」と「あなたの裡沙ちゃん」と実際にシナリオを書かれた方の意図する「正しい裡沙ちゃん」と、そのギャップを味わうのが楽しくってこんなに長々と記事をしたためているのです。うふふ。
8.「ソエン」になった他者たちへ
それはさておき、私は上崎裡沙が言う「悪い子」って何だろう? と改めて考えました。
そんなの決まっているじゃないか、橘純一を誑かしては傷つける蒔原美佳のような女の子のことだよ……と思いますよね。
しかし上崎裡沙の話を聞いていると、どうやらそうではないみたいなんです。
蒔原美佳が『アマガミ』の悪女になりきれないのは実にこの部分かと思われます。
上崎裡沙が本当に彼から遠ざけたかったのは、彼女の言葉を借りるならば「女の子グループ」のまなざしであって本心では必ずしも蒔原美佳だけが悪いわけではないことを悟っているのです。
これはどういうことなのか。私の見解を綴ります。
まず蒔原美佳がデートを引き受けた動機からして『クリスマスに彼が居た方が格好がつく』という女子中学生の「世間体」を想定するものでありますね。
しかしそれから「女友達だけでパーティーやろう」という風潮が何処からともなく湧いて出てきたのです。
つまりそういった世間体を前提として「彼が居なくて格好がつかない女子」が生じないように初めから同性だけで予定を組む流れが出来上がってしまったのではないでしょうか。
そう考えればこの中学生女子同士の恋愛を牽制し合う感じは妙なリアリティを帯びています。“そっちに行く事”を決めざるを得ない空気はお分かりいただけるでしょう。
それでもって橘純一を笑い物にするのは何故か。
これはホモソーシャル的な文脈の中で生まれた「踏み絵」です。
美佳は「彼」よりも女友達を優先するよね? という流れです。
こういった残虐な余興だって“いつのまにかそんな流れになって”生まれるものなのですよ。
突き詰めて考えれば蒔原美佳はあくまで偶然に橘純一の目の前に現れた代表者に過ぎないのです。何の代表かというと「女の子グループ」の代表です。
彼女は代表であってグループの責任の主体ではありません。どれだけ大きな繋がりであっても責任の主体が不確かな連帯……ソエンになった他者たちが構成する「世間」というものです。
ここではその構成員の性別が実際に女性であるか男性であるかは重要ではないのです。ここでは偶然に「女の子グループ」であっただけです。
こうして考えてみるとですね、『アマガミ』で立ちはだかる「敵」は責任の主体が不明瞭な連帯であるケースが多いことに気づきます。
例えば梨穂子が助けてくれなければ覗き犯の冤罪で糾弾し続けてきた「知らない女子たち」(31, 18)
田中恵子の手紙を回し読みして笑いものにしていた「男子たち」(36, 28)
絢辻さんが対決することになった「クラスの女子」
……
『アマガミ』はソエンになった他者たちと対決し、ときに彼らを赦しながら〈個性化〉する物語ではないでしょうか。
上崎裡沙が戦っていたものとは彼らのことであって、分解してみると「場の倫理」を崩さないように猫をかぶりながら個を滅して同調する人たちなのです。
橘純一は彼らに触れられて傷つきながらも自分自身の物語を選択していきます。それが恋愛シミュレーションゲーム『アマガミ』のゲームシステムではありませんか。
でも実はヒロインたちは基本的に「個」であって「女の子グループ」からは遠いところにいる人物ですから、上崎裡沙のやっている妨害は筋違いも甚だしいのですがね。これに気付くと実は彼女はそんな大義名分も見失って、ひたすら嫉妬心で行動しているのがわかるのです。
そしてこれが「『アマガミ』からの問い」であると私は思います。
この問いに対する明確な答えを今回ご用意できたとは言えませんがヒントになるようなお話が出来るかもしれません。
続いては「イカ焼き」の考察です。
なんだか気の抜けるお話ですが、どうして上崎裡沙ルートの最後にイカ焼きが放り込まれたのか気になって仕方がなかったのです。
『アマガミ』製作陣のイカ好きは何となく随所から感じられますが、それにしたってギリギリのところでイカ要素を詰め込んだのには訳があるのではないかと考えたわけです。
とりわけヒロインへの謝罪行脚という「彼女にとってのイニシエーション」が済んだ暁には「イカ焼き」を食べるということですから、わりかしここの解釈は重要そうな匂いがします。
私の読みだと彼女の出身地が絡むのではないかと思います。
彼女の出身である沖縄ではソデイカ、アオリイカ、トビイカ、コウイカ……様々なイカが獲れるようです。その中でも今回特に重要そうなのはコウイカです。
コウイカとはすなわち「甲イカ」であり、その名の通り軟骨が硬く甲羅状に発達しています。
沖縄では高級食材として親しまれており現地では「大きな手のひら」を意味する「クブシミ」という呼び名が定着していました。そしていつしか音が変化し「コブシメ」と……
そう、「コブシメ」は沖縄方言由来の名がついたイカであり、沖縄県で一般に食べられているのです。
ここから絢辻詞との水族館デートに異様な存在感をもって現れる「コブシメ」と上崎裡沙の好物をやや強引に結び付けてみましたわ。
上崎裡沙が食べたい言っているイカ焼きとは「コブシメ」のことなのではないでしょうか。
ここで今一度絢辻詞との水族館デート(41, 52)で得られる「コブシメ」情報を整理してみましょう。
・絢辻詞に似ている
・外敵に対する威嚇で綺麗に光る
・体の色が変わる、海の忍者(絢辻詞)
このイベントで橘純一はしきりにコブシメと絢辻詞の類似点を指摘します。一部絢辻さんの神経を逆撫でするような発言がありますが「コブシメ」≒絢辻詞の図式を印象付けたいシーンであると読み解けますね。(余談ですがこのイベントで「イソギンチャクから離れない臆病なカクレクマノミ」に親近感を抱く橘純一が描写されます。そういうことです)
さて、それを踏まえてもう一度コブシメの特徴を振り返りましょう。コブシメといえばイカでありながら甲羅状の軟骨を背負っている生き物であって……これって絢辻詞の「かめ」を思わせる特徴ではありませんか?
かめはうさぎとの競争相手であると同時に外界から閉ざされた絢辻詞の心を表現したものであると思うのです。愛されたいけれど内面に踏み込まれて傷つけられるのが怖い……「絢辻詞D」ですもの。
絢辻詞がコブシメである理由は威嚇のために綺麗に光る「私」と硬い甲で武装した「あたし」そして、内にある軟体動物本来の柔らかさ「わたし」全てを兼ね揃えるからだと思うのです。
つまり「コブシメ」を焼いて食べたい……とはどういうことかというと絢辻詞を焼いて食っちまおうぜ!! というイカれた提案に他ならないのです。
冗談はさておきね、イカ焼きを一緒に食べたいというのは
上崎裡沙の心の内にあった「愛されない苦悩」を昇華しようということだと思うのですよ。絢辻詞がそうであるように上崎裡沙も心に「コブシメ」を宿しているのではないかというのが私の推理です。
それではなぜ彼女が「コブシメ」になったのか、その理由に立ち返ってちょっと大胆な仮説を呈示しましょう。
やはり橘純一は原初、「王子様」だったのです。彼のやったことといえば牛乳を飲んだだけなのですが。小学生の頃、牛乳を飲むことを拒絶し「意地悪」と捉えていた上崎裡沙。
私はこれを仮に「母との不和」と解釈してみました。
根拠はいくつかあります。
例えば桜井梨穂子が醸し出す包容力の源泉を彼女なりに洞察した結果です
これが彼女なりに自分に欠如しているものを内省した結果だとするならば何となく行き着く先は見えてきますね。
あるいは『アマガミ』の9年後を描いた『セイレン』に登場する妹と思わしき上崎真詩のプロフィール(『セイレン』公式サイト参照)を見てみましょうか。
・ミルク仕立てのオーバーグラマラス
・姉がおり、その姉のことが大好き。
・好きなこと:家族旅行
上崎裡沙とは打って変わって「牛乳好き」というキャラ付けと豊満な乳房を強調、そしてやけに良好な家族仲をアピール……
これらの状況証拠から私は当初、上崎家は「姉より妹の方が露骨に贔屓されていた」のではないかと考えました。つまり絢辻家とちょうど逆転した構図です。
小学3年の頃すでに裡沙はどこか母娘関係に傷ついており、自身を「コブシメ」のように感じていました。
「母親からの拒絶」が「牛乳嫌い」という形で表出するという演出はあながちあり得ないものではないでしょう。
橘純一が牛乳を飲んでくれたことは、自分を〈悪母〉の意地悪から救ってくれたことを象徴していると。そこで本当は母親に「自分自身を見て欲しい」という願望が鏡のように反射して彼に投影されてしまったのです。
もしもその歪な家庭環境が彼女を〈悪母〉たらしめたのだとしたら?
絢辻さんが父親を反復してしまったように上崎裡沙もまた〈悪母〉を反復してしまったのです。
……と、ここまで堂々と述べましたがこの説には大きな矛盾があります。
それは「姉妹の年齢」です。
『セイレン』は『アマガミ』から9年後のお話ですから、真詩が15歳ということは裡沙は26歳。つまり11歳離れた姉妹ということになります。
橘純一と裡沙が出会ったのは小学3年生(8歳から9歳)ですからその時点ではまだ妹の真詩は生まれていないということになります。
したがって仮にうさぎとかめのような姉妹間の静かな競争があったとしても、それは橘純一と出会った後のお話なのでした。したがってこの説は少なくとも一部分棄却されるべきだと分かりました。そもそもそんな事実はないことを祈ります。
これがもしあったならば上崎真詩のプロフィールはなかなかグロテスクです。絢辻縁が詞を無自覚に振り回していたように真詩が一方的に仲良しと思い込んで振り回しているおそれがあります。
もっとも、希望的に解釈するならば『アマガミ』以後、裡沙の心境に変化があり家族仲がとびきり良好になった可能性がありますね。最近は牛乳を飲む努力をしているらしいですからね。
仮定に仮定を重ねて入り組んだお話になってしまいました。
それではこれまでのお話をまとめます。
私は、それでも上崎裡沙の牛乳嫌いは「母娘関係の傷」であったと睨んでいます。それは『アマガミ』が恋愛に転移される親子関係の物語だからです。
橘純一は「王子様」でヒロインにかかった「呪い」を解くことが使命なのです。
上崎裡沙にかかった「呪い」は橘純一を狭いところに閉じ込めて成長を妨げてしまう〈悪母〉の呪いでした。橘純一は知らず知らずにこの〈悪母〉の呪いの影響で「かえる」化していたのです。
これを助けたのが美也という〈善母〉であり、彼を醜い「かえる」からカッコいい「王子様」に再生させました。
「王子様」がヒロインの「呪い」を解くためには通過儀礼が必要で、彼女にとってのそれは橘純一と「イカ焼き」を食べるということでした。これは絢辻詞のような「閉ざされた心」であり愛されたいけれど他者を赦せない気持ちです。
全てが終わって「イカ焼き」を食べるのは彼女が全ての過去を清算することを象徴的に描いているのです。
9.おわりに
大変長々とした考察記事にお付き合いいただき誠にありがとうございました。
今回は分析心理学のようなお話だとか色んな神話をつまみ食いしたような考察・解説になってしまいました。それぞれの箇所でまだまだ消化不良感が拭いきれておりませんが、私の考察はここで一区切りといたします
表象としての「父性」だ「母性」だと語ることは時代錯誤だと思われたかもしれませんが、今回は「昔々」のメルヘンですからご容赦いただけたらばと思います。
そういえば以前【前半】と銘打って投稿した記事がございましたが、実質この記事が【後半】ということになりますかしら。とりあえず現状ご用意してあるものは全てご覧いただきました。
『アマガミ』の発売から現在に至るまで多くの方が考察をなさっていることと思われますが、なんとあの民俗学の創始たる柳田國男と折口信夫の両氏がアマガミSSの解説をなさっていたことを最近になって知りまして……拝見したところ大変興味深い内容で感服いたしましたわ。それと同時に私の記事の如何わしさが幾分か解消されたと申しますか、先達を見つけて安心いたしました。ありがとう両氏。
さて、2023年下半期といえばアマガミASMRの第2シリーズ発売が予定されているようですね。好きな作品が十数年の時を経て新しく展開し続けることを改めて幸せに思いますわ。
私はアマガミの世界が続いていく限り考えることを止めませんから、きっとまた何かのきっかけに考察記事を投稿するでしょう。
皆様もぜひこの記事の内容なぞ気になさらず沢山『アマガミ』について考えを記していただければと存じます。
きっと考えすぎて無駄になることなどただの一つもありませんわ。
きっかけが『アマガミ』である可能性だってあるのですから。
おしまい。