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咲山重朗の報告 長文

自己紹介

私は、名古屋市大須にて主に古美濃焼・猿投焼・古瀬戸焼等、陶磁器骨董品の仲介、海外輸出等事業を営んでおります、咲山重朗(さきやま・しげお)と申します。
古織部焼などは、造形や色彩のユニークさから、美術館等はもとより、海外でも個人層からの隠れた人気が高く、それなりに取り引きはある現状です。

私が、彼、Tの「妹」と、実際に会った際の事から、お話します。その方が、話が早いですから。

私の営む事務所兼ショールームへ、「妹」がいらっしゃったのは、7月某日の事で、直前まで酷い雷雨だった日でした。その日は、店も暇で、私は、ワーグナーのタンホイザーを聴いていました。

ピカッと光雷と同時に、深紅の傘を差した小柄な女性が、ガラス戸を開け、入ってきました。

レインコート、ショートヘアに、若白髪かカラーリングか、とにかく銀髪で、日本人離れした雰囲気の、歳は40歳くらい、印象としては、何かとても硬い、そうそう、歯列矯正器のような金属製の眼鏡を掛けていました。

彼女は、自分はTの妹だと名乗り、「単刀直入ですが、きいの本についての仮説と言うのを、お話頂けますか。そのために今日参りましたので。」と言いました。私は、この様な土砂降りの雨の日にわざわざ名古屋まで、お越しいただいたお詫びをのべ、「妹様、申し訳ございませんでした。ただ、込み入った話になりますし、また、どちらかといえば、少し空想的な要素もありますので、お目に掛かってお話したく思いました。」と言って、本棚の写真の拡大コピーと、村上春樹の新刊を机に乗せて、空気を変えるために、席を立ち、お茶を持って戻りました。彼女は、店内を見回すのでなく、身動きせず、ずっと腕組みをしていました。ゆったりしたソファですが、コートを脱ぐでもなく、脚を組み、お茶も頷き黙って受けました。

私の、「きい」が、きいろを意味する、きいない(遠州地方の方言では、きたない+きいろい=きいないという表現がある。紙や、布などが経年劣化により着色した際の色である)を表し、あの書架にて、きいない本は、村上春樹の新刊某ページにある本たちと、一致し、ご家族のT様は、村上春樹の小説上の世界へ逝ってしまったため、ご家族には、非常にお悔やみを申し上げますが、こんなことを、他人の口から申し上げるのも、心苦しいさが、きっと天国(というものがあればだが)あの人はとても幸せになっていらっしゃると、私たちは思い、また、生前の彼の楽しい記事と深い洞察力に、私はとても助けられ、一生忘れませんと、お伝えしました。話しながらですが、歳のせいか目の前が曇り、鼻声になってしまい、急いでマスクをずり上げごまかしました。

私が、感情が昂ぶるのと反比例し、彼女は、ますます硬く、冷たく、また、どこかあざわらうような表情を一瞬覗かせ、すぐまた無関心を装いました。

「あ、そうですか。」彼女は、それだけ?と言う様に言いました。
「◯◯キクエの本のヒントが、見つかって、それがあるんじゃないないかと思い、来たのに。」「まるでお話になりませんね。そんな・・本当は、あるんでしょう?」
「えっと、といいますと?」
「キクエが、新郷陸軍第168兵站病院にて、療養中だった某皇族から預かった本のことです。南北朝の源氏物語、巣森本じゃないんですか?!」
「失礼、源氏物語の・・え?」

平安時代に、源氏物語は、54帖と言われているが、実はそれ以外に、南北朝時代に付け加えられたと見られる、「桜人(さくらひと)」「さむしろ」「巣森(すもり)」の三巻があるのが、知られている。これら写本は、時代を経るほどに散在してしまい、今は、幻の源氏物語として知られている。

「巣森本・・・」私は、言葉を失った。確かに、彼女は、古文学に造詣が深そうな、雰囲気はある。そして、私にずっと違和感を抱かせていた何かの正体に気づいてしまった。彼女は、間違いなく、読書をするし、村上春樹の新刊も読んでいるのだ。では、なぜ、本など読んでいないふりなどしたのか・・・。

私が、急に寒くなってきたのは、その日の天候のせいばかりではなさそうだ。

この目の前にいる女は、一体、何者なのか・・。

最初の違和感は、◯日のnoteで、彼の本棚の前で写真を撮っていた。そのすぐ前に、彼がそこで、死んでいたというのに。
また、カエサル暗号と、◯◯キクエのプリント用紙は、本当に、彼が、用意したのだろうか?
次の違和感は、なぜ、この妹は、彼の遺したnoteの記事を、見もしないのだろうかという、前から疑問に思った事だ。

私の頭は、目の前の違和感と、うっすらとあった疑惑で、ぐるぐるはち切れそうで、吐き気がしてきた。

すべては、この目の前にいる「妹」が源氏物語の稀覯本を目当てに、仕組んだのだ。

では、彼は?どこに?・・

そう、それは、自殺ではなかった。

気がつくと、雷雨は止み、「妹」の姿はなかった。

キクエの本
(愛称おきいちゃん→”きい”の本)

◯◯キクエさんについて・・
◯◯キクエさんは、戦争中、日赤の看護師として叙勲され、北支での結核により、貸切の特別列車(軽便鉄道)を仕立てられ、故郷まで帰宅されました。軍は、キクエさんが健康を取り戻しまた戻り次第、天津本営で某皇族付きの病院員にまた、戻す予定でした。
不幸にして故郷での闘病は、叶わず、帰国数年で若くして故郷の一室で亡くなられた際は、戒名には院号がつき、女性として1人のみ、戦争遺族会の墓地に眠ります。もし生きていれば、同郷の東京女子医大の創立者、吉岡彌生女史の様な活躍が望まれていたとまで、聞きました。
◯◯キクエさんは、地元の村主の家に生まれたましたが、別の家に嫁いだ、村主の娘に子供が生まれなかったため、養女として家を継ぐために、生まれた家を離れました。しかし、その家に男子が生まれたため、日本赤十字の看護師に志願したといいます。「家から、戦没者を出さないと家の者が肩身が狭い。」それは、今の家だけでなく、生まれた家の体裁をも考えての、思いだったのでしょう。時代の雰囲気とはいえ、学問を諦め、夢を諦め、北支と遠く離れた故郷での死は、どれほど無念であったのか。

日本赤十字社従軍看護師「◯◯キクエ」さんの記録

しかし、それが、皇族から預かっていた、源氏物語の「巣森(すもり)本」?
でも、あるとしたら、それは、キクエさんの実家である、「妹」、彼女の家なのではないか?

これは、実にありうる話・・私は、また、頭が痛くなってきました。

ひょっとして、彼は、「妹」の探している源氏物語の「巣森(すもり)本」の、ありかのヒントを見つけたのではないか。

そして、それを、本棚のどこかに隠した。

「妹」は彼と疎遠だったが、noteを見ており、彼が、死んでも不自然でないタイミングをみはかり、どうにかして殺めてしまったのではないか。

そして、彼の記事が、拡散されているタイミングで、彼の自殺と、北支における某皇族と◯◯キクエさんの繋がりに関する情報を収集しようと試みたのではないか。

そして、肩書が、骨董屋だった私が、まんまとそれに引っかかってしまったのだ。

雷雨のように、去ってしまったかの妹が、その後、自首したと聞いた。
彼の最後に書いた記事のように、すべての人が光の中へ還っていくことを望む。

おわり





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