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The Doris DaysからPacific、そして現在へ:Dennis Wheatley インタビュー

デニス・ウィートリー(Dennis Wheatley)という名前をご存知だろうか?

家族と友人たちへ
たとえ月日が流れ去っても
暑い浜辺で時を過ごすように 
僕たちが暮らしていくことを
想いを込めて

続けていこう いつまでも
君たちの愛する者たちの
心をのせて

Pacific「Barnoon Hill」より

名曲「Barnoon Hill」を生み出したPacificの中心人物、と言えば興味がわくだろうか?
硬質でペナペナしたリズムマシンと低音のシーケンスによるナゾの打ち込みサウンド。アコギや弦、トランペットが入っていて、(後に有名になった)日本語ポエトリー・リーディングも出てくるので、ネオアコ的なものとして分類されがちだけど、よく考えたら変な音楽だ。
何の影響を受けているかもよくわからないし、クリエイションから出た2枚のEP(と、それらをまとめたLP「Inference」)以外に、他の活動も聞いたことがない。
抑制の効いたサウンドは中毒性があって、時代を超えても古くならなかったけど、抽象的なジャケットのイメージのせいか、なぜかメンバーの姿や人数を想像しながら聴いたことはなかった。
あの時代に、一瞬だけ現れてふっと消えた匿名ユニットのような印象を持っていた。

ところが数年前、なにげなくDiscogをチェックしていて驚いた。
私が持っていたCD、Shrift「Lost In a Moment」の片方のメンバーが、あのPacificの中の一人だったのだ。
まったく関係なく手に入れて、まったく別々に聴いていたCDが同じ作者だった。点と点が繋がり、私はその人物、Dennis Wheatleyのことを調べはじめた。

以下は、Cloudberry Records(NYのインディーズレーベル/ショップ)のブログに掲載されたインタビュー記事の勝手な翻訳です。Dennis Wheatleyの初期から現在までの活動について詳しいです。原文は以下にあります。


ザ・ドリス・デイズ

(2010年7月9日 文:Roque)

このインタビューに答えてくれたDennis Wheatleyにとーっても感謝しています。
The Doris Daysは私の大好きなバンドなんだけど、リリースされた作品は何もないんです。でもとてもいいバンドだったんですよ!
1年ほど前に、同じくバンドに在籍していたヘイリー(Hayley Morton)と何度かメールのやり取りをする機会があったのですが、それについてはこちらをご覧くださいね。

今回、幸運なことに、バンドのリーダーであったデニス(Dennis Wheatley)と話すことができて、この長いインタビューにも答えてもらいました。いつか彼らの音源が再発されることを祈っています。お楽しみにね!

— デニスさん、こんにちは。インタビューに答えてくれて、本当にありがとう。さっそくですが、The Doris Daysはどんなバンドだったのでしょうか?

ザ・ドリス・デイズ(The Doris Days)のメンバーは、以下でした。

  • デニス(Dennis Wheatley・私です): 歌、ギター、ドラムマシン、作曲

  • ヴァネッサ(Vanessa Norwood): 歌

  • ニック(Nic Wilson):トランペット、コルネット

  • サイモン(Simon Forrest):チェロ

  • エド(Ed Down):ギター

  • ヘイリー(Hayley Morton):キーボード

  • レイチェル(Rachel Norwoood):ギター

— バンドはいつ結成されたのですか? どうやって知り合ったのですか?

The Doris Daysは、私がブライトン美術学校の表現芸術(Expressive Arts)というコースで曲を書くことから生まれたバンドでした。スタジオを使わせてもらえたので(週末に文字通り寝袋を持って行ってました)、バンドの形になるよりもレコーディングをするほうが先でしたね。
初めは、ただ録ったものを重ねていくだけでしたが、やがてトランペットとチェロを演奏できるサイモンとニックを見つけて、曲は全く別の空間へと広がっていったんです。

ネス(※ヴァネッサの愛称)は私のガールフレンドで、レイチェルは彼女の妹でした。(当時やっと16歳くらいでした。)
ヘイリーは、ネスとエドを通して知り合いました。
エド......彼は変わり者でしたね。彼はブライトンに住んでいたわけではないのですが(ノーフォークで空軍の戦闘機を修理する仕事に就いていました)、マッドなエネルギーと熱意に満ちていて、可能な限りブライトンまで足を運んでくれました。(その多くはヘイリーの方向に向かっていたと言わざるを得ません!)
彼はサイモンの弟で、Pink Label(June Brides、Wolfhoundsなどが所属)の共同経営者でした。
どうやって出会ったのか思い出せないのですが、East Londonの彼の家でローファイな感じで何曲か演奏していた時に、エドが「まだギターは弾けないけど、絶対にバンドに入りたいんだ」と言ってきたのを覚えています。

控えめに言っても、かなりバラバラなメンバーだったんですが、全体的にいい感じで盛り上がっていましたね。
私は、このバンドに何ができるかを常に考えていて、かなり野心的でしたよ。当時、参考にしていたのは、フィル・スペクターとトレヴァー・ホーンでした。壮大でしょう!

— これはあなたの最初のバンドですか? 他のメンバーはThe Doris Daysの前後に他のバンドに参加していたのでしょうか?

最初のバンドではないですね。それまでに参加していたバンドは以下です。

  • One Potato:私とStephen Harris(後のThe Aurbisons)

  • Flapp:私とSandra/Fred(Twelve Cubic Feetのメンバー)

  • Solid Space:マシューとダンと一緒に、ブライトンで何度かライブをしたり、曲を書いたり、少しレコーディングをしました。

  • One Potato:この名前をもう一度使ってライブイベントをやりました。(「One Potato One」、「One Potato Two」など、6回くらい?) 中心になっていたのは、私と、Jane Fox(マリン・ガールズ)、Olly Sagar(あまり知られていないのが悲しいけど、素晴らしいシンガーソングライターです!)でした。
私たちは、マリン・ガールズの「Lazy Ways」(私が歌いました)や、Ollyと私の他の曲を歌いました。今思えば、キャバレーとギグを兼ねたようなものでしたね。入場料1.25ポンドをとって、そのお金はみんな、その夜に配るものを作るために使っていました。(真夏にサンタの格好をして靴箱に入ったプレゼントを配ったこともありました。)他の人たちにも演奏してもらいました。
覚えているのは、Clive PigとVirginia Astleyだけです。私は休日のスライドを見せたり、奇妙な音楽(Reg BarneyやHughie Green、あらゆる種類のナンセンスなもの)を流しました。

あとは、「Grab Grab the Haddock」で何度かステージに立ち、拍子の外れたパーカッションを演奏したこともありますが、これもバンドにカウントされるのでしょうかね?

— なぜThe Doris Daysというバンド名をつけたのですか? ドリス・デイのファンだったのですか?

いいえ、私は全然ファンではないんですが、父がドリス・デイの大ファンだったので、常に彼女の名前を耳にしていたことが、少なからず影響していると思います。最終的にバンド名が変わったのでホッとしましたね。

— インディーポップ少年だったんですか? というか、当時、あるいは今でもインディーポップを聴いていましたか? 当時はどんなバンドが好きでしたか?

特にそうでもありませんでした。私はそのシーンをかなり受け入れていましたが...。ジューン・ブライズやショップ・アシスタンツのツアーでライブのサウンドミキシングを担当していて、その時代のスピリットが好きでした。英国中のたくさんの人達と出会ったり、くだらないことをたくさん手紙に書くのが好きだったんです!パブの上の小部屋で、皆が仕事に打ち込んでいるのも好きでした。
私の音楽の好みは、いつも多様でした。ボディーンズ(Bodines)の新しいシングルと同じくらいシック(Chic)が好きでした。
当時好きだったバンドはジューン・ブライズですが、もちろんよく見ていたから思い入れがあると思います。ザ・テレヴィジョン・パーソナリティーズは、その予測不可能な威勢の良さと身のこなしが魅力でした。
ドゥルッティ・コラム、マイクロディズニー、ワイルド・スワンズ、アイレス・イン・ギャザ、ニュー・オーダー、ニック・ドレイク、ラヴ、フェルト、ジョセフK、プライマル・スクリーム(なんといっても初期!)......。
ゴー・ビトゥイーンズ、ザ・キュアー、バズコックス、マッカーシー、キャバレー・ヴォルテール、クレプスキュールの多くの作品、ヴィム・メルテン(Wim Mertens)…挙げていくとキリがないですが、私はよくヴァージニア・アストレイの「From Gardens Where We Feel Secure」やドゥルッティ・コラムのファーストアルバム(「The Return of The Durutti Column」)を聞いて寝ていたものです。また、エレクトロ・ポップが好きで、初期のペット・ショップ・ボーイズのサウンドが好きでした。

— The Doris Daysはデモを1つしか録音していないんですよね? どの曲が含まれていたのでしょうか? それはLa-Di Daのグラントのキッチンで録音したのでしょうか?

デモを録音した記憶がないんです。当時のレコーディングはすべて大学で行われたはずなので、そんなことはしていないと思います。最近、古いオープンリールを全部捨ててしまったんです。(ついでにいくつかはデジタル化しました。)
The Doris Daysとしてグラントのところでレコーディングしたことはないと思います。その後"Pacific"としてリハをしたことと、彼のキッチンでのライブで、Pacificとして、私とネスとレイチェルだけで何曲か演奏したことはあります。(ゴー・ビトゥイーンズの「Street Of Your Town」のカバーを演奏したと思います。)

— 演奏を聴く限り(Daveがブログで紹介したライブと「Another Day」の音源)、何もリリースしていないことが不思議なくらいです。なぜでしょう? 他のコンピレーションには参加していたのですか?

まあ、The Doris Daysから、より人数を減らした"Pacific"に改名するまで、あっという間でしたからね。(私がそう思っているだけでしょうか?)。基本的にはヘイリーとエドを除いただけで同じバンドでしたよ。

— ジューン・ブライズとのスプリット7inchのリリースはなぜ実現しなかったのでしょうか? もしかして、他にリリースを予定していたのでしょうか?

ここも記憶が薄れてしまってますね。グラントと何かで喧嘩したのは覚えているんですが、これがそうだったのかもしれないです。
正直なところ、彼がリリースを嫌がったのか、私が嫌がったのか、覚えていないんですよ。それは、オランダ(?)でのジューン・ブライズのライブの時に録音されたもので、「Sheena is a Headbanger」のかなり騒々しいバージョン(ステージではThe Janitorsが参加していた)だったと記憶してますが、当時はおそらく良いアイデアだったんでしょうね。

ねえ、グラント! 僕のカセットまだ持ってる? 僕のせいだったらごめんよ!

— The Doris Daysのレパートリーは何曲ありましたか? ライブはたくさんしていましたか?

たぶん10曲くらいです!ライブは多くないですね、あなたが持っている地下のライブは、私たちの2回目(最後かも?)のライブです。その晩は、ヘイリーとエドが酔っぱらって暴れたから、別の場所で勉強を続けるように言ったんです。(半分冗談でしたけど)

— あなたはブライトンのBig Twang clubの一員として、インディーポップにかなり関わっていたと聞きました。ブッキングした中でお気に入りのライブはどれですか? また、当時のクラブ運営で一番良かったことは何ですか?

そうですね、Big Twangに関わるのはとても楽しいことでした。もう少しアットホームなものを作りたい!という4人で立ち上げたんです。毎週顔を合わせて、どんなバンドが来ても楽しめるような雰囲気とコミュニティを作りたかったんです。
以前開催していたPotato Nightから発展したようなもので、お得な料金(いつも3バンドで2.50ポンド)で、毎週ファンジンのようなものを入口で配り、新聞印刷所からロールの余った切れっ端をもらってその場所(ブライトンの海沿いの古いEscape Club)を飾ろうと思ったんです。新聞紙の巨大なロール紙に絵を描いたり、吊るしたりしてね。
また、スライドを見せたり(!)、少しずつバンドのサウンドミキサーを操作するようになりました。PAのスタッフが「音を大きくしてくれ」「小さくしてくれ」としょっちゅう言われるのに、うんざりしてましたからね。こうして、ジューン・ブライズとショップ・アシスタンツのライブ・サウンドを担当することになったのです。

お気に入りのライブは「Magical Mystery Twang」です。どうやって企画したのかわかりませんが、クラブを運営するということは、ある段階でみんなを旅に連れ出すことだというユートピアのような考えを持っていました。私たちが共有するサウンドトラックで、一種の集団的な逃避行をするのです。クルーズ船を借りることも考えたのですが、まだそれほど人気があるイベントではなかったので、2台のバスを雇ってミステリーツアーを行うというアイデアに落ち着きました。
誰も演奏するバンドを知らなくても、みんな私を信じてチケットを買ってくれるだろう、という考えです。
チケットは1枚6ポンドにして、バス会社に400ポンドでどこまで行けるか聞いてみたところ、ドーセット(Dorset)、という答えが返ってきたので、じゃあそこに行こうと決めました。ドーセットに住んでいる知り合い(名前は忘れちゃったけど、The Chesterfieldsの友人でした)に相談して、どうにかTempleCombeのパブにあるボーリング用の部屋をライブ会場に予約することができたんです。
ジューン・ブライズとショップ・アシスタンツにも聞いてみたところ、どちらもやる気満々だったのは、素晴らしいニュースでした。テレビジョン・パーソナリティーズにも声をかけたのですが、彼らはそのアイデアを気に入ってくれたものの、何かすごく重要な用事があって、出演を断念せざるを得ませんでした。
クライヴ・ピッグ(Clive Pig)は、その日一日、放浪の吟遊詩人になることに同意してくれて、あとはよく言われるように、歴史に残ることになりました。
デイブ(Dave Driscoll)のこの日の出来事の描写はとても正確だと思います。

クラブ運営の醍醐味は、エネルギーとスピリットが集まって、何でも可能に思えたことです。
また、すべてが驚くほど単純で、現実的なものでした。アラン・マッギーに250ポンドで3バンドに出演してもらえるかな、と言うと、彼はいつもウェザー・プロフェッツを出演させようとするんです。私はいつも、ノー・プリーズ、もっとお金を出してもいいから彼らを連れてこないでください、と言ってました。でも、最終的には彼らに出てもらいましたよ、アランはとても説得力がありましたからね!

— ファンジン・シーンには全く関わっていなかったのですか? お気に入りのものはありましたか? The Doris Daysは何かで紹介されましたか?

いいえ、あまり関与していません。The Doris Daysはいくつか載っていたと思いますが、どれかは覚えていません。(すみません、記憶が定かではありません!)私はよく郵便やあちこちのライブでたくさんのファンジンを受け取っていました。

— ブライトンでのあの頃が懐かしいですか? The Doris Daysに参加してよかったことは何ですか?

当時を懐かしむことはありません。私はいつでも前進し、新しいことを受け入れることに喜びを感じています。でも、あの頃は本当に楽しかったですね。いろいろなことに関われて、とてもラッキーでしたし、前に進むための自信も与えてもらいました。

— なぜバンドは解散したのでしょうか? The Doris Daysはその後どうなったのでしょうか?

解散したわけではないんです。人数が多すぎて少しやりづらかったので、何かを諦めなければならなかったのでしょう。だから、7人から5人になりました。
その後、私のベッドルームでアラン・マッギーのオーディションを受け、彼は私たちをクリエイション・レコードに誘ったのです。
彼はドリス・デイズという名前をあまり気に入ってなかったので、私たちはもう少しふさわしいものを考えて、バンド名を "Pacific"に変更したんです。
Pacificはクリエイションから2、3枚のEPを出しました。いくつかのギグを行いましたが、最初で最大のものはロンドンのForum(当時はTown and Country Club)で行われた「Doing it for the Kids」の一日イベントと、ハウス・オブ・ラブとのツアーでした。
私たちがクリエイションを離れたのは、アルバムを作るためにスタジオで大規模な制作をする資金がなかったからです…当時はそれが必要だと感じていたんですけどね。

私たちはPacificとしてEMI/キャピトルと契約し、メンバーは5人から3人、そして最終的には私1人にまで減っていきました。
不思議なことに、私はダンス・ミュージックにのめり込んでいて、「Strings of Life」のような、何日も頭から離れない曲が本当に好きだったんです。
前金はそこそこあったのに、ロンドンのSarm East and West Studiosで2週間かけて1曲だけレコーディングして、何も残らないまま終わってしまいました。
3万ポンドの予算がなくなってしまったので、私は自宅で録音することになり、EMIからリリースされたのはPacificの「Compassion」というタイトルのプロモ12インチ2枚だけでした。
バレアリックのインストゥルメンタル曲で、後に、私の次のグループ"Atlas"で「Compass Error」として再レコーディングすることになるものです。

Atlasは私とキャピトル/EMIのA&Rであったトニー・ニューランド(Tony Newland)の2人で活動していました。
我々は「Noontide」「Compass Error」「Beauty」といった12インチ盤を数枚制作しました。他のアーティスト(Fluke、Swordfish、モナコ、ハウス・オブ・ラブ!)のリミックスも多数手がけましたし、最終的にはラッパー/詩人のMC Buzz Bと一緒に書いた曲のアルバムで、ぐっとダウンテンポになりました。
この時期のハイライトは、偉大な故ビリー・マッケンジー(Billy Mackenzie)と出会って、一緒に仕事をしたことです。私たちはランディ・ニューマン(ニーナ・シモン経由)の曲「Baltimore」のカバーを録音し、ポール・ヘイグ(Paul Haig)の「Give Me Time」にも取り組みました。

ビリーはとても素晴らしい人物でした。彼が私の家の廊下で「Give Me Time」を大音量で歌っていたのを思い出すと、今でも背筋がゾクゾクするほどです。彼はいつも新しい歌を歌ってくれました。目を見つめて、最初から最後までアカペラで歌い続けるんです。

その後、私はしばらく音楽から遠ざかっていました。他のことに打ち込んだらどうなるんだろう、と思ったんです。
私は建築を選び、ロサンゼルスに住んで小さなオフィスで働きながら、ピアース・ブロスナンの絵画スタジオの設計図を描くなど、人生の素晴らしい4年間を過ごしました。

その頃、私は再び音楽を聴くようになり、楽しんでいました。地元の放送局KCRWの「Morning Becomes Eclectic」という番組は、当時は本当に素晴らしかったです。アルヴォ・ペルト(Arvo Pärt)やビーチ・ボーイズ、イールズなんかが、3時間ぶっ続けでかかるんです。番組は今も続いていますが、Chris DouridasがDJだった頃ほど良くはありません。

英国に戻ってAtlasのアルバムを作らないかとお金を積まれました。ビリー・マッケンジーが何曲か歌うことに同意してくれたので、私はその依頼を請けましたが、帰国して数カ月もしないうちにビリーは亡くなってしまいました。
私はAtlasのプロジェクトに取り組み、やがてNina Miranda(Smoke City「Underwater Love」など)という名の女性に出会いました。彼女はSmoke Cityの制約から自由になりたいと思っているようでした。
彼女は本当に鳥かごから飛び出したような声で、今まで聴いたことがないほど美しく歌いました。彼女をレコーディングするのは本当にマジカルでしたね。
私たちは"Shrift"として一緒にアルバムを作りました(この名前は、ブライトン時代に少し関係があります)。
ロンドン橋のそばにある、テムズ川に面した窓のある素晴らしいスタジオでスタートしました。毎日アヒルが餌をもらいにやってきて、レコーディングには川の音を取り込みました。その場所は今スターバックスになっています。

これは、Shriftのある曲のショートフィルムです。

最近は作曲をすることが減って、ミキシングをすることが多くなりました。
近いうちに必ず何か曲を作るつもりですが、今のところは映画やテレビ番組のサウンドミキシングをしています。結局はすべてが音楽ですね!

— 他に付け加えたいことはありますか?

興味を持ってくれてありがとう。

The Doris Days -Another Day




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