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ふわふわと、遠慮

きのう、ケーキを買いに行こうとした話を書いていたのですが、それにはちゃんと理由がありました。

『ふわふわしたものが食べたい』

そう思ったら、どうしてもどうしても『ふわふわしたもの』が気になって、気になって。

ケーキを買いに行くなんてこと、そうめったにあるもんではありません。夫の帰りも遅いし、ケーキ屋さんに行こうとするなら日曜日(しかない)。そして、日曜日はおやすみのところがほとんど。だからよほど食べたいときはコンビニ。ゆうべは、帰宅した夫に頼んでコンビニに連れていってもらい、あまり選べないなか、チーズケーキを買って帰りました。ふたりで食べて満足したかと思いきや、今日も引き続きふわふわしたものが食べたい私。

んー、めずらしい。なんだろう?

先日の記事で『欲しい』への素直さを失っていると書きました。


それで、私は今日も『ふわふわしたもの』を探しました。今日は、ちかくのスーパーでみつけました。良かった。

何かで代用したり、ごまかしたり、やり過ごしたりしていること、誰にでもあると思います。そして、そうせざるを得ないことも。だけどそれが積もり積もると、私の場合はますます『ほんとうに欲しいもの』や『ほんとうに味わいたい感覚』から遠ざかってしまうような、そんな気がしました。夫にも、そんな思いをさせてしまっているかもしれない。

時間的なこともあってあまり行けないけれど、外食をする機会があれば夫には牛肉を選んでねと言っています。私が食べられなくなってしまったので(嫌いなのではありません)普段の食事は豚、鶏、魚の献立になっているからです。

ささやかな望みを、うまくやりくりするためだったり、理屈(あるいは屁理屈)や常識で抑えつけることのないように、自分をちゃんと見てあげたい。あまりにも、あまりにも・・・私は自分に無意識すぎたような気がしています。『何でもいい』『あるものでいい』『できたらでいい』

世の中の自由な人々はそれを臆することなく口にして、欲しいものは欲しいと言い、主張したいことはきっぱり言っているのです。私もそうあってよいのです。


遠慮する私は果たして、素晴らしいのか?

違います。ね。

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