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ひいらぎの窓【第六回】:影繪・魚・ナイフと日日に愛移す少年に暑き聖金曜日/塚本邦雄

こんにちは、こんばんは。湯島はじめです。
今週もお読みいただきありがとうございます。

日曜夜にすこしさみしい短歌を読んでいく「ひいらぎの窓」、これで第6回目です。
驚くべきことに、もう3月が終わろうとしています。
野球のシーズンが終わった昨年 10 月、すぐこのあいだ(はあ WBC までな~んも楽しいことないじゃん......)と思っていたのに、その WBC も気づけばあっという間に終わってしまいましたね......。
わたしは厚着をするのが大変にがてなため、あたたかくなるのはとても助かるのですが、毎年、とくに大人になってからは 4 月までたどり着ければワープ・ゾーンがあるみたいに一瞬で年末がやってくるような感じがします。春、ちょっとはとどまってくれ。

......さて、本日の一首はこちらです。

影繪・魚・ナイフと日日に愛移す少年に暑き聖金曜日

塚本邦雄「『塚本邦雄全歌集 第一巻』より」

※「聖金曜日」の曜は旧字体。

この歌の初出は歌集『裝飾樂句(カデンツァ)』(1956 年)です。

今年の聖金曜日は 4 月 7 日だそう。
聖金曜日というのはキリスト教にかかわる用語で、イエス・キリストが復活したとされる日の直前の金曜日のこと。イエスは十字架に架けられて死に、その三日目にあたる「日曜日」に生き返ったとされている。つまり、「聖金曜日」はイエス・キリストが死んだ日なのだ。


「影繪・魚・ナイフ」
にぶい光のイメージが共通しているように思う。
影絵は灯がなければ生まれないし、魚はどんな深い海の底にいたとしてもそこにはわずかな光がある。陸にあげられた魚なら、陽の光が鱗をにぶくひからせているだろう。ナイフは、鏡ほど鮮烈にではないが、暗闇でも光を受ければ瞬いて存在を示すだろう。
「光」のイメージが、より「陰」を強く感じさせる。この単語のえらび方が見事だと思う。

影繪・魚・ナイフ。その「温度」はどうだろうか。

影繪というのはたとえ姿が見えないとしても、さわれないとしても、影をつくりだすものを動かす人間が存在する。そこにはまだ人のあたたかみがあり、もしかすると話しかければ返事をするかもしれない。

魚はたいてい触るとつめたいが、生き物であるから血が通っており、ちゃんと心臓を持って動いている。当然話はできないし意思の疎通もむずかしいが、生きている魚はえさを撒けば水面にあがってくるだろうし、動きに魚じしんの意思を感じることはできるだろう。

最後のナイフはどうだろうか。
とうとう、そこに生き物はおらず、それ自体から意思を感じることもない。
影繪と魚は「少年」とはいくらか距離があり、さわれないものではあったけれど、そこにはほかの生き物の気配があった。ナイフはすぐに手に取れるものではあるが、つめたく、決してものを言わず、ただ手の中で光を受けて時折ひかるだけである。ずっと柄を握っているといくらかあたたかくなる
だろうが、むなしい自作自演のように、それは少年自身の手の熱なのだ。

ナイフを愛するようになった少年はそのとき「一人」になってしまった。
そんな少年にやってくる聖金曜日、イエス・キリストの死と生き返りを想う日。
この先も生きてゆくであろう少年は、影繪・魚・ナイフの次に愛するものを見つけるのだろうか。
示唆的で、つめたく、孤独な一首だ。


本日の一首の作者は、塚本邦雄(つかもとくにお 1920 年-2005 年)です。
日本、滋賀県生まれの歌人で「前衛短歌の三雄」の一人(ほかに岡井隆、寺山修司)。
「前衛短歌」ってなんぞや? これはわたしも論じられるほど詳しくはないですが、この塚本邦雄らの出現以前の、旧来の短歌とは大きく異なる表現方法として生まれたもので、「5・7・5・7・7」のリズムを大きくはずれたり、記号や外来語・英単語を用いたり、隠喩を多用するといった特徴をもつ短歌のことをそう呼ぶのです。
短歌の内容が虚構(必ずしも自分のことやじっさいに目で見た風景ではない)だということも特徴のひとつです。

塚本邦雄の歌に登場する様々なモチーフはとてもうつくしいのですが、わたしは時々脳が色彩でちかちかして、なかなかたくさん一気に読み進めることができないでいます...。ときどき一首だけを読んで、その一首を抱えながら眠りについたりすることもある始末です。ゆっくりと読み進められれば。


飼猫をユダと名づけてその昧き平和の性をすこし愛すも/塚本邦雄



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