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人生最終盤を社会でどう支えるかを考えたい。死に関すること、介護のことなどをテーマにした文書をまとめます。
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#死

最期まで安心できる「おひとりさま」の身支度とは

(*この原稿は、毎日新聞WEBでの筆者連載「百年人生を生きる」2019年4月24日の記事です) 入院時や施設に入るとき、身元保証人を求められる場合がある。あなたには頼める人はいるだろうか。また、自身が亡くなったあとのさまざまな死後事務手続きや遺品整理などを、託すことができる人はいるだろうか――。こうした身元保証や死後に必要な手続きは、以前は家族がすることが当然と考えられていた。しかし、「おひとりさま」高齢者らの増加を背景に、それらを請け負う事業が広がりをみせている。「生前契

1%を遺贈寄付に 地方のお金は地方で 老老相続から社会還流を

9月5日から14日まで、日本で初めて「遺贈寄付ウィーク」が開かれる。遺贈寄付の普及をはかるために、様々なイベントやキャンペーンが行われる。英国や米国など多くの国々では2009年から、9月13日の「国際遺贈寄付の日(International Legacy Giving Day)」の前後に遺贈寄付の普及啓発キャンペーンが行われてきた。日本も遅ればせながらその波に乗るのだが、これが「ステップイヤー」になるのではないかと私は考える。そして、次の「ジャンプ」のためには「1% for

8月15日に遺言を書いた 死者の声を意識する

初めて遺言を書いた。深刻な意味ではない。7月に自筆証書遺言の法務局保管制度が始まったのを機に、自分でも実際に制度を経験しておきたいと思ったのだ。ただ、8月15日を作成日に選んだのは、それにふさわしい日のように感じたからだ。死者を意識し、無数の死者の連なりの末に今があり、自分がいること。自分もまたその連なりの中にいつか入っていくこと。敗戦から75年の節目の日に、そんなことを考えながら自身の死に向き合ってみたいと思った。 実際に書く作業自体は半日ですんだ。法務省のHPで作成の注

「正しさ・正義」の危うさ感じる ALS患者嘱託殺人事件

「ALS女性患者安楽死」事件と呼ばれるようになるのだろうか。京都のALS患者を、宮城と東京の医師2人が殺害した嘱託殺人事件のことだ。この事件には医師の傲慢さと共に、やり方もあまりに乱暴な印象を受ける。殺されたのがALS患者で、殺害したのが医師であるというだけで、SNS上での自殺幇助依頼に対して見も知らぬ他人が報酬と引き換えに引き受けて実行した、これまでにもあった殺人事件と本質はなんら変わらないように思う。だが、安楽死の問題としてメディアでは論じられるだろう。安楽死に関して思う

「命の選別」発言 優生思想の恐ろしさに対する想像力がない

れいわ新選組・大西つねき氏の発言に驚いた。発言の全文を荻上チキさんが文字起こしまでしてくれたので読んだ。 内容は端的に言えば、高齢者を「死にゆくままにせよ。介護も医療も無駄だから。それが社会のためだから」と言っているようにしか読み取れない。それを政治家になろうとする者が平然と口にする。つまり、政治によって、権力によって社会をつくりたいと考えている人物が、だ。 想像力や共感力の欠如に愕然とする。この発言に賛同する人たちに対しても同様だ。なぜ、そんなに簡単にいのちを切り捨てら

「小さな共有」と「大きな共有」 社会の根本が壊れつつあるのでは

新型コロナウイルスと社会に関して、7月5日、哲学者・内山節さんの講演をうかがった。概略をまとめつつ、感じたことを記す。 参列者のいない葬儀コロナ禍における葬儀の風景からお話は始まった。感染拡大防止の観点から参列者がほとんどいない葬儀が広がっている。葬儀は亡くなった人のためのものであり、他者によってその死が確認されることで初めて人の死は死として成立する。その葬儀が行われなかったり、人がいなかったりする現実。そのことを、内山先生は社会のありようが根本的に否定されている、社会が壊

コロナ時代の日常と非日常の境界

新型コロナウイルスの緊急事態宣言下で、「日常」と「非日常」について考えた。いくつかの論点が浮かんだ。そもそも日常と非日常の境界線とは何か。その境界線こそが、かなり長期にわたるであろうコロナ禍においては、「リスク」を社会がどう判断するかという議論と不可分なのではないか。また、歴史的な長期的な視点でみれば、私たちがbeforeコロナ時代に過ごしていた日常とは、実は非日常ではなかったのか、ということだ。 長期にわたる災禍は非日常を日常とするいまが、beforeコロナ時代の日常とは

withコロナ 関係性の中に生きる自分を意識する

新型コロナウイルスのパンデミックで、はっきりとわかったことの一つは、私は一人では生きられないという実に当たり前のことだった。医療、商品の生産・流通、公共交通機関、宅配、警察・消防…。そうした「社会」がなければ、社会を形成している直接は顔も知らない「みえない他者」がいなければ、自分一人では生きていけない。要は関係性の中で生きているということをあらためて認識した。そうした「みえない他者」への配慮、慮りの行動といってよいと思う「自分が感染源にならないように」という種々の行動は、この

WITH&AFTERコロナ時代 「引き算」の生き方と「祈り」こそ

新型コロナウイルスのパンデミックは、いつかは収束していく。その時、私たちはもう「beforeコロナ」の生き方には戻らないだろう。オンラインによる会話、テレワークの普及といった変化はもちろん、死生観の変化といってもいい、もっと深い、本質的なところで生き方が変容し始めていると考える。「with&afterコロナ時代」には、「引き算」の生き方こそが求められているのではないか。その生き方を支えるのが「祈り」なのではないか。 はかない命 無常いま私たちは日々、感染の恐怖におびえている

人生会議とは何か? 関係性の再認識ととらえ直し 人生を充実させるための機会に

立教大学社会デザイン研究所で私が主宰している勉強会で、「人生会議とは何か」をテーマに対話した(議論でも会話でもなく対話)。ファシリテーターはライフ・ターミナル・ネットワーク代表の金子稚子さん。写真はそのさいのホワイトボード(一部加工)。なかなか話の展開が面白かったのだが、あらためて感じたのは、つまるところ「人生会議」とは関係性の再確認やとらえ直しではないかということだった。そこを基軸として以下、出てきた話などをもとに思ったことを少し。話題を思い出しながらなので、文章の流れに少

「看仏連携」看護とお寺の出会い 人生最終盤から死後までの連携を

大阪・大蓮寺で1月18日、「看仏連携」という催しが開かれた。副題は「あなたの街のお寺が<人生会議>の舞台となるために」「<看護と仏教>地域包括ケア寺院の可能性を考える」だ。人生の最終盤を支える看護師と、ともすると死後のことだけ顔を出すと思われている僧侶が連携、協働することの意義、実際にどうするかを考える場だ。全国各地から集う約100人の参加者は僧侶と看護関係者がほぼ半々。4時間以上にわたり熱気あふれるトークが繰り広げられ、これを機に実際の「動き」が広がり始める予感が満ちた。私

この人生会議の広報はやめたほうがいい

何度となく話題にしているACP(人生会議)。厚労省が昨年、11月30日を「いい看取りの日」にしたから、今年は11月になれば広報・告知に力を入れることは当然予想していた。広報のために吉本興業と契約したと聞いたときに、少し不安だったのだが、やはり心配が現実となってしまった。厚労省が11月25日に発表した人生会議のポスターをみて、驚いた。死に向き合うことを愚弄しているように感じ、不快感を覚える。 死は死だ。辛い現実を笑いにまぶすことで多くの人に伝えたいという意図は理解する。だが、

縦の糸と横の糸 結節点としてのわたし

「集活」関連で講演をするさい、ここ数年、「枕」に使っている歌がある。中島みゆきさんの「糸」だ。 私はこの曲を集活ソングだと勝手に解釈している。特に「縦の糸はあなた 横の糸はわたし」の部分だ。会うべき糸に出会うことが幸せであり、二人の出会いによって生み出されるものが、いつか誰かを暖めたり、傷を癒したりするかもしれないという内容。とてもステキな歌で、大好きだ。 この縦と横を逆にして「縦の糸はわたし 横の糸はあなた」と言い換えて、講演ではお話しする。どういうことか。 私たち一

お盆と参院選 「死者の眼差し」を意識したい

参院選には死者の眼差しを意識してみたい。 東京はお盆を迎えている。初日に迎え火を焚いてご先祖様の霊を迎え、最終日には送り火でお見送りする。先祖供養の日だ。送り火の風情は嫌いではない。もの悲しさ、それを共有する家族らとの一体感を共有する時間、風情は日本人の原風景の一つだろう。特に、8月のお盆の送り火は夏の終わりを感じさせる宵に行われ、寂しさ、哀しさが増す。死者を否応なく意識する。 生者に死者が凝縮する 日ごろ意識することの少ない、死者と生者の交流を意識する貴重な機会だ。この