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ひいらぎの窓【第九回】:定年の男ありけりパソコンに深夜よびだしている熱帯魚/杉﨑恒夫

こんにちは、こんばんは。湯島はじめです。
今週もお読みいただきありがとうございます。

日曜夜にすこしさみしい短歌を読んでいく「ひいらぎの窓」です。本日は第九回目です。

すこしさみしい短歌展へのご参加もありがとうございます。(募集は終了しております)
おあずかりした短歌はすべてに目を通し、この「ひいらぎの窓」の記事で紹介させていただきます。
たのしみにお待ちいただけると幸いです。わたしも読むのがとても楽しみです。

本日の一首はこちらです。

定年の男ありけりパソコンに深夜よびだしている熱帯魚

杉﨑恒夫「歌集『パン屋のパンセ』より」

この歌、好きなんですよねえ......。

圧倒的にさみしいわけではなく、すこしファニーで、かわいくて、けどやっぱりどこかすこしさみしい歌です。

「定年の男ありけり」
『竹取の翁といふものありけり』のあの「ありけり」である。定年の男がいた、という意味だけど、この大げさな言い回しがとてもユーモラスだ。響きのおもしろみもそうだけど、「ありけり」の書き出しには物語のはじまりを感じさせて、「定年」とのギャップもありそこも面白い。

定年した男(なので六十すぎなのであろう)が何をしているのかというと、深夜、パソコンで熱帯魚をよびだしているという。
深夜にぼうと光るパソコンのひかりの中、泳ぐ熱帯魚とそれを眺める男。
幻想的な気もするし、なんだかノイローゼ的な気もするし、男にとっていまパソコンは仕事の道具ではなくなったという解放感やすこしの喪失感のようなものも感じる。男はひとりで、その背中は心なしか小さく丸まっていそうだ。

「熱帯魚」っていうのは、じっさいに熱帯魚のことなんだろうか。わたしは最初スクリーンセーバーなどでじっさいに流れる映像のことを思い浮かべたのだけど、この歌を愛唱しているうちにだれか人のことを指しているようにも思えてきた。熱帯魚といえば、華やかで、小さくて、群れで生活している印象がある。魚でいえば老年の個体もいるのだと思うが、なんとなく若々しいイメージだ。

「定年の男」とはすこし遠い印象だが、深夜のパソコン上では定年の男と熱帯魚もまったくの対等で、おたがいにさみしい一人と一匹である。


本日の一首の作者は杉﨑恒夫(すぎさきつねお 1919-2009 年)です。
わたしは普段、一首の短歌を読むときに歌人の年齢や性別によって印象を変えることはあまりしないように意識していますが、杉﨑恒夫さんの生年にはいつも新鮮に驚かされます......。ちなみに第六回でご紹介した塚本邦雄よりも一年早く生まれており、本日の一首が収録されている第二歌集『パン屋のパンセ』はすべて著者七十~八十代で創作した短歌作品で構成されています。
自分ごとだけど、杉﨑さんは少し前にちょうど百歳で亡くなった、戦争で隣国へ行っていたわたしの祖父と同世代で。いや、本当にびっくりです。もしも過去のだれか一人に会えるなら、一番会って話してみたい人です。

君の名はモモイロフラミンゴぼくの名はメールのしっぽに書いておきます/杉﨑恒夫

熱つ熱つのじゃがいも剝けば冬眠からさめたばかりのムーミントロール/同



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