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孤独を勧めることへの違和感

書店に行くと、孤独を賛美するような本がたくさん並んでいる。「孤独のすすめ」「極上の孤独」「孤独でも生きられる」などなど。でも、孤独って人に勧めるようなことなのだろうか? 本人が孤独をかっこいい、よきものと思っていれば、それでいいように思う。なんで他者にも孤独を勧めるようなことをするのだろう? 孤独とは「仲間や身寄りがなく、ひとりぼっちであること。思うことを語ったり、心を通い合わせたりする人が一人もなく寂しいこと。また、そのさま」(デジタル大辞泉)を表す。この状態を他者に勧める意味がわからない。第一、本にして勧めている段階で他者に「思うことを語っている」のだから、孤独とは違う状態の人の言のように思う。

孤立と無縁な人たちの「贅沢」
孤独をよいものであるかのように書く人たちは、おそらく社会的には孤立していない人たちだろう。社会のなかで一定の地位を得て、友人などとのつながりがあり、老後の暮らしにも心配を感じていない人たち。本当に社会的に孤立して、他者からはろくに存在すら認識もされずにいる人たちではないだろう。もしかしたら、孤独は社会的孤立とは無縁の人たちの「贅沢」の一種と思われているのではないだろうか。飽食の中のきまぐれなプチ断食のような。本当に飢えている人は断食など求めはしない。

姥捨て山を是とするのと同じにおい
孤独と孤立は別モノだ。孤独は、外見上は他者とつながっている状態の人でも心理的に生み出せる状態でもあるだろう。だが、孤立は関係性の問題で心理的に生み出す状況とは異なる。この点を間違えてしまうと、援助の手を差し伸べるべき状態の人たちに対して「孤独を楽しんでいるのだから」と誤った判断をしてしまうかもしれない。というか、「いまは孤独が大切な価値観なのだから」と孤立していることを是とする方向に社会の認識を変化させてしまいかねないのではないか。見て見ぬふりしても、問題がありそうだなと思っていても無視してしまうことを、心の負担なく行えてしまう共通認識を醸成してしまいはしないだろうか。いわば「姥捨て山は、この暮らしぶり、社会では仕方がないから」と心の痛みを社会全体で感じなくてすむ方向に認識が向かいはしないだろうか。なんだかそんなにおいを感じ取る。

少々飛躍したかもしれない。でも、孤独を勧めるかのような書名をみるたびに感じる違和感からは、やはり逃れられないでいる。

#孤独 #孤立

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