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(短編)悲しみの器と鏡または蟹 下

第4章 白骨の器

 秋が深まり空気に冷たい冬の匂いも含まれるようになった。
 大須観音の赤い仁王門をぬける。広い境内は2ヶ月後の大晦日には沢山の参拝者でにぎわうだろう。
 北野神社は杉の木に囲まれた小さな四角形の土地に赤い幟が、秋晴れの空にはためく。その、つきあたりの角を右に曲がる。
 行きずりの老人の死に立ち会った10日後、新田青年は、老人が持っていた遺品のハガキを持って名古屋市大須にあるギャラリーを訪ねることにした。
 青年は大須商店街には、平日も休日も、よく出かける。雑踏に人が多ければ多いほど、人間と人間の個の概念は薄まっていく気がする。部屋に一人いると、自己が限りなく膨張していく様な気がして、かえって落ち着かない。
 そのギャラリーに行くことに関して、とりたてて緊張などをしていない自分に気づいた。仕事上、対人対応には慣れているからだろう。そして初対面の人に感じ良い印象を与えるのが、得意だと自身でも思っているからだろう。部屋を出て雑踏のなかでの気分は、楽だった。まるで、右手と左手のように、初対面の人と会い会話する時、異なる自己像を使い分けているような気がする。一言でいえば処世術だ。
 しかし、こちらの持ち込む「親切心」を、相手にじゃけんにあしらわれることにより、こちらの既存の「何か」まで、目減りする可能性に備え、
「出来るだけ、表面上は業務的に見える話で済まそう。」
と、計画を立てる。そこから先は、相手の様子を見て、だ。
「何か」とはなにか・・それは、青年の生来の「尊厳」であり、少年時代から心の奥の神殿にかくまっている犯し難いものだ。社会人になってもありがたいことに、そのかよわき生き物は、神殿の周りで平和にのんきに遊びつづけている。しかし、会社での出来事、このところ連日続いていた人生のへこみは、青年の本来の面目を無傷ですますわけがなかった。

 雑踏には、近くの寺院の伽藍からの線香の香りが漂い、そのあたりの閑静な仏具・法衣などの店舗街は俗ではなく清浄な空気を纏っている。その街のなか、高いビルとマンションにはさまれて三角になっている空間があり、緑が多く水が常にながれる小さい公園になっている。ちょうど公園の角の場所に、ギャラリーはあった。店舗の前面に広く開いたガラス窓から、コンピュータに向かっている背の高い、白髪混じりの髪の端正な男が見える。高野だった。
 物事は、万事順調に進捗した。トントン拍子だった。
 高野は、物腰が柔らかく、
「きっとどんな来客にも嫌な顔をせず対応しているんだろう」
と青年は思った。
それでいて、押しつけがましい所はひとつもなく、沈黙すら洗練されていた。青年は、つい感心してしまった。質問に、頭脳の記憶の百科全書「メンタルレキシコン」から、相手に合わせて最適の簡潔な答えを提供するような高野の「話す技術」を見て、青年は、来て良かったと思った。青年は向学心が強いのである。世の中には、礼を尽くしても通じぬ相手もいるし、いらぬ誤解や誤認は時として、身を抜き刀でばっさりと斬られるほど辛い。神殿のかよわい動物だって傷ついてしまう。
 新田がハガキを渡すと、高野は、ハガキを見、そしてとても当時を懐かしがった。
「そう、この開店案内のハガキは、じつはもうこちらにないんです。数年前になるんですがイベントリを刷新した際に、紙の媒体のものは全部電子化して、大量の紙資料を捨てました。これは主にアクセス効率とスペースの問題です。今となっては、いくつかのことをとても後悔しています。このハガキはそのうちの一つでした。」
それで、青年はそれを高野に快く差し上げることにした。
「もしよければ、そちらのハガキは、どうぞおもちください。私もこれをお渡しするために来たようなものですから。」
 新田青年は、そう言った。遺品のハガキは、新田青年がもっているより、高野がもっていたほうがずっといい。
「ありがとうございます。では遠慮なく頂きます。」
高野は、ハガキを両手でそっと持ち、目の高さに上げ、黙礼した。その涼しげな目はまだハガキの文章と写真を追っていた。
 「加藤露吉」さんは、高野の会社の昔の社員で、陶芸家でもあったと、高野は言った。
「7年前に定年でやめられて、でも2年前くらいには体を悪くして瀬戸の老人病院に入ったとか。」
「老人病院ですか。」
「終末期の老人がいるところ。6人くらいの大部屋がほとんどで、一日中せまいベッドから動かずに過ごし、たいていは点滴などにつながれている。悲惨だけど、都市部では今はしかたのないことかもしれない。」
「そうだったんですね。」
青年は、その様な老人専門の病院が存在することを知らなかった。
「わざわざどうも、ありがとうございます。」
高野は丁寧に頭をさげた。整った銀髪がかたちの良い額にぱらりと落ちた。

「もしメシがまだならいっしょにどう。ちょうど行くところだったから。つきあわない。ハガキのお礼も、なにかしたいし。」
高野は、ハガキを丁寧に引き出しにしまい、MacBook Proを静かに閉じて、新田に向き合って言った。上質な木製の引き出しは、指一本で軽く押されただけで、スッと閉まって音も出なかった。
新田は、誘いを断ってはいけない気がした。それよりも、この人当たり良く魅力的な高野という男に興味があった。今までに出会ったどんな人間とも種類が違う。抑えられた洗練と上質と知性、そしてマダガスカル黒胡椒のような荒々しい男らしさを少々。底の知れない何かがある気がする。そして最後のスパイスが、高野をありきたりのハンサムな優男にするのを免れさせている。
「はい、ご迷惑でなければ。」

 裏口の電子ロックを掛けてから、高野は、端正な作りの薄い皮の手提げ鞄を提げて歩き始めた。
事務所を出ると、大須の商店街のアーケードのなかを縦横に歩いていく。大須商店街は東西に3本、南北に2本の通りがある。アーケードの両側に多国籍の食べ物屋、古着やセレクトショップ、パソコン関係、カフェ、骨董品店などがひしめきあっている。前から笑いながら歩いてきた桃色と黄色の着物の金髪の外国人、クリアカップに入った2色のベビーカステラを互いに相手の口に放りこみながらすれちがう。カリッとして粉砂糖をまぶされた焼き立ての黄金の丸い球。コーヒー豆を焙煎する匂いが漂ってきた。
 仁王門通りをイタリア料理店の角を右に曲がり、小さな神社を通り過ぎる。赤い旗に住所の名前が書いてある。道にまで迫り出した野菜売り場で橙色のふゆうがきを売っている。
 高級品の輸入時計店の隣は、少し奥まっていて、そこに小上がりのテラスがあった。いささか放任で育てたオリーブの木の上には、上品な濃いブルーのシェードが掛かり、外壁はベージュ色のレストランとおぼしき建物があった。店名は特に見当たらなかった。
 高野は慣れた様子で。両開きの扉を肩で押して、新田青年を中に入れてくれた。
「どう、この店でいい。時間的にランチだけどローストビーフが美味い。」
どうやら美中年の高野は客に対するような丁寧な口調をやめたようだ。
 すれ違いざまに高野の官能的で大人の香水を、ガツンと前頭部嗅覚中枢で感じ、あやうく心ごと持っていかれそうになる。
「脳を思考停止させそうな匂いは、なんの香水だろうか。きっと高価な品に違いない・・。」
ウッドの香りとスパイス。爽やかなベルガモット。マテリアルが複雑に絡み合う、重層的で濃厚な香りだ。まるで高野の人間性を暗示するように。「私の魂を初めて奪った出来事は、いつも事後に作られたものにすぎない。」ロラン・バルトはいうが、嗅覚の場合はどうなのだろうか・・・。
新田青年は、どぎまぎする。
「素敵な店ですね。」
「気にしなくてもいいよ。ここはとてもカジュアルな店なんだ。」高野は口元に素敵な笑みを浮かべた。
 中は意外に広く、カウンターが数席と、四角いテーブルの4人掛けが4つ見える。見える席はどれも空席だ。きちんと白いクロスがかけられ、カーブを描いた肘掛けのついた優美な木の椅子には赤いビロードの背もたれがついている。後ろにはもっと広いスペースがありそうだ。
 思わず、自分を見下ろした。青年の格好は、白Tシャツに青いチェックシャツ、色あせたジーンズ。無名の白いスニーカー。清潔ではある。ただ、シャツは袖が長すぎ、パンツは折返しの丈が左右揃っていなかった。
 高野はというと、まるで意に介さず独立宣言書のようなメニューを取り上げている。そこにカラーの料理写真はないようだ。

 食事は、とてもスムーズに進んだ。
前菜は、ずわい蟹とアボカド、林檎のアンサンブル。さっと火を通した蟹に、ジューシーなアボカド。香ばしい蟹の殻オイルと酸味ある林檎と柑橘の香り。
おすすめのローストビーフのソースはとても複雑な味でエシャロットがきいていた。わさび菜もぱりっとして新鮮だった。
どの味も青年が初めて口にするものだった。
 コーヒーと、宝石のようなチョコレートが運ばれてきた。
 高野はいった。
「さて、差し支えなければだが、どうしてさきほどの葉書の持ち主と出会ったのか、教えてくれないだろうか。」
 新田青年は、偶然に老人の死に立ち会ったこと。一緒に霊安室へいき、老人の身元を探すことをひきうけたこと、手がかりがこの葉書しかなかったことを話した。
 出会ったばかりのため二人は、まだ親密とはいかないまでも、高野はとても聞き上手であり、青年にとっては、なんでも忌憚なく話せるといっていいものだった。
「そして、その時から僕は全く違う人間になってしまった気がするんです。」
 青年は、普段ならまわりに絶対に打ち明けない、内面生活の話を切り出してしまった。
「全く違う人間というと。」
高野は、興味深そうに尋ねた。
「なんだか人の死ってなにかを考えるようになりました。露吉さんの秋の光を浴びて木の葉の上に横になった死に姿はそれくらい印象的で。はっきりいって羨ましいと思ってしまいました。」
「それと対照的に、霊安室のステンレスなどの無機質な白い布の上の彼の遺体は。」新田青年は言葉を選んだ。
「こんな言葉が適切かどうかわからないですが、おぞましかったんです。」そして少し赤面した。正直な感情を表すときの彼の癖である。

「ふーん。」
 高野は大変感情の読みにくい男だが、感に耐えないという態度を顕にした。
 目を細めて、新田青年をというより、彼のいる空間を見た。いや読み取ったというべきかもしれない。まるで新田青年の芯にある、青年の霊性でも見透かすような視線で。
 そして急に、に饒舌になった。
「私は君がたいへん気に入った。こんな気持ちは初めてかもしれない。私は私をふくめ、すべての人間は鏡のようなものだとおもっている。ヘーゲルの言う自己と客体だ。私たちは、互いに自己と客体を交換し、投射し合って生きている。いってみれば、君の中の魂は、そう特殊な光線を写す古代の魔鏡のようだ。古墳時代の鏡に三角縁神獣鏡というのがあって、これは邪馬台国の卑弥呼が使っていたとされる鏡だ。近くで見ると普通に現実の姿を写すが、遠くの光を当てるとそこに通常ならざるものの姿を映し出す特殊な鏡なんだ。」
高野は、一旦言葉を切った。そして続けた。
「君は他の誰ともちがう。つまり、私は波長の長い特殊な光だとすると、君はそれを受ける鏡だ。私は君のたぐいまれなうつくしく貴重な鏡に、なにが写るのか想像がつかない。」
 その上品なレストランのなかで、新田は赤面してうつむいた。この男のひとはきっとゲイにちがいないと思った。そしてとても変わった口説き文句だと思った。
 じゃあ俺は、この人の鏡に何を写しているのだろう。ぼんやりと高価そうな青と金のラインの入ったお皿と優美なカップの80センチ先の、高野の仕立ての良いストライプシャツの襟合わせを見つめた。
 ネクタイを締めなくとも優美なかたちを保っている、絹のように光沢のある柔らかそうなシャツの襟山の奥で、高野の首元はしわやしみもなく若々しく筋肉質に引き締まっており、のどぼとけは、男性であることをあらわしていた。
 しかしそこには、なんの示唆もなかった。そして、まるで青年は自分が透明人間になってしまったような気分だった。
「そう、君に是非見せたいものがある。それはとても特殊なものなんだ。」
高野は楽しそうに言った。
 また大須商店街を歩いて店に戻った。新田は足が地についていないような、まるで静かな湖上を音もなく滑るように進んでいる感じがした。水上を歩く師と弟子のように。アーケードからは午後の日差しが線のように差し込んで、地面にあわい影を作っていた。

「どう思う、この碗は」
高野は、白色の手のひらに収まるくらいの碗をかかげて見せた。
「とても美しいですね」
 それは中から光がでているようにぼんやりとした白い地に、剣で削り出したような濃淡がにじみ浮かびあがっている、なんだか光に溶けそうな器だった。
 高野は、立ち上がり、冷えて水滴が付いている中瓶に入った日本酒を持ってきて無造作にトク、トクと碗に注いで新田に渡した。冷えた器に指のあとが3本、くっきりとついている。「ほら、飲んでみなさい」
「頂きます」
 静岡県で育った新田は日本酒にはなかなか見識がある方だ。
「あ、まろやかですね。それでいてキリッとして・・ひょっとして磯自慢ですか」
あでずっぽうに地元の銘酒の名前をいってみる。
「ははは。磯自慢か。いいね。でも残念。はずれ。そのへんの安酒。」
高野は、中瓶の首をひょいっとつかみくるっとラベルを見せた。高野の言う通り安酒だった。「もし君の舌が味がいいと感じたのなら、その器のことを解ったとみえる。」
「え、この碗ですか。」
「そう、その碗は、ボーンチャイナだけど人骨入りだよ。要するにヒューマン・ボーン・チャイナ。人の死体の骨灰が原料なんだな。どうだい。人間の味がするだろう。」

 新田の手から碗が滑り落ち、絨毯をしいた床に安酒がゆっくりとしみのように広がった。それは教科書にのっていたWWⅡの世界侵略地図のように広がった。
「あーーーと、もう気をつけてくれよ全く。」高野は、おどけて少し厚手のその人骨の碗を2本の指でひょいとつかみあげガラスとつやのあるオークでできたセンターテーブルに置いた。
 アルコールの大半は不毛な砂漠に水が吸い込むように消えた。
「人の骨が入っているってきこえたんですが」新田はこみあげるなにかと戦いながらおそるおそる言った。
「君はボーンチャイナとか聞いたことがあるだろう。さっきのようなレストランで提供される洋食器は大抵原料に牛の骨灰が入っている。白い器をより白く透明感を出すための配合だ。」      
高野はいまでは大変薄気味わるい存在になったその白い器を、間接照明にすかして見ている。それは怪しげにぼんやりと光っている。何人かの苦しげに揺れ動く亡霊が呻いているのに、耳を傾けるかのように。
「それは分かります。でも人の骨って。」
「どうだい、ちょっとしょっぱい味がしなかったかい」
「合法なんですか」
新田はおそるおそる聞く。
「もちろん、違法だ。」
高野は楽しそうに言う。
「それに君は知らないかもしれないが、陶芸のガスの窯というのは人間をまるごとイリーガルにこの世から消すのにも適しているんだ。」「どういうことですか。」

 新田青年は、ここに来たことと、この男と知り合ったことを心底後悔し始めた。
「2005年に暴力団員の幼馴染に拳銃でおどされた陶芸家が、殺されたホステスの死体を陶芸用の窯で焼くという事件があった。陶芸窯は1400度近くまで温度を上げることができ、この温度で焼いた人体は、火葬場のように骸骨のような骨で残らず、細かい灰色の灰になってしまう。焼かれた灰からはDNAが検出されないのをねらっての犯罪だった。」
 青年は、殺された綺麗な若い女の人が狭いガス窯に詰められ、四方よりバーナーで焼かれ白骨となるところを想像してしまった。そして扉を開けると、窯の中に、黒く焦げた棒切れのようなものが。それが窯を開けた衝撃でカサリと倒れる。灰の中の白い丸いものは歯を剥きだした髑髏で、脳髄はどろどろと煮凝り、黒い灰の間から横にはふわふわした泡が。脳漿だ。目玉はブクブクとに煮え立って飛び出ている。

「もしかしてその殺された女の人の灰がこの碗に。」
「まさか。そんなわけないだろう。」
「その、あなたはもしかして、原料の灰を手にいれるために人を違法に、焼いたりもしているんですか」
「ナチスドイツの石鹸作りじゃあるまいし。これがあなたの家族ですって石鹸を笑いながら見せられたら、その原料は父と母と妹だったとか。」人体の脂肪が原料の石鹸の色はきっと、炭鉱などで鉱夫の足止めのまじないなどのため、無理やり振舞われたといわれる人肉を交ぜこんだの黍粉麵麭のような、薄鼠色で、まだらに色が違うだろう。濃い色のところは、父だろう。薄い色は妹か。頭髪も何本か飛び出している。父の白髪まじりの髭も。それはなんておぞましい物体だろう。

高野はさらに恐ろしいことを言い始めた。

「ナチスといえば、人間でランプシェードを作った女の話知っているか。ナチス収容所長の妻だった女だ。入れ墨をしている囚人がいると注射で毒殺してから皮膚を採取した。電気を点けた時に明かりからぼんやりと透けて見える刺青の模様を見ることを好んだんだな。」
「好色でサドで快楽を追求した彼女は、人皮ランプの明かりの下で、気に入った囚人に夜伽をさせたんだ。たいがいは見目の良い若いのを選んでね。その性奴たちは悲惨だね。さんざん責め立てたアブノーマルなセックスの後、息も絶え絶えで青ざめたところを、容赦なくピストルで何時間もかけて惨殺されたんだ。命乞いを何度もさせてね。どのみちまあ、強制労働で役に立たなければガス室で集団最終処分される運命だったため、問題にはなるまい。」
1933年から1945年、ヨーロッパ全土で600万人もの罪なきユダヤ人が、大量虐殺の目的で建造されたアウシュビッツなどの絶滅収容所で、効率的に、無残に殺された。それは、6桁の番号だけの存在なった人間達を数の上に殺戮するためだけの非常に計画的な、悪のシステムであった。
「それどころか、最後には、若くて肌のきれいな囚人へ、お抱えの刺青師が凝ったデザインの刺青をし、肌を傷めぬようたっぷりと栄養をつけた後注射で動けなくして皮膚を剥いだんだ。」
青年は思わず自分の右手の甲の肌を左手で握りしめる。肉体労働をしない新田青年の皮膚はきめ細かく年齢のわりに比較的綺麗だ。
そこへ高野のバリトンがおそろしげに響く。
「好みのランプシェードのためにね。」
新田青年はこの部屋のランプシェードを思わず見上げる。それは不気味に白く光っている。
「いや、それは長久手のIKEAで買ったんだよ。安いが良いデザインだろ。」
 北欧調のモダンなデザインだが、模様が壁に影になっている。そして空調で揺れて影が動いている。それが揺れているのか自分が左右に揺れているのか、青年は分からなくなってきた。ブンブン。影がゆれる。コチコチ。壁時計の針が動く。振り子が左右に砂を撒き散らすように時間がすぎてゆく。
「やっぱり人骨にまさる原料はないからね。牛骨はそれには劣る。」
ぼんやりと高野の声がこだまする。
高野は親指と人差し指で半円をつくり、薬指と小指を碗の底にそえ、灰白く彩光する器をそっと持ち上げる。
「じゃあ・・・一体誰の骨なんですか。」
青年は、もはやなにも聞きたくはなかったが、今なにか口を開かなければ自分というものが希薄になりそうだった。
「ははは。この器。これは火葬場からの払い下げの人間の遺灰さ。」
 気がついたが高野が笑うと綺麗な歯並びの端正な口元の、そこだけ特徴的な糸切り歯の犬歯がきらっとひかる。まるで吸血鬼ドラキュラのようだ。黒ずくめの服装もきっと似合うだろう。
「ようするに火葬場の遺灰には、生き方のちがう何人もの骨が混ざって入っている。」
 火葬場で骨壷などに入りきらない遺灰や引き取り手のいない遺灰は「残骨灰」といって扱いは地方自治体に任されている。
「君は火葬場にいったことがないかもしれないが、関西地方の火葬場では骨の一部、ちょうど喉にあたる部分の骨しか持ち帰らない。他は廃棄だ。関東地方では一応希望すれば全てを持ち帰るけどね。」
「その残骨灰は人間のミックスだ。老衰で家族に看取られ亡くなった人もいるし、身寄りのない人もいる。若くして不幸にも病気で死んだ若い人もいるし、思うことあり自殺した人や、殺人を犯した人、もちろん殺されてしまった怨念のある被害者もいるだろう。」
「これは現在の社会システムのなかで実に平等な側面なんだ。私はこれを大変気に入っている。どんな金持ちも貧乏人も死んだら混ざってしまうからね。それこそプロレタリアートだって資本家だって同じさ。」
「雑夫も水夫も漁夫も、船医も監督も軍艦士官も、簀巻きの運命を逃れられればみんな一緒に残骨灰の仲間だ。それに蟹をくわえたら、小林多喜二もびっくりすることだろう。ははは。」
「そしてそれで作った器さ。どう思う。」
「ということは、これはたくさんあるんですか」「そのとおり」
 高野は、立って壁に近づき、手をかざした。スッと前面の壁が動いて、中の空間が開いた。同時にライトアップされ、ウィーンと中の棚が上がってきた。それはセンサーで開閉するタイプの収納家具のようだ。
 赤いフェルトのような布の上に、大きめのぐい呑みサイズから抹茶茶碗くらいの大きさまで様々な大きさの、うすぼんやり白く透明な器が、10個くらい、まるで宇宙人のガイコツの博覧会のようにきれいに並んでいた。
「これで人間約100人くらいかな」
「なんでこんなことするんですか。」
「よく聞いてくれた。私は死んだ後の人間の部品に精神を見出さないのさ。」
「そんな。」
「じゃ、聞くが、君は人間は死んだらどこへ行くと思うんだい。骨なんかただのカルシウムとリン酸の化合物じゃないか」
「それは。」
「墓に入れた骨は100年もたてば水と反応してあとかたもなく消えるんだ。たんなる物質にすぎないんだよ。」
「悪趣味だ。」
「人間は悲しみの器である。この言葉を聞いたとき、私は意味がわからなかった。」
高野はなぜかきゅっと悲しそうな顔をした。「今なら分かる気がする。」

「ちょっとトイレかりていいですか。」
「キッチンの横、突き当たりだよ。」
 新田青年は、その黒を基調とした清潔だが狭いトイレで、懺悔するカトリック教徒のような姿勢でひざまずいて何度も吐いた。本当にいままでの全てを懺悔していた。生きていることを後悔していた。吐瀉物が体液になるで。トマトサラダとローストビーフと日本酒。人の肉と血液とポカリスエットのようなしょっぱい味がした。
 よろよろとトイレから出て、そのまま右手にあるおおきな背の低いソファのある部屋に転がりこんだ。
 明かりはついていない。どうやら書斎のようなスペースで大きな本棚が壁一面についているようだ。
 このおぞましい人骨と人肉の館から帰りたい。帰りたいのに体が動かない。
 しかし空調はとても心地よい。部屋の匂いもかすかにウッディなアロマの匂いがする。ソファは布のように柔らかいレザーで丁度良い硬さ。体になじんでくる。
「きっとこれからアブノーマルなセックスとやらが始まって。」
青年は想像した。
「そして最後に俺はあのドラキュラに殺されてしまう。」
新田青年はまとまらない頭で焦っていた。
「俺の骨は窯で1400度で焼かれ、生きたあかしである両親にもらったDNAも消去され、自分はこれから単なる器の構成要素にされてしまうかもしれない。」
 なぜかその器を目にし、手にした地元の両親の衝撃に歪んだ顔が脳裏に浮かんだ。
 母はいつも太陽のように朗らかで、父も冗談好きな立派な人だ。青年はそんな2人が大好きだ。
「そしてきっと、そんな二人を前にして『あなたの大切な息子さんはいまこの器のなかにいます。』とでもドラキュラが言うのだろうか。
 その前にさっきと同じように、何も言わずに両親にその器で酒を飲ますのだろうか。そして感想を言わせるのだろうか。」
「・・・その器は、生前の俺のどんな部分を留めていると私の家族のあの人たちは思うのだろうか。」
 新田青年は底の見えない絶望と、今まで感じたことのない苦しみに襲われ、独り嗚咽した。

間章 夢
「そして青年は悪夢を見た。
青年は広い宇宙においてきぼりにされ、独りぼっちだった。さらに悪いことに、そこは地獄だった。そして、光すら飲み込まれた闇の中に、純度の高い、まじりけのない「悪」のかたまりが具現化した。純度百%の悪のかたまり。それは、ただただはげしく人間を憎んでいた。
青年の心を温めてきた父や母、好きな後輩の女の子やふるさとの自然のイメージは、この前ではまったく無力だった。
それはニワトリだった。それも鳥インフルエンザですみやかに殺処分された養鶏場の、ニワトリたちの魂が凝縮されたかたまりだった。ニワトリの体が白い粉をかぶって何万羽と打ち捨てられていた。養鶏場のパソコン画面には「件名:殺処分の決定」と書かれたメールがチカチカ点滅していた。
その暗く黒いかたまりは、すべての人間が恐怖と共に絶滅されることを望んだ。無慈悲に。徹底的に。容赦なく。
青年は、必死に目を固く閉じて暖かな朝日が到来し、闇を打ち抜けることだけを願った。」
間章 おわり

 気がつけば、新田の体には空気のように薄手の上等な羽毛のベッドカバーがかけられていた。側の瀟酒なサイドテーブルの上、箱入りの胃薬と水のはいったカラフェと薄いグラスがあった。
 木のブラインドを通したしま模様の朝の光の粒子が部屋の空気を波のように均等に分解していた。
 ピチピチと鳴く鳥の声が聞こえた。
 腕をみると手首の時計は、朝の7時11分を指していた。
 「門」という字のかたちに壁一面に造りつけられた本棚があった。書籍は横文字が半分くらいだが、インテリア、芸術関係や陶磁の歴史関係、図案集などが多く、危惧していたグロテスクなものはなにも見当たらなかった。
 中央に、大変目を引く一枚の絵画があった。そこの本がない真ん中の部分に、大きな空と海の風景画が掛かっていた。その絵は荒れた海に空が絵の5分の4。暑いグレーの雲の間から何本も黄色い光がシャワーカーテンのように降りて、その下の海だけが真っ黒のなかに光溜まりをつくっていた。
 「救い」という言葉がなぜか唐突に青年の脳裏に浮かんだ。
「なんだか心が穏やかになる絵だ。」
 ソファに起き上がって、しばらく青年はその絵をくいいるように見つめた。時間は蟹のようにぞろぞろ過ぎていった。そして同時に、秋の残日のなかで葛藤も苦しみもなく気高く静かに、落ち葉の玉座に横たわっている加藤露吉の遺体のことを思いだしていた。
 亡くなった加藤露吉さんの精神は、きっと光を辿って、あのとき空に上がっていったんではないかと、青年はなんとなく思った。
だから、地下の霊安室にあったご遺体は、抜け殻にみえたんだろうと思った。
 ぼんやりと、火葬されミックスされ廃棄処分になったたはずの、露吉さんの白いご遺骨のことを思った。
「露吉さんは陶芸家だから、死んで器になりたいと思ったりもするのだろうか。」
「でも、もし思ったとしても、その思った気持ち、露吉さんの精神の部分は、すでに天にのぼってしまっている。」
「何故なら火葬の際は、もう露吉さんは遺体のなかにはいない。」
青年は、自分で考えをめぐらせた。
「では、器になりたいと思ったりしたとしたら、その気持ちはどこへ行ってしまったのだろうか。」
 青年は、また絵のなかの光の束を見つめた。空に浮かんだ迎合する光の塊を見つめた。そして寝ているように横たわっている露吉さんから、なかのうつくしい気持ちや精神が、どんよりした荒海から、光の塊になって、空へのぼっていくのを想像した。何度も何度もイメージをなぞった。まるで祈るような気持ちで。
 それは意識はしていないが、青年ができる精一杯の「供養」であった。
 そして、青年は、昨日の何人分もの骨が入った白い美しい磁器を思い出した。そして、高野の声を思い出した。
「人間も、さて金閣寺でも見物に行くべ、と満員の市バスに乗るようにぞろぞろ川崎船に乗った蟹も、植物や鉱石とおなじ地球の構成要素の一つにすぎないんだよ。」

 青年の胃は、もう気分は悪くなかった。かえって爽快な気分だった。
「人間も人間の都合良く動いてくれない蟹も、死んで白骨と化して、生分解され二酸化炭素と水になるのだ。」
青年は思った。
「金持ちも貧乏人も。俺の大切な両親も。会社の人も。そして俺も。この俺自身も。そして蟹も。みんな、死んだら一緒になるのだ。」
「そして、そのなかの本当にいいものだけが空にのぼっていくのだろう。」
「ああ、なんだか空を見上げてみたいなあ。」青年はそのとき電気が走ったように、強く感じた。
「もしかして、露吉さんは、死ぬ前に名古屋へ出てこの場所にたどりつきたかったのかもしれない。」
露吉さんは、ほとんど瀬戸市から出たことが無いという、職人一本の人だったと高野から聞いた。当時の赤津には、信じられないかもないが本当にそのような独身の職人たちが、何人もいた。

 なんの前触れもなく、青年の目から滝のような涙がどっと流れおちた。想像もしていなかったこの現象に、青年は自分の目より涙を流しながら、ただ驚くばかりだった。
 まるで青年を浄化するように流れる涙はしばらく枯れることがなかった。
 その涙の洪水は、青年の疲弊して二つに折れそうだった心を、精神を、いつまでも優しく、暖かく慰撫し、包んでいった。

終章 新しい空

 それから1ヶ月ほどたったある日、新田青年と千賀高校生は、2人で瀬戸市赤津町の丘のうえにいた。
 車2台がすれ違うのがやっとの土埃があがる県道から、左に曲がり丘陵地にむかって細い道をあがっていく。波型スレートでできた製陶所と、煉瓦つくりの煙突が、背の高さより高い金色のがさがさした枯れ草に半ば埋まっている。どこからか煙の匂いがしてくる。
 丘を登り切ったところで二人はレンタカーを降りる。トヨタYARISのまだ新車だ。
 そこは、県道と、刈入れの終わった棚田を縫って流れる川に向かってひらけている。眼下の建売の屋根や、瓦葺きの民家の瓦が、冬の日を浴びて光っている。瀬戸デジタルタワーが右側に見える。
 二人は、道沿いの、温められた廃屋の石垣の上に座った。
 カップのコーヒー2つと、紙袋。なかには千賀が買ってきた、風鈴堂の鈴カステラが沢山。鈴のかたちをした甘さ控えめのころんとした小さいカステラ。ふわふわで、シャリっとした食感で口のなかですっと消えてしまう。いくらでも食べることができる、新田も好物だ。
 さわやかな冬の日差しが、濃い影をアスファルトに描いている。
「実は僕、あれからすぐにここへきたんです。」
あの銀縁メガネをコンタクトレンズに変えたのか、高校生はずいぶん大人びて見える。
「そして、ここに猫がいて。白い細いネコです。首輪をしていて。すごくお腹を空かせていたので、コンビニでねこの餌をかってきて。そのときはなんか気になってきてよかったと思いました。」
彼は、カステラを口に入れ、ハンカチで手を拭き、コーヒーを両手で持ちながら言う。
「そうなんだ。そのネコはまだこの辺にいるのかな」
「ネコはいません。とても懐いたんで連れてかえっちゃったんです。」
「そうなんだ」
「とりあえずネコをリュックにいれて、バスと名鉄瀬戸線にのって。」高校生は笑った。
 高校生は、スマホに入っている写真を見せてくれった。ショートカットで、目のくりっとした小柄な女の子が、白いネコを抱いている。毛足が短く、尻尾の長いネコだ。目の色が左右違う。
「名前はシロっていうんです。」
「この女の子は、妹さん?」
「いいえ、友達です。予備校でしりあって。」
「彼女かよ。可愛いじゃん。いいなあ。」
「実際僕、このネコが来てからいいことばかり起こるんですよ。私立の大学も一発で決まったし。英検もギリギリで合格したし。家族はなんか宝くじが当たっちゃって。このあいだ栄の地下街でBTSに会ったんですよ。信じられます?」
「ははは。それはすごいね。」
「シロのYouTubeを立ち上げて暮そうかと考えています。本当に。幸福の招きネコですよ。」「配信したら教えてよ。あやかりたいからさ。」
二人は笑った。
「高野氏に会ったんだよね」
新田青年は聞いた。
「なんか変なことされなかったの。大丈夫だった?」
「はい。ちょっと変わった人でしたが、人は死んだらどこへいくのかという話で、かなり丁寧にいろいろ説明してくれました。そういう話がとても上手な方でした。声が阿部寛みたいでしたね。顔は渡部篤郎っぽくて。あの方ってホモセクシャルなんですか。」
「え、どうしてそう思うの。」
「シングルみたいだし、なんとなく。雰囲気かな。あと、マーニー教という古代の宗教の話をけっこうしたんですよ。物質や肉体を否定して、死を精神の解放にした宗教で。」
「マーニー教か。なんか聞いたことがあるなあ。」
「マーニー教徒は結婚しなかったし、そういうこともなく、教団は男だけで生活していたそうです。」
「生殖行為が禁止で、信者はメロンとキュウリばかりたべて酒も禁止で讃美歌を歌って暮らしていたんです。生殖は光の要素を減らすし、瓜には光の要素が多く含まれているんですって。」
「でも子供が生まれず世襲がない宗教だと構成人口が目減りするよね。どうしたんだろう。」
「だから、一時はメソポタミアを席巻し、世界宗教になったけれど、すぐ絶滅しちゃったみたいです。」
「そうなるよね。」
「せっかく書いた沢山の諸経典の言語もすぐ死語になってしまって。中世ペルシャ語とアラム語だったんですけど。だれも読めなくなったんですって。」
「千賀くんは外国語できるの。」
「はい。英検一級とTOEIC910点とHSK(中国語検定)2級、西検(スペイン語検定)3級、ドイツ語とフランス語はいま勉強中です。あと国連英検はA級だった。ラテン語も少し。」
「それはものすごく凄いね。」
「将来は砂漠での遺跡の発掘とか、まだ解明されていない言語の解明とか、そういうのに興味があるんです。」
「なんか千賀くんならできそうだね。」
「イタリアのトロイアの遺跡を発掘したハインリッヒ・シュリーマンが、18ヶ国語を習得した方法があるんです。『古代への情熱』という本に書いてあるんですが。音読とか、翻訳はしないとか。毎日1時間は勉強するとか、作文を書いて先生に指導してもらうとか、それらはどれもその時の自分にできそうなことだったので、実際やってみたんです。そうしたら習得することが楽しくなってしまって。」
「あとは人類に共通の、言語の母体みたいなものを解明したい気持ちもあるんです。」
「言語学者ノーム・チョムスキーの『普遍文法』とかかな。全ての人間が生まれながらにして共通の言語装置を脳のなかに備えているってやつ。コンピューターには興味ないの。」
「言語はpythonを習得中です。受験勉強で中断しちゃったんですが。」
「天才だね。君は。」
「高野さんにマーニー教の話を聞いて。マーニーの父はもなんかとんでもないおっちょこちょいの人で。パティークというパルティア貴族だけど人に影響されやすくって。マーニーを説得しにいったのに逆に「じゃ俺も教団を離脱する」ってマーニーの弟子になってしまうんです。」
「ははは。それはおもしろい。」
「それが、自分の父親みたいだったので。父親も人に影響されやすくて。このあいだも、急にうさぎを50羽飼うぞと言い出して、革命家レフ・トロッキーの本で、彼が暗殺される前、毎日うさぎに餌をやっていたかららしいです。」
「今は、うさぎ50匹はなかなか高価だよね。」
「そうですよね。今はシロがいるから飼えないです。で、ぼくはきっとマーニーの生まれ変わりの一人かも。」
「はっは。きっとそうだ。」
「そしたら、高野さんも、自分もそうだと言っていました。」
「あの人はたしかに。そうだわ。」
「・・光が捕囚された呪われている世界にいる私たちにとって、肉体の死は、囚われた光の要素がそこから離脱し、解放する瞬間であり、このうえない喜びのときである。」
「すごい、暗唱できるんだね」。
「個人の死によって、人間の肉体は活動をとめ、精神である魂、微小な光の要素にいたるまで全ての良きものは、肉体を離れ、太陽、月、天の川を通り、歓喜して、光の王国へ向かい、逆に物質である遺体は、冥界の暗黒の物質の固まりとして、遺棄される・・・。」
 高校生千賀の声を聞きながら、新田青年は最近荒んでたこころが、露吉さんが官庁街の横断歩道の下で、秋の残日に当たっているのを見て、そして高野さんのあの絵の前で、不思議な泣き方をしたあと、すっかり癒されているのを思い出した。そればかりか、最近は自己肯定感が上がり、以前より自分を好きになっている。色々な人との出会いを、積極的に捉えるようになった。
 そして、この高校生、千賀くんとも出会ったのだった。
 あと、霊感とはいかないが、第六感が鋭くなった様な気がしている。
 そうだ。空だった。
 新田青年は、なにかにすいこまれるように空を見上げた。
 その日の空は、特にすごかった。
 群青色の空に、羊が何千匹いるような雲が浮かび、雲が重なっているところは、濃く、一番端のふちは銀色に輝いている。
 みるみるうちに、太陽は、日輪のように雲のなかから現れて輝き、そこからいく筋もいく筋も光の帯が降りてきて、田んぼや川に光だまりをつくっていた。雲の影は地上を動き、まるで天上の国を地上に具現化しているようだった。    
 日の光は、まるで眼の虹彩のように輝き青年を見つめ、それはだんだん大きくなり、世界を飲み込み、すべてのものが金色に染まり燃え上がっていた。
「あっ、流れ星・・。」
千賀が叫んだ。まるで、ヘールボップ彗星の如く青白く尾を引くひときわ明るい光が、空に現れた。
 その彗星は、新田と千賀の目の前で一旦止まつた。
 そのまま舞台挨拶するように、その場で静止し、その後まるでウィンクするように数回瞬き、くるっと一回転すると、大きな太陽のなかに飛び込んで、消えていった。
 ありがとうね、という言葉が天上よりひらりひらりひらりと、羊皮紙に記された啓示の様に舞い降りて来た。次の瞬間ヴワーーンと空一杯に何物かの声で響き渡った。

 「願わくば、この出来事を覚えていさせてください。私の母と父がなくなる日まで・・・。
願わくば、この出来事を父と母に見せてください。もし私が仮に、この世を先に去るときは・・・ 」

 黄金の光の中、目を固く閉じて新田青年は、何度も何度も強く彗星に誓うのであった。

            *

それは、偶然にも、露吉さんがこの場所で空をみあげてから、ちょうど10年目の同じ日のことでした。

             終わり













おわりに


「閉ざされ空が見えぬ空間」での死と救いというテーマについて本来なら書きたかったのですが、人間力と力不足のため、十全に書くことができませんでした。というより今回は、全く書くことができませんでした。

小説の書き方は独学で、ほとんどを村上春樹氏の小説から学んだと思います。似た点がもしあるとすればですが、それが原因と思います。

第4章は特に「夏帆」に感銘をうけて書きはじめたので、まるで模倣のようになってしまったかもわかりません。

マーニー教については、青木健氏の著作に多大なる影響をうけています。

二十代のはじめ、たしか3ヶ月くらいだったと思いますが、私を受け入れてくれました瀬戸市赤津町の人たち、本当にありがとうございました。

今回は、そこでの製陶所の仕事のあと、夕焼けのなかで、次の日のおかずにするため、いっしょに山で淡竹(はちく)を取った、あの日のつやさんの思い出に。


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