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マグノリア

filmarksのレビューとして書いてたつもりが、あまりにも長くなりすぎたため、noteのほうに記すことにした。

以後ネタバレ含むので観るのまだな人は気をつけて✋

先日、ゼア・ウィル・ビー・ブラッドを観てあまりの面白さに腰を抜かして、瞬く間にポールトーマスアンダーソン通称PTAの虜になってしまったので、急遽、それまで膨大に抱え込んでいた予定を全てキャンセルして、今月はPTA強化月間となった。そんで、ゼア•ウィル・ビー・ブラッドに次ぐ二枚目として選んだのが彼の割と初期の頃の作品のこのマグノリア。
腰抜かしたまま下半身ちぎれたショーンオブザデッドのゾンビみたいに這ってレンタルビデオ屋さんまで借りに行った。
さっそく今回のマグノリアなんだけど、映画の作りとしては、いくつかの話が入れ替わり立ち替わり進行していく中で、例えばAパートとBパートの人が交わったり、Cパートの人と繋がりのある人がDパートに出てきたり、Eパートのテレビ画面にAパートの人が映っていたりとそんな感じで、複数の視点を順繰りしながら物語が進んでいく。斉藤和義の歌でベリーベリーストロングっていう伊坂幸太郎が作詞した曲があったけど、あれの登場人物を多くして、もっとややこしくしたような感じ。
映画の中では、天才キッズのクイズ番組が出てきたり、タバコを手渡してもらったり、食事中に気分が優れなくなってお手洗いに席を立ったり、病人が自分で物を持ち上げられなかったりと、いかにもサリンジャーの小説に出てくるグラース家やスペンサー先生を連想させる描写がそこかしこに散りばめていて、PTAの相当なサリンジャーフリーク度が物語上でやっていることも含め全面に押し出されていた。(勝手な思い込み)ゼア・ウィル・ビー・ブラッドとの共通点でいえば、聴衆の支持を一身に集めるいわゆる教祖ポジの奴が出てくるとこと、同性愛的な要素、後は旧約、出エジプト記からの引用だろうか、その辺は変わらずあった気がする。そういったいくつかのファクターやテーマがごちゃごちゃと混在する中で、この映画全体を通じて最も大きく掲げられている主題は何かと言えば、それは司会者のジミーゲイターがクイズ番組冒頭で口にする「天才キッズたちが大人相手に難問、奇問に挑みます」にかかってくるのだと思う。基本的に語られる物語のすべてが子供VS大人、そしてそこに関わってくる人たちという構図を取っているのだ。ということを踏まえて、登場人物の紹介がてら子供、大人の分類をしていこうか。
まず、最初に登場するのが、夫を殺害した容疑で警官のジムに連行されるその妻と思しき太った黒人女性(大人)その子供がうじ虫というあだ名の常にフードを被った青年(大人+子供)それから黒人女性からすると孫にあたるちびっこのラッパー少年(子供)
夫を殺害の咎で連行されるこの黒人女性だけれど、夫を殺害したのはおそらく、うじ虫と呼ばれる息子であって、というのも、この映画の本編が始まる前に、世の中にはいくつもの不思議な偶然が存在します。と紹介されるちょっとした小噺の中に、毎日、両親が怒鳴り合いの喧嘩をしては母親が頻繁に銃を取り出して亭主を脅すので、予めその銃からは弾を抜いてあったのだけど、そんな日常茶飯事の喧嘩に業を煮やした息子がある日、両親に内緒で銃に弾を込めていたら〜とこの話はまだまだ後に続くのだが、今ここで必要なのはこの部分だけなので残りは割愛するとして、一見、関連がないかに思えるそんな話がなされた後に本編が始まるのだけど、警官のジムが黒人女性宅を訪れた理由も、さっき語られた小噺に出てきた両親と同様に、男女が怒鳴り合ってるとの騒音迷惑の苦情の通報を受けてやってきているのだ。そして、拘置所に送られた後で息子の所在を尋ねられても、黒人女性はそのことについて一切口を割ろうとはしない。それらの事実から推察するに、おそらくこの女性は息子の犯した罪を自らでおっ被ろうとしてるんじゃないかとそう思われるわけだ。
その次に出てくるのが、かつてはテレビ関連の仕事を行なっていだけれども、それを引退して、現在では癌で余命いくばくもない状態で病床に伏しているアール(大人)彼にはリンダという妻と、それに体を動かすことの出来ない彼にかわって身の回りのお世話をする派遣看護人のフィルがいつも側についている。ある時、アールはフィルにリンダは実は2人目の妻であって、自分にはリリーという前妻があり、前妻との間にはジャック(子供)という名の息子がいることを告白する。前妻はすでに病気で亡くなってしまったのだけど息子のほうはまだ健在で、死ぬ前にもう一度だけ会っておきたいんだと彼に伝える。息子のジャックは今ではフランクマッキーという名に名前を改名して「チンコを敬え!ヴァギナをこじ開けろ!」のスローガンの元、冴えない男子諸君に女を落とすテクニックを伝授するちょっと過激なカリスマ伝道師として名を馳せている。
そして最後に登場する親子が、クイズ番組で司会者をやってるジミーゲイター(大人)と娘のクローディア(子供)。ジミーゲイターもアールと同じく癌で余命宣告をされていて、死ぬ前になんとか半絶縁状態にある娘と仲直りをしようと彼女の住むアパートを訪ねるのだけど、娘のクローディアは薬物に溺れていて、知らない男を日夜、家に連れ込んではキメセクに明け暮れる堕落した生活を送っている。そんなクローディアに彼が何を話そうと、まともに取り合ってもらえず、最終的には暴言を吐かれるだけ吐かれて家を追い出されてしまう。この映画には他にも親子が、例えば天才少年スタンリーファミリーだったりが出てくるけど、スタンリーの父親が物語に深く絡んでくるかと言われれば、そんなことはなく、二人の関係も特に進展するでなく、ずっと希薄なままで添え物程度にしか関わってこないのでここでは割愛させてもらう。後、実の親子とかではなくても、状況や場面的なものを幼年期、中年期、老年期みたいにカテゴライズする事も出来て、スタンリースペクター(子供)は今、現役バリバリでクイズ番組で活躍する天才少年だけど、かつて同番組で同じように天才少年として持て囃されていたが、カミナリに打たれたことをきっかけに知能指数が標準以下に落ちてしまい、今では成人して、電気屋で働いているドニー(大人)という男が出てくる。また、大人同士であっても、かつてテレビ業界で働いていたアールと、現役司会者として働き盛りであるジミーとでは、彼らの関係性上に限った話をするなら、アールが大人側に属し、ジミーは子側に属すと、そう分類することも出来よう。このジミーのように、クローディアとの関係性においては大人側だが、アールとの関係性では子側と、状況に応じて大人にも子供にも成り変われる人物というのを、幼年期(孫)、中年期(息子)、老年期(親)の三つのうちの中年期に分類される人物とした。映画の中でドニーが、「親と子供をなぜ混同して考えちゃいけない?灰とダイヤモンドだって、一見対照的に見える二物だけれど、この二つは元は同じ炭素からなる物質なんだ。」
と述べているように、まさしくアールはこの台詞に象徴される人物の1人であると思う。そして男女の恋愛の描かれ方も時間の経過ごとにそのような区分けをすることが出来て、警官ジムと薬中クローディアとの恋で2人の男女がはじめて出会う瞬間(幼年期)が、2人が結婚した後をジミーゲイターと妻のローズとの場面(中年期)で、妻を亡くし、全ては過去のものとなってしまった恋愛(老年期)がアールの回想として語られる。
物語を紐解きやすくするための分類兼、登場人物紹介をあらかた済ませた所で、お次はこの映画のストーリーの枠組みがどんな構造をしているのかついて。先程も斉藤和義の歌を例に挙げながらチラッと触れたように、この映画は言うなれば、テレビのチャンネルを切り替えながら何番組かを同時視聴するみたいに、個々のキャラクターの物語に代わり替わりスポットが当てられながら話が進んでいく。もちろん、場面も状況も異なるAさんのシーンからBさんのシーンへと切り替わる時には、そこには何の関連性もなければ、抱えてる問題だったり、見据えてる展望だったりもまたそれぞれに違うものなのだが、映画の冒頭でも世の中にはいくつもの偶然が存在すると語られているように、切り替わった先の、まったく関係のないかに思える別の場面においても、そこに奇妙な一致というか、なんらかの絆や縁のようなものを垣間見ることが出来る。例えば、黒人女性宅に近隣住民からの通報を受け警官のジムが駆けつける。女はひどく興奮していて、何も問題はないから勝手に入ってくるな!と、ジムを追い返そうとする。ジムが何を言っても話にならない感じだ。その動揺ぶりからますます怪しいと感じたジムは、女の反発も押し切って、他の部屋を調べ回ると、クローゼットの中から夫と思しき男性の遺体が見つかる。
所変わって、アールの妻リンダが、アールの主治医らしき人物と処方薬のことについて会話をしている場面
「夫が死にかけているのよ?落ち着けると思う?何が何だか分からないのよ。主人があんなでどうしたらいいのか。だって、実際どうするわけ?遺体とか?それにその後は?何をどうするの?」といった具合に、リンダがアールの主治医に話している内容が、前シーンで警官ジムに詰め寄られた際の黒人女性の内面描写にもどこか通じる箇所があるわけである。さらに、この警官ジムと太った黒人女性とのシーンは、場面が切り替わる前の地続きにある物語の先では伏線としても利用されていて、ジムは女を殺人の疑いでしょっぴいた後、まったく同じような通報を受けて、ジミーゲイターの娘のクローディアの元を訪れる。クローディアは実際には父と口論をしていたのだが、ジムは前回の事件のこともあって、おそらく男女間の痴情のもつれ的なことが原因であるに違いないとはじめから決め込んで、クローディアと接する「何でもないの。それにもう二度と会うこともないから」と事実をあるがままに伝えるクローディアに対しジムは「誰もそういったナイーブな話は他人には話したがらないものだ。でも、もし君が何か問題を抱えているんだったら、自分でよければ話を聞くよ」とちょっと差し出がましい食い違った返答をする。さっき、この映画は何処かと何処かがリンクしていたりすると述べたけれど、時にはそれがまるでスロットの絵柄が全部揃う時みたいに、いくつかの事象が同時に連動して起こることもある。このクローディアと警官ジムとのやりとりを機に、そのような動きがより顕著になる。ジムがクローディアのことを誤解したように、全体的に純真なものを邪なものに誤解されるゾーンみたいなのに入っていく。アールの看護人フィルはマッキーとの連絡手段をどうにか入手するため、ひとまず、彼の書籍の広告が載っているエロ雑誌を必要な食材とともに電話で注文する。すると電話越しに「食材は必要なの?」と問い返される。エロ雑誌を買うがためのカモフラージュ目的で食材を購入しているのではないかと疑われてるわけだ。同じ頃アールの妻リンダは薬局にて、処方されたアールの薬と、自分の精神安定剤とを一緒に貰おうとしている。その膨大な薬の量を見て薬剤師は、彼女がそれを一人でドラッグ目的で使うものだと思い込んで、「これだけの量があればそうとうぶっ飛べそうだね。でも、容量に注意しないと死んじゃうよ」みたいなことを言ってリンダに薬を渡す。そんな誤解の数々がまた伏線となり、フィルとマッキーが出版する本のコールセンターの受付の人とのやりとりへと繋がっていく。
「信じられないだろうね。バカげてると思われたって仕方がない。まるで映画みたいだけど、まさに今がそのシーンなんだ。本当にもあり得ることだから、映画にもなってるんじゃないかな。だから、どうかこのままにはしないでくれ。だって、映画だったらここで必ず助けてくれるはずだろ?」
一方、クイズ番組のほうでは収録が始まる前からトイレに行きたいとの申し入れを周囲の大人たちに聞き入れてもらえなかったスタンリーがぐぬぬ、、とおしっこを我慢していて、クローディアに一切相手にされず家を追い出されてしまった司会のジミーが病気の影響からの吐き気をうぷっ、うぷっ、と堪えている。
その頃マッキーはというと、ちょうど公演の第一部が終了した所で、一部と二部の空き時間を利用してテレビ?ラジオ?かのインタビューに答えている。インタビュアーは彼の出自を調べ上げる中で、彼が公に公表している経歴はまったくのデタラメであるということに気づき、その真意のほどをこの際ハッキリさせたいとの思惑を胸にこのインタビューに望んでいる。そうなことはつゆ知らずマッキーは公演の熱気冷めやらぬままの興奮状態でインタビュアーの質問に意気揚々と答える「名前が知られている分だけ逆に何倍もやりづらい。何しろ言い寄る前から向こうは俺がどんな人間なのか、すべて知られちまってるんだからな」
するとカメラはまさしく今、過去の栄光と現在の生活とのギャップにもがき悩むかつての天才少年ドニーの姿を映し出す。彼はバーのイケメンマッチョ店員に叶わぬ恋をしていて、彼に好かれるため、今のままの状態でもそう不揃いではない歯をさらに矯正することだけに執心している。まるでその様子は今抱えてるいくつもの問題が、そうすることですべてクリアになるとでも思っているみたいだ。
時同じくしてリンダ、アールの遺言書の中身を書き換えたいと弁護士の元を訪れる。それはならないとの弁護士の答にリンダは遺言書を書き換えたい理由として、元々は財産目的でアールに近づいたことや結婚の誓いを破って何人もの男と寝たということを打ち明ける。しかし、彼の寿命がもう長くないとなってから、それらの自分の行いに対して悔恨の念を抱くようになり、今では心から彼のことを愛するようになった。だから遺産はもういらない。との想いを告げる。
そんなリンダとマッキーの二人がここでは対照的な描かれ方をしていて、マッキーは幼少期に父、つまりはアールに捨てられて、癌で死期の迫った母を一人で看病し、一人で看取ったという、彼が自分の公演にて理想と掲げる屈強な男性像とはまるでかけ離れた、ひどくセンシティブな実人生を送ってきた人物であって、だからこそ、彼はこれまで散々辛酸を舐めてきた分は、きっちりと金、もしくは人々からの賞賛を得ることでその埋め合わせをしたいと考えている。しかし、それもインタビュアーの何気ない好奇心から発せられた質問、彼からすれば自身の内面に土足で踏み入られるかのような質問の数々によって、これまで自らの手で築き上げてきた完全無欠の自分像というのが、ボロボロと少しずつ崩れていく。そして、その内側から人前には晒せないほど痛々しく、惨めな自分自身の姿というのが次第に浮き彫りになってしまう。というように、建前の後ろに隠してられなくなった各々の本音がそれぞれの形を伴って顕在化する。
クイズ番組ではまるで、彼、彼女らの心情の変化を数値として表すかのように、これまで正解を連発していた子供チームが、エースのスタンリーがおしがまなこともあって急遽スランプに陥り、その間に大人チームが正解を重ね、あっという間に子供チームの金額を抜き去る。
また、スタンリーもジミーもとうの昔に体調面での限界を迎えていて、まともな思考が働かずに、スタンリーはピンポンを押して半ギレ気味に分かりません!と答えるし、ジミーはジミーで上田さんが一青窈さん見てーと言ってしまった時のように、問題の時点で先に正解を言っちゃう。そのような場面が続けざまに起こるので、互いに自分の過ちで相手の過ちを庇い合うかのような、そんな映り方をする。そしてついには膀胱が破裂してしまったスタンリーがジュンジュワーとズボンにシミを作ると、ジミーも呂律が回らなくなり卒倒して後ろ向きに倒れる。

インタビュアー、マッキーに対し「なぜそのような嘘をつかなければならないのですか?」

ドニー「過去を捨てても過去は何処までも追ってくる」

ジミーゲイター「まったく、みっともないザマ見せちまったな。客席はどうなってる?大笑いしてるんじゃないか?膝が悪くてとかなんとか誤魔化すしかないな」

スタンリー「トイレにさえ行かせて貰えない。クイズに答えるのだっていつも僕だ。なんで何もかも僕ばっかりに押し付けるのさ?何なのさ、これ?うんざりだ。僕はもう何にも答えたくない」

インタビュアー「ダンマリを通して逃げるわけ?」

スタンリー「そういう目で見るのやめてくれない?僕はオモチャじゃないし、人形でもない。キュートだなんて思ってくれなくてもいい。そうさ、どうせ僕は見せ物さ。可愛いだけじゃなくて頭までいいもんだから、頭でっかちなガキだなんて、どうせ裏ではみんな笑ってんだろう?」

マッキー「チキショウ!台無ししやがってこのアマが!」

ドニー「親の罪が子に報い…」

ジミー「いやはや、駄々っ子にはお手上げですな」 

すると、これまでなんとか自分を取り繕ってきたジミーやマッキーとは真逆に、クローディアとジムとの間では見栄や恥じらいを自らの手でかなぐり捨てていくかのように「この部屋に入ってきた瞬間から君をデートに誘いたかったんだ!」みたいな愛の言葉を互いに投げかけ合う。
そして、今度は物語全体がマッキー性を帯びる方向へ、つまりは自己認識と実情の食い違いみたいな方向へと流れていく。
リンダ、フィルがちょうどマッキーとアールとの連絡を取り次ごうと齷齪している所に帰宅する。実の息子に連絡をかけているのだと知るやいなやリンダは血相を変えてそれを阻止する「何のマネ?これはウチの家族の問題よ!勝手なことしないで!あなたがアールの人生の何を知ってるっていうの?見てよ、あの人、可哀想な私の夫。彼には私しかいないのよ。私しか。息子になんか会いたがるわけない!話もしたがるはずないわ!彼が頼んだなんて大ウソよ」とフィルにブチギレる。
だが、皆さんもすでに承知の通り、リンダはこれまで数々行ってきた不貞行為や金目当てで彼に近づいた事への後ろめたさ、申し訳なさも相まってアールへの愛を募らせているのだけど、実はアールも以前、前妻対しこれとまったく同じようなことを行なってきたという過去の持ち主であって、アールはどちらかというとクローディアにかつての自分を見るかのようにして彼女のことを愛している。アールの人生の何を知っているの?とフィルを問い詰めた彼女もまた、アールのことを完全には把握しておらず、むしろ真相を知らずにお互いの認識がすれ違っていることで、かろうじて保てている関係性とも言える。
またまた場面は警官のジムの続きへと戻って、クローディアとのデートの約束にまでなんとかこぎつけウッキウッキでジムはパトカーを走らせている「やった!運命の出会いだ!ずっと祈り続けていれば神様も応えてくれる。ジム、お前を驚かせよう。ある女性との出会いを用意した。そこから先どうなるかはお前次第た。ヘマをするんじゃないぞ。神様見ていて下さい。せっかくのチャンス、絶対ムダになんかしません」一見、これまでのことを述べているかのように思うこの台詞は実はこれから先、彼に起こることを暗示していて、浮かれ気分でパトカーを走らせていると、フードを深めに被った怪しい男(うじ虫)を目撃する。警察官らしい正義感に駆られて、彼はうじ虫の後を追っかける。しかし、そうしたばっかりにジムは何処かの物陰から彼に銃で狙撃されて危うく殺されかかる。あまりのことにひどく狼狽したジムは警官の身でありながら腰につけてた拳銃を失くす体たらくぶり。そうそう、この映画は、世界観が割とけっこうシビアに描かれていて、例えば、このジムにしても、公私混同みたいなことをしてデートに誘った時には上手いこといって、逆に、持ち前の正義感を発揮して善意で行動したことで厄災に見舞われる。劇中、出てくる親にしたって、息子を庇って口をつぐんでいる親らしいといえば最も親らしい母親が拘置所に入れられていて、息子の心情を一切鑑みず、子供を金儲けの手段としてしか利用していない父親のほうがどう見ても社会的には高い地位にいる。幼い子供でさえ人命を助けはするけど、意識を失ってる人の財布からはちゃんと金目のものを抜き取る。というように、この映画の中の世界は現実の世界の在り方と同様に、必ずしも善人が得をして、悪人が損をするといった、そんな道徳の授業で習うかのような単純な成り立ちはしていない。善行のすべてが良い結果に繋がるとも限らないし、犯した悪事や過ちのすべてが平等に裁かれるというわけでもない。しかし、いくら社会の在り方がそうであっても、人の心の中には愛ゆえの後悔だったり、憎しみだったり、罪悪感だったりが終始募り続けていくのだから、それは消えることもないのだから、なるたけ罪は犯さぬよう、回避できる所は回避して賢く生きてこう。みたいな意のひどく抽象的な歌をみんな各々の場所でミュージカル調で口ずさんで、物語は最終章へと向かっていく。物語の最期は仲違いしているジミーとクローディア、アールとマッキーのこの二組の親子がメインに据えられる。ジミーゲイターは今日の収録を終えて帰路につき、家で妻のローズと団欒中、警官のジムはなんとか死線を切り抜けて、クローディアと約束していたディナーデートへ行く。
レストランにてクローディア「誰かとデートしてて嘘ついたことある?自分のことカッコよく見せようとして、あるいは、実際よりもちょっと頭が良く見えるように、嘘っていうより本当のことを隠すっていうか」
ジム「それはいたって普通のことなんじゃないかな。誰だって人からよく思われたいし、まして、意中の人の前でなら尚更にそうだ。カッコつけたり、もし、こんな事言ったら嫌われるんじゃないかって心配になったり」
クローディア「ねえ、、それ、やめにしない?今まではそうであってもこれからは、私も全部話すから、あなたも包み隠さず全部話して。クソもヘドも全部吐き出して、真っ正面から向き合うの」
その裏でジミーゲイターはまさに娘のいいつけに答えるかの如く、これまで行なってきた過ちの数々を妻のローズに洗いざらい告白していく。マッキー親子にもそれと同じような現象が起こっていて、マッキーは公演にて「男はみんなクソだ。ヒドイことをするのはいつだって男だ。卑劣で最低で、女が絶対にしないようなことを平気でする。世間的にはそうなってる。けど、本当にそうか?男のほうばかりにいつも非があるとは限らないだろう?」みたいな趣旨の話をする。すると、これまで諸悪の根源かのような写り方をしていたアールがポツリポツリと口を開いて「出会った当初、リリーはアバズレで、誰とでも寝る女だと友達は噂していた…だけど、人形のように可愛いくってね、」と、リンダがアールのすべてを知った気になって彼を愛そうとしていたように、もしかするとマッキーも、晩年の憔悴しきった母の姿ばかりが記憶に強烈に焼き付いてしまっているだけで、彼の知らない母の別の側面というのもあったのではないか?という可能性がここではほのかに示される。てな具合に、仲の悪いもの同士がお互いの窺い知れぬ所で同調、呼応している。意図的に合わせに行ったら賢者の贈り物ばりにすれ違ったけど、目隠しして求め合ったら、図らずもうまいこといきました。みたいな。物語はまだ続く
ローズ「一つ、腑に落ちないことがあるんだけど、、クローディアのこと。クローディアはなぜあれほど執拗にあなたのことを避け続けるの?」
ジミー「さあ?、、」
ローズ「正直に言って!」
ジミー「あの娘は…私に性的虐待をされたと思い込んでるんだ」
ローズ「なんてこと!それでも父親?あなた本当にやったの?」
ジミー「…分からない、本当に分からないんだ」
ここの真意のほどは最後まではっきりとは明言されない。それを聞いてローズは他の過ちに目をつぶることは出来ても、さすがにそれは許容出来ないとなって家を飛び出す。しかし、物語の流れからすると、ここはクローディア側の勘違いなのかな?と僕は思う。というのも、一つには女だって間違えは犯すのゾーンに入ってるってのもあるけども、このラストってのが、みなが一様に、自分の心に抱える何らかのトラウマ的なものと向き合おうと決意を新たに再び発起する中で、やっぱりキツいや…つって怖気付く、もしくは判断を見誤るみたいなシーンの連続になっていて、リンダはアールの元を去って車の中で貰ってきた薬を大量に飲み込んで自殺を図るし、リンダと入れ替わりでアールの元を訪れたマッキーは気を失ってるアールに対し「どうだ?自分が病人になる気持ちは?苦しいだろ?辛いだろ?母さんも苦しんだ。母さんは死ぬ間際ずっとお前に会いたがってた。けどお前はオレらを捨てたきり一度も会いにくることはなかったよな。クソヤローってのがお前の口癖だったが、お前こそが正真正銘のクソヤローだ!なんでオレはお前なんかに会いに来ちまったんだ、チキショーが!!」と言って泣きながら身悶える。
クローディアは、これからは隠し事はしないでお互いのこと全部、正直に話そうと自ら提案しておきながら、ジムはそれに素直に応じ、自分の欠点や弱みを包み隠さずに提示したのに、クローディアはいざ、自分の番がやって来ると、やっぱり出来ない!だって100パー私のこと嫌いになるもの!あなたは警官で真っ当な人で、後ろ暗いことなんか一つもないから恥ずかしげもなくそんな事が出来るのよ!とかなんとかイチャモンつけて言い渋る。それに対しジムはそんな…あんまりだよ!こんなのってないよ!(CV鹿目まどか)とはならずに、いやいや、そんなことないって、オレはあれがダメで、今日だってこんなヘマをして…とさらに自己卑下を加速させて、ますます意気消沈してく 笑 ドニーは度重なる業務怠慢や店に車で何度も突っ込んだりと数々の失態を重ねてきたことが災いして、歯の手術が近日中に迫っているにも関わらず、このタイミングで仕事をクビにされる。それでも、なんとかして術費を何処かから調達しなければならない。そうだ、元の職場の金を盗めばいいんだ!となり意を決して泥棒を決行。と、すべてが間違った方向に転換しつつある。となるとジミーとローズの二人の会話も、ジミーとしてはありのままを正直に話したんだけど、それを信頼してもらえなかったと捉えるのがまあ、ここでは妥当なのかなと。で、みんなが誤った方向に倒れかかろうとしていたその時、突如、空から大量のデカいカエルが降ってくる。そして、間違えかけていた人たち全員に奇跡的神秘体験かのような良い作用を齎して、なんとか皆、無事事なきを得る。後々、マグノリア考察ブログを調べ回ったところ、英語ではカエルが降ってくる=絶対あり得ないことの例えを表す諺があるらしい。それと映画の要所要所で82の数字が目につくのは、旧約聖書の出エジプト記8章2節のカエルで街を覆い尽くすエピソードからの引用を示しているからだそうだ。そんで、ドドドドドドド!と爆音でカエルの雨が降りしきる中、図書室で一人本を読んでいた天才失禁少年のスタンリー君が
「こういう事もあり得る。こういう事もあり得る」
と意味深に呟いて、不思議な縁で繋がれた数々の奇妙な物語にひとまずの終止符が打たれる。後日、クローディアの元を再び訪れたジムが、君は優しい心の持ち主なんだから、自分はバカな人間だなんて思わなくたっていいんだよ。と若かりし頃のリリーを彷彿とする彼女のことを受け止める形で映画が終わる。    


改めて振り返ってみても、この映画で最も重要な局面というのはやはり、クローディアとジミー、マッキーとアールのラストにかけて親子の絆が窺える所じゃないか?この物語1番の見せ場はそこだと思う。マッキーとアールとの関係性で相手を他人として受け入れるような赦しが描かれていて、一方、クローディアとジミーの関係性では自身の在り方を通じて相手を肯定するかのような赦しが描かれている。なんだか、種類の異なる赦しを両側から挟まれるみたいにして提示された気分。挟まれると言えば、ジミーが奥さんにこれまでの不倫を白状するシーンも、冷静になって考えてみると、なかなかにエグいシーンなはずなんだけど、それすら出来ずに家族を捨てたアールの話と、クローディアとジムの嘘はやめて正直に吐き出しましょって二つの話の間にBLTサンドみたいに挟まれて進行していくことでそんな殺伐とした瞬間も何がしかの補正がかかった美談的なものになって、さも心暖まるシーンかのように感じられてしまうんだよな。恐ろしや編集の魔力。後、ここで書いてる中にはかつての天才少年ドニーの登場頻度はそんなに高くはなかったけど、彼近辺では、「退屈な人は周囲の人間をも退屈にする」だとか、「天才は自分で自分を滅ぼすだって?なわけあるか!エゴ丸出しで子供を振り回す親が滅ぼすんだ!」だとか、「愛はこんなにあるのに、その吐け口が何処にも見つからない!」とか、けっこう心に刺さる名言の頻出度は高めだった。
映画としては、アンダーソンくんの初期作品ということもあって、映画の中で存分に物語の動かし方の練習をしているみたいな、そんな印象を受けた。ただ、ちょっと詰め込みすぎてて、後半、内容物が作者の手に負えなくなってる感は正直ある 笑
とはいえ、普通の映画、何本分かの熱量を持って脚本練ったんだうなって気概はひしひしと感じられて、ここから自制が効く範囲でまとめられる程度に物語の構成がシュッとしていって、かわりに映画のストーリーそのものの重厚さが増すことによってあの名作、ゼア•ウィル•ビー•ブラッドに繋がっていったのかと思うと感慨深い。その片鱗みたいなものはこの映画の中からも確かに感じられた気がする。でも、僕の中のマーシーがアンダーソンくんの力はこんなもんじゃなーいと声にならぬ声で叫び続けているので、彼の今後に期待を込める意味合いも兼ねて星は、、、4.1!
なお、アンダーソンくんは、その他大勢と比べられるような男じゃなく、西郷さんの腹くらい唯一むにむにのかけがえのない存在なので、これは彼の作品のみを対象とした評価値となっております。予めご了承ください。


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