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Longshot For Your Love / The Pale Fountains ライナーノーツ 日本語訳 その1

1998年に『Longshot For Your Love』が発売された時の嬉しさは今も覚えている。輸入盤なのにブックレットの序文が小西康陽!というのも衝撃だった。しかしボリュームたっぷりのライナーノーツ2本は、読みたくても長い英文なので読めず…。でも2023年の今ならアレをアレしてどうにかできるし、マイケル・ヘッド来日記念ってことで、ここに翻訳してみたよ。どうか怒られませんように!

Longshot For Your Love
エリック・メイソンによるライナーノーツ(前編)
後編はこちら

80年代初めの一時期、The Pale Fountainsは、あらゆるものを持ち合わせていたと言えるだろう。シンプルな輝きを持つバンド名、完璧なレコードスリーブ、The Little Rascals(※1)のルックス、よく練られた多彩な楽曲。彼らはポップスの上品さとエキサイティングさの、すべてを体現していた。しかし、初期のシングルとデビューアルバム『Pacific Street』は、そのストーリーの半分でしかない。残りの半分は、この『Longshot For Your Love』だ。これは80年代で最も洗練されたアルバムのひとつである『Pacific Street』の完璧な姉妹編である。1982年のファースト・シングルと1984年のデビュー・アルバムの間の空白を埋める伝説的な「失われた」楽曲が、ここに初めて収録されている。もし『Longshot For Your Love』が、The Pale Fountainsの伝説的なPeel SessionとOld Grey Whistle Testでの演奏を初収録しただけであったとしても、必聴と言えるだろう。そこに長らく入手困難だったシングル曲や、カバーバージョン、知られざるコンピレーション収録トラックを加えたこの作品は、ポップスファンにとって夢のような貴重なパッケージとなった。ここには全てが含まれていて、どれをとっても素晴らしい。『Longshot For Your Love』は、無邪気さの残る、若くて熱気あふれるバンドの姿を捉えている。これらのレア音源を聴けば、彼らがユニークで特別な才能の持ち主であることを自覚して、信じていたことがわかるだろう。1982年から1984年の2年というのは、ほんの短期間でしかないが、『Longshot For Your Love』に収録された曲は、その10倍以上のキャリアを持つ人たちさえ物足りなく思えてしまうほどの、輝かしくも一貫したソングライティングに満ち溢れている。

※訳注1:アメリカのテレビシリーズ。1994年、2014年にも邦題「ちびっこギャング」として映画化されている。

The Pale Fountainsは1980/81年に結成された。17歳のマイケル・ヘッド(ギターとボーカル)がベーシストのクリス・マカフリーの地下室でセッションし、クリスの学校の仲間であるトム・"ジョック"・ウィーランがドラムを叩いた。ネイサン・マクガフ(後にハッピー・マンデーズのマネージャーとなる)がパーカッショニストとして参加し、初期のマネージャー業務も担当した。レス・ロバーツはフルートのパートタイム・メンバーとして採用された。トランペットのアンディ・ダイアグラムは、ディスロケーション・ダンス(The Pale Fountainsの初ロンドン公演で共演した)在籍中にペイリーズ(※2)と出会い、バンドに加わった。

※訳注2:ペイリーズ(Paleys)=ペイル・ファウンテンズの愛称。

80年代初頭のイギリスのトップ"アンダーグラウンド"バンドのご多分に漏れず、The Pale Fountainsもリバプール出身であった。しかし、その共通項は同郷というだけで、雨でなく太陽、トレンチコートではなく短パンが、ペイリーズのトレードマークだった。彼らにとって、当時のリバプールの音楽より、北に数マイル離れたポストカード・レコードの本拠地グラスゴーのほうが、ご近所さんに思えたに違いない。リバプールでAztec CameraとOrange Juiceをサポートしたそれぞれのギグは、ペイリーズの形成期において最も重要なものであった。

初期のペイリーズについての批評は、バンドの音楽性よりもむしろ、ファッション(ショートパンツ、サンダル、ハイキングブーツ)やアウトドアへの愛、フットサルの対戦相手としての強さ、などに集中する傾向にあった。これは、バンドが若い活力に満ちていて、いつもそんな話題で盛り上がっていたからなのだ。スカウト隊長のバーデン・パウエル卿(※3)とボサノヴァ・ギタリストのバーデン・パウエル(※4)は、The Pale Fountainsの初期に同等の影響を与えたと言うことさえできる。NMEは、ファクトリーレコードのバンドと同じようにステージでショートパンツを履いていたことから、彼らを "A Certain Ratio short-a-likes "と名づけた。バンドは、ステージで着ているものは作為的なものでなく、どこでも着ているものであり、なんにせよ、一番の関心事は心のこもった情熱的な音楽であることををじっくり説明してくれた。

※訳注3:Robert Baden-Powellは、イギリスの軍人、作家で、スカウト運動(ボーイスカウト、ガールガイド)の創立者。
※訳注4:Baden Powellは、20世紀のブラジル音楽を代表するギター奏者、作曲家。パウエル卿と同姓同名。

1982年、マイケル・ヘッドは「僕はただ、名曲と呼ばれるものを書きたいだけなんだ」と述べた。このソングライティングのコンセプトは、インタビューで何度も繰り返し語られた。バート・バカラック、ジョン・バリー、セルジオ・メンデス、ラヴ、サイモン&ガーファンクルなどの名前が常に挙げられていた。この時代のライブでのカバー曲は、次のようなものだった: ラヴ「Maybe The People Will Be The Times Or Between Clark And Hilldale」、サイモン&ガーファンクル「スカボロー・フェア」、バート・バカラック「Walk On By」。マイケルの「シャーリー・バッシーやそういった人たちのために曲を書きたい」という願いは、初期のいくつかの記事の切り抜きに見ることができる。ペイリーズは、オペレーション・トワイライト(※5)のためにバカラック、メンデス、ラヴのカバーアルバムを録音していると噂されたこともあった。80年代初頭のポスト・パンクの爆発的な流行の中、これらの名前は「シーン」にそぐわないものだった。事実、音楽的影響としては時代錯誤なものであっただろう。

※訳注5:オペレーション・トワイライト(Operation Twilight)は、クレプスキュール(Les Disques du Crépuscule)の姉妹レーベルで、イギリス支社にあたる。

このCDに収録された曲たちには、完璧でビッグな、時代を超えるポップソングを書くことについてのマイケルの憧憬がきらめいている。洗練されたアレンジと熟練の演奏は、バンドの相対的な若さを考えると驚異的といえる。さらに驚くべきは、ペイリーズが、こうした伝統的なポップスの影響から生まれた楽曲に、ムーディーで雰囲気のある「異質さ」を持ち込んでいることだ。各曲は、完成版に施された、時に大仰に聴こえるプロダクションがなくても、単独で成立することは明らかだった。The Pale Fountainsは真剣であり、マイケル・ヘッドは優れたソングライティングの重要性を知っていた。「僕たちは曲を第一に考えているんだ。もし、それらの曲がフルートや、100人編成のオーケストラ、あるいは僕とアコースティックな演奏を必要としてるなら、そうするまでさ。」(1982年、レコード・ミラー誌)。本作で初めてCD化された1982年のCrepusculeの貴重なコンピレーション・トラック「Benoit's Christmas」でマイケルがアコースティック・ギターだけで一人で演奏しているのを聞けば、そこにThe Pale Fountains作品の最大の根幹をなす、洗練されたポップ・センスが、原型のままで輝きを放っているのが見えるだろう。

The Pale Fountainsは1982年の春に、(オペレーション・トワイライトと)最初のレコード契約を結んだ。マイケル・ヘッドは18歳だった。「クレプスキュールは、僕らのロンドンでのライブを見て、このシングルを作ることを提案してきたんだ。素敵だと思ったよ。というのも、クレプスキュールのサウンドはどれも豪華だからね。」(Jamming誌, 1984) 最初のシングルである 「Just A Girl」は1982年のポップな夏にリリースされた。このコンピレーションに収録されているのは、オペレーション・トワイライト盤のオリジナルで、このバージョンが入手できるのは発売以来、初めてになる。この曲にはアーサー・リーがマイケル・ヘッドに与えた影響を示す好例が残っている。冒頭のトランペットのリフは、ラヴの代表作『フォーエヴァー・チェンジズ』収録の「The Good Humor Man He Sees Everything Like This」とほぼ同じである。B面の「(There's Always) Something On My Mind」も初CD化だ。1983年に録音された後のバージョンは『Pacific Street』に収録されている。

オペレーション・トワイライトからの2枚目のシングルは、1982年9月にリリースが予定されていた。このコンピレーションのタイトルの由来でもある「(I’m A) Longshot For Your Love」は、カタログ番号OPT 015が与えられたが、リリースされなかった。クレプスキュールの保管庫を調べたところ、正式なスタジオバージョンは録音されていないことが判明した。このCDに収録されているバージョンは、1982年7月に録音されたピール・セッションのものである。この曲がリリースされるのは、いかなるバージョンも含め、このコンピレーションが初めてとなる。

このような遅延は、長年のThe Pale Fountainsのファンにとっては珍しいことではない。1982年に最初のシングル「Just A Girl」がリリースされた後、1984年の2月にヴァージン・レコードから『Pacific Street』がリリースされるまで、ファンは(アルバムの発売を)待たなければならなかった。ヴァージン・レコードは、1982年10月、契約額について激しい憶測が飛び交う中、ペイリーズが契約を決めたレーベルだ。彼らとの契約に対するメジャーレーベルの関心は、1982年の夏の終わりにピークに達していた。ベーシストのクリス・マカフリーはこう振り返る:「その頃、ロンドンのザ・ヴェニューで演奏したんだけど、そこで目にしたのは、いろんなレコード会社の連中が、他より大きな拍手をしようとする姿だったよ。マイケルは、『後ろのみんなは拍手をしてくれ。前にいる連中は契約書を振ってくれ。』って言おうとしてたよ…。」(レコード・ミラー誌, 1982年)

しかし、ペイリーズは、熱狂的なメジャーレーベルの入札者が期待したようなメインストリームでの成功には至らなかった。彼らの最高位は、シングルチャート48位を記録したヴァージンの第1弾シングル「Thank You」(1982年10月発売)であり、2枚目のシングル「Palm of My Hand」(1983年5月発売)は59位であった。これが、The Pale Fountainsの人気の「黄金時代」だった。しかし、その後ペイリーズの信奉者がよく体験することになるように、マイケル・ヘッドはその勢いに乗ることなく姿を消し、1984年1月、デビュー・アルバムの1ヶ月前に「Unless」がリリースされるまで、再び姿を現すことはなかった。ちなみに、1983年5月にペイリーズが行ったジャニス・ロング(※6)のセッションのテープは、BBCがこのコンピレーション用の素材を探すためにアーカイブを検索しても見つからなかった。

※訳注6:ジャニス・ロング(Janice Long)は英国の女性司会者。BBCラジオで音楽番組を持っていた。

『Pacific Street』がようやく世に出たとき、それは驚くべき快挙であった。デビュー・アルバムに収録された曲の深みと多様性は、このアルバムを瞬く間に名作に押し上げた。クリス・マカフリーは「どの曲も違いはあれど、どれもペイリーズの曲だとわかるんだ」と述べている。『Longshot For Your Love』に収録された曲は、1984年以前からペイリーズが別の名作を生み出していたことを証明している。『Pacific Street』が、The Pale Fountainsがキャリアの初期に表現した音楽的アイデアの集大成だとすれば、『Longshot For Your Love』はその完成形である。

後編に続く


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