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人生最終盤を社会でどう支えるかを考えたい。死に関すること、介護のことなどをテーマにした文書をまとめます。
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#関係性

「小さな共有」と「大きな共有」 社会の根本が壊れつつあるのでは

新型コロナウイルスと社会に関して、7月5日、哲学者・内山節さんの講演をうかがった。概略をまとめつつ、感じたことを記す。 参列者のいない葬儀コロナ禍における葬儀の風景からお話は始まった。感染拡大防止の観点から参列者がほとんどいない葬儀が広がっている。葬儀は亡くなった人のためのものであり、他者によってその死が確認されることで初めて人の死は死として成立する。その葬儀が行われなかったり、人がいなかったりする現実。そのことを、内山先生は社会のありようが根本的に否定されている、社会が壊

「人間らしく生きる」の意味が問われるコロナ禍 「つながり」を意識する

哲学者、内山節先生のお話をオンラインで聞く機会がありました。自律した個を前提とする西洋哲学に対し、内山先生は「関係性」を基軸に据えます。人は人と人とはもちろん、自然と人、自然と自然という重層的な関係性の中にある関係的存在という考え方です。新型コロナウイルスも関係性の視点で捉え、示唆に富むものでした。 ウイルスも関係的生命ウイルスという存在もまた、人と人、自然と自然、自然と人という関係の中に生命基盤を持つ。同時に、ひとつずつの個体としてではなく個体同士が関係しあいながら全体と

オンライン会話はナルシズムコミュニケーション化する

ZOOMミーティングに参加していて、新型コロナウイルスによるコミニュケーションの変化が話題になった。私が指摘したのは、オンラインコミュニケーションは人類が体験したことのない「会話」形態だということだ。なにせ自分の顔を見ながら、同時に相手の顔も視野に入れて話すのだから。鏡を手にもって自分の顔を見ながら話しているようなものだ。これがコミュニケーションに質的変化を促さないわけがないと思っている。ナルシズムコミュニケーション化とでもいえようか。 否応なく自分を見ながら話す教壇や講演

afterコロナをディストピアにしない 権利制限はあくまで異常事態の自覚を

新型コロナウイルスに関する文書をnoteで、思いつくままに書いてきた。これからも書くだろう。甘いというか、こうあってほしいという願いを込めての内容になっているし、これからもそのスタンスは変わらない。それは意識しながらのことだ。というのも、実は怖がっているからだ。できるだけ希望を見出したいからだ。すでに同様の指摘は様々になされているところだが、afterコロナ社会で一番恐れ、また最も考えられるのが、実は市民的諸権利をいとも簡単に放棄することに慣らされてしまった大衆が構築する社会

withコロナ 関係性の中に生きる自分を意識する

新型コロナウイルスのパンデミックで、はっきりとわかったことの一つは、私は一人では生きられないという実に当たり前のことだった。医療、商品の生産・流通、公共交通機関、宅配、警察・消防…。そうした「社会」がなければ、社会を形成している直接は顔も知らない「みえない他者」がいなければ、自分一人では生きていけない。要は関係性の中で生きているということをあらためて認識した。そうした「みえない他者」への配慮、慮りの行動といってよいと思う「自分が感染源にならないように」という種々の行動は、この