雨の中、屋根の外

頭が痛いと感じた数分後には、雨の音が聞こえた。低気圧に弱くて得をした人間がこの世に1人でもいるのだろうかと洋子は考えた。経理事務という仕事はこういう時に相性が悪い。頭痛と数字なんて一番組み合わせてはいけないものだろう。

「足立先輩、頭痛大丈夫ですか?薬ありますよ」

後輩の吉沢みくに声を掛けられて我に返る。天然で仕事は決して早くないが、ひとつひとつ丁寧にこなし、周りへの気配りも出来るみくは、社内の癒しと言える。他の部署の男性社員にも、みくを狙っている人は少なくないはずだ。洋子はそんなみくに一番慕われていて、ランチも一緒に行くことが多い。6歳離れているけれどみくには洋子と同い年の姉がいるらしく、性格もどこか似ているらしい。

「ありがとう。自分の持ってるから、大丈夫だよ」

「結構本降りですね。この後も雨予報みたいだし、ランチどうします?下のコンビニで買いますか?」

オフィスビルの1階にコンビニがあるとこういう時とても助かる反面、高校生のような昼休みダッシュをしなくては、あまり良いお昼にありつけないというネックもある。実際この間行った時は少し遅れてしまい、銀シャリのおにぎりしか買えなかった。

「それかこういう時こそ、ちょっと良いランチ行っちゃいます?」

洋子が少し考えていると、みくが選択肢を増やしてくれた。確かに今日は雨で気分が下がり、頭痛も伴ってシャキッとしない。午後の仕事量もそこそこ多い。みくの言う「こういう時」なのだ。みくはこちらが少し大変な時を理解してくれていて助かる。洋子は数秒考えて決断した。

「よし、交差点のとこのサンドイッチ買いに行こうか」

「最高ですね」

2ヶ月前にオープンした野菜たっぷりのサンドイッチ専門店だが、オープン初日から行列ができていてまだ食べたことがない。サンドイッチといえど新鮮な野菜を使っていて、パンも自家製なので値段が良い。この近隣のOLが毎日列を成す。今日なら雨で行列もそんなに長くないだろうし、狙い目だろう。昼休みに入ると同時に、急いで支度をしてみくと一緒にオフィスを出た。

「ねぇ、その傘新しいやつ?可愛いね」

ビルの1階で傘を差したみくは、4日前の雨の日とは違う柄のものを持っていた。藤色の上品なグラデーションカラーは今日のみくの服装にとても合っている。

「新しくはないですよ。1年くらい使ってます」

「あれ、そうなの?初めて見た気がしたから」

梅雨の時期なんて、1週間の半分は傘を持ってきている。洋子は今までの雨の日を思い出してみた。するとあることに気付く。

「みくちゃんって、めっちゃ傘持ってない?」

みくはビニール傘を使わない。いつも柄ものの傘を持っているけれど、その色や柄のバリエーションは、よく思い出してみると結構あった。昼休みに雨の時は下のコンビニで済ませることが多かった為気づかなかったが、洋子が思い出せるだけでもかなりの種類がある。

「気づきました?1人暮らしなのに、傘15本くらい持ってるんです」

「15本!?」

洋子は思わず叫んだ。洋子は結婚していて夫の正樹と2人で暮らしている。傘を忘れた時コンビニで買ったりして家には正樹のと合わせて4本持っているけれど、15本は想像がつかない。しかもみくはビニール傘は使わないので、全て柄ものということか。

「コレクションしてるってこと?」

「収集が好きってわけではないんですよね。全部使ってますよ。理由は…強いて言うなら、梅雨が大っ嫌いだからです」

大嫌いに小さい「つ」を入れる程かと少し笑ったが、洋子はそれでもあまりよく理解できなかった。きょとんとしているとみくが歩きながら話を続ける。

「梅雨って良い事ないじゃないですか。洗濯物は乾かないし、靴だって濡れるし、髪の毛すごく広がっちゃうし・・・先輩は頭痛くなっちゃうし。
だからどうにかして気分上げたいなって思って、傘もコーディネートの一部にすることにしたんです。
頭からつま先までって言葉あるけど、傘からつま先までオシャレしたら楽しいかなって」

ここまで聞いて洋子は感心した。みくはブランド嗜好ではないけれど、確かにいつもオシャレに気を遣っていて華やかな印象だ。社内で人気な理由のひとつだろう。傘もその一部ということは、靴下やピアスを選ぶようにいつも傘を選んでいるということか。なんだかみくの生活がとても余裕のある優雅なものに思えてきた。

「あと、ビニール傘に無い最大のメリットがあります」

サンドイッチの専門店に着いて、やはり短かった列の最後尾に並ぶ時にみくが言った。なんだと思います?というような顔で洋子を見ている。洋子は考えてみるけれどわからない。

「盗まれないんです」

答えを聞いてはっとした。確かにビニール傘は「どれも同じ」と思われがちで他人に持っていかれることが多々ある。自分の傘が持って行かれたら別の誰かの傘を持って行くなんて人も結構いるみたいだ。

「正確に言うと取り違えですかね。そういうのないんです。1本の値段はそこそこしますけど、雨が降る度にビニール傘買ってる人だって結構なお金払ってますよね。私が買ってる傘はどれも服よりは安いし、それでオシャレできたら雨の日もちょっとテンション上がりますよ。おすすめです」

みくのプレゼンを聞いている間に順番が来た。野菜とチキンのサンドイッチとコーヒーのセットを2人分買って、会社へ戻る。話を聞いてから見るみくの後ろ姿は、確かに目を引く。雨の日の屋外なんて楽しいことは無いと思っていたけれど、みくは今それを満喫していると思うと、洋子は少し羨ましくも思えた。雨が降って初めて完成するオシャレがあるなんて、目から鱗だ。

休憩室で買って来た袋を広げると、彩り豊かな野菜とローストチキンがぎっしり詰まったサンドイッチの断面が、虹のように綺麗だった。早速食べてみると、味も申し分ない。酸味のあるソースが美味しい。サイドメニューにサラダもあったが、買わなくて正解だった。サンドイッチ1つで十分野菜を摂取できるし、何よりボリュームがすごい。

「足立先輩、もうすぐお誕生日ですよね?」

みくがもぐもぐしながら言った。口の端にパンのカスがついていて子供のようだ。カレンダーに目をやらなくてもわかっているが、1週間後に洋子は32歳になる。30歳を超えてからは誕生日が少し憂鬱になってきているのでできれば避けたい話題だが、まだ26歳のみくは目をキラキラさせている。

「何か欲しいものありますか?」

気持ちだけで嬉しいけれど、毎年お互いの誕生日にプレゼントを贈りあっていてもう恒例になっている。洋子は適度な金額で何か無いか考えながらサンドイッチを頬張る。

「もし良かったらなんですけど、先輩の傘、選びましょうか」

なかなかに嬉しい提案だが、思ったより多く頬張ってしまいすぐに返事ができない。代わりに、コクコクと頷いた。やった、と、みくは小さく喜ぶ。

「先輩だったら水色系とかも似合いそうだな〜」

「みくちゃん、あんまり派手じゃないやつにしてね。会社に差してくると目立っちゃうのは…」

「先輩、私の傘見て、派手とか会社に相応しく無いとか思います?」

洋子は首を左右に大きく振った。

「でしょう?それに、どんなに素敵な傘も会社内では差すこと無いですから、派手でも地味でも関係ないです。服より自由度高いですよ」

ニコッと笑うみく相手に、洋子は目を見開いた。その通りだ。傘なんて会社の外でしか差さないのだから、決まりなんてあるわけがない。

「でも、やっぱりいい歳だし、あんまり華やかなのはちょっと」

「先輩」

洋子がもう一度遠慮がちになると、みくは少し鋭い視線を向けて、ずいと顔を近づけた。そして少し強い口調で言った。

「オシャレに年齢制限はありませんよ。それに、50歳でもずっと500円のビニール傘差してる課長より、32歳になって素敵な傘差してる先輩の方が絶対良いです」

絶対の間にも小さい「つ」がまたいくつか入っていた気がした。みくが毒を吐くのはなかなかに珍しい。この部署には女性社員しかいないので、もちろん課長も女性だ。確かに50歳になったばかりで、雨が降る度に下のコンビニでビニール傘を買ってランチに行ってる気がする。きちんとした人ではあるが、確かにみくのような華はない。課長には悪いが納得のいく比較対象だった。

「何もアニメキャラとか、幼児向けの傘差すわけじゃないですよ。ただ、ちょっと華やかなの選ぶだけです。一筆箋だって白い無印のやつより季節のお花があしらってあるとちょっと気分上がるでしょう?」

だんだん洋子は、何故こんなプレゼン上手な子が経理という部署にいるのか不思議に思えてきた。目の前のオシャレで可愛い後輩に選んでもらった傘を差して一緒にランチを買いに行く雨の日を想像すると、待ち遠しくなる。雨の日が待ち遠しいなんて、生まれて初めての感覚だろう。

「ちょっと楽しみになってきた」

「でしょう?先輩は何色が好きですか?こういう落ち着いた色とか・・・でもパステル系のも似合いそうなんですよね」

次々とスマホでショッピングサイトの写真を見せてくるみく。実際に貰う洋子の数倍楽しそうにしている。正樹も毎年誕生日を祝ってくれるけれど、何が欲しいか・どんな物が好きか等あまり聞かれたことが無いので、洋子は少し新鮮な気持ちになった。

「私も今度旦那に傘選ぼうかな」

小さく洋子が呟くと、みくも小声で言った。

「素敵な傘で雨の日デートできたら最高ですね。でもこれ、他の人には内緒ですよ。雨の日みんながオシャレになっちゃったら、私が霞んじゃうから」

イタズラっぽく笑う小悪魔は、私にどんな傘を選ぶだろうと思いながら洋子はコーヒーを飲み干した。食後に頭痛薬を飲もうと思っていたけれど、いつの間にか痛みは消えていた。

窓の外はまだ強めの雨が降り続いている。その景色を悪く無いと思える日が人生で訪れるなんて、想像したこともなかった。洋子がありがとうと呟くと

「絶対素敵なの選ぶから、楽しみにしてて下さい」

そう言ってみくは満面の笑みを見せた。雨の似合う、太陽のような子だ。

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