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ひいらぎの窓【第十一回】:海沿いをとおくまでゆく(雪は蝶)汽車をみてる(雪は蝶です)/安井高志

こんにちは、こんばんは。湯島はじめです。
今週もお読みいただきありがとうございます。
日曜夜にすこしさみしい短歌を読んでいく「ひいらぎの窓」、本日は第 11 回目です。

昔かかわった子どもが「5 月がなければ 5 月病もないのに」と言っていて、きっとそうなると 2 月病とか、9 月病とか、そういう風に一年のどこかに憂うつの滞在する季節は発生するんだろうなと思いました。祝日がお休みの方も、そうでない方も、いつもより力を抜くくらいでどうにか平穏に過ごしていけますように。

本日の一首はこちらです。

海沿いをとおくまでゆく(雪は蝶)汽車をみてる(雪は蝶です)

安井高志「歌集『サトゥルヌス菓子店』より」


(雪は蝶)(雪は蝶です)
印象的なフレーズだ。

括弧は発話ではなく、はたまた浮かんでは消えてゆく思考ではなく、自分の心のなかでしっかりと唱えたことばであることを強調しているように感じる。まるで自分に言い聞かせるように、繰り替えされる(雪は蝶)ということば。舞う雪が蝶のように見えたという、それだけではないであろう、つよい想いを感じる。

冒頭に引用した歌は、歌集の最後の一首である。
この歌の収録された章「とうめいな存在」からさらに数首引用してみよう。

終電の車内に雪が降り積もる 眠りましょう あと百年は/安井高志
少年が海へ飛び込む雪の日 木造校舎にみちる合唱/同
雪のなかに埋もれていく古書店も白い小鳥に変わる少女も/同

どうだろうか。作者の歌に登場する「雪」は明確に「終末」のイメージを伴っているようにわたしは思う。


海沿いをとおくまでゆく/汽車をみてる
この二つが独立した行動なのか、「とおくまでゆく汽車」なのかは少しとらえ方に迷う部分だが、どちらにせよ、この歌の主人公は汽車には乗らなかった。汽車に乗る人には、どこかにゆくにしろ帰るにしろたいていは目的がある。乗らなかったのか、乗れなかったのかは定かではないけれど、誰かがうごかして、誰かを運んでゆく汽車をただ見ている。
「海沿い」というのはそれ一語では爽やかな響きだが、この歌ではその情景がただ不穏さを漂わせている。海沿いは海と陸地、あちらとこちらの境目である。

実際に降っているのか、それとも心のなかの事象なのか、雪が舞っている。
(雪は蝶)
口には出さず、ただ心のなかでただそのことばを復唱している。
蝶は古くから、ひとの魂そのものの象徴や、魂をはこぶものとされてきた生物である。雪は蝶。そう繰り返すことは、終末を想わせる雪の気配、終わることへのおそれに抗っているようにも、そこにわずかな希望を見出しているようにも見える。


本日の一首の作者は安井高志(やすいたかし 1985-2017 年)です。

著作に今回ご紹介した歌集『サトゥルヌス菓子店』、詩集『ガヴリエルの百合』があります。(どちらもコールサック社刊行)
『サトゥルヌス菓子店』の作者略歴には「1985 年千葉県生まれ。幼時より少年少女合唱団に入団。」とあります。(一部引用です。)

この略歴に書かれている「ハンガリーでボーイソプラノを失う。」という一文は、読んだ日から心のなかに滞在し続けています。

「すこしさみしい」をテーマに短歌評を、というこの連載の軸が決まったときに必ずこの歌集『サトゥルヌス菓子店』から歌を引用したいと思いました。
この歌集はわたしがこれまで手に入れた短歌の本の中で、おそらく一番読み返している本です。
(というか、600 首以上の歌が収録されているのでこんなに何度も読み返してもわたしはそのすべてを”読み切れて”いないのです。)
これからも何度も読み返すでしょうし、そのたびに安井さんの新しい作品を読むことができないことを、心惜しく思うのだと思います。

困ったら「かなしい肺魚」という名をアドレス帳からさがしてください/安井高志



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