ちっぽけで贅沢なフルコース

帰宅した頃、僕はひどく疲れていた。今日はランチを食べる時間がなく、ビスケット2枚で済ませてしまった。疲労と同じ割合で空腹も感じていた。スーパーもとっくに閉店していて、食材の買い出しもままならない時間帯だ。自宅の最寄のコンビニに寄ってみたけれど、夜の納品前で弁当もほとんど置いていなかった。仕方なくビールと炭酸水だけを買って、ぬるくなってしまわないうちになんとか帰宅できたというわけだ。

数年暮らしている自宅の洗面台は水圧が強く、未だに勢いの良い水に驚かされる。手を洗うだけでシャツに無数の水滴が飛び散ってしまう。すかさずシャツやスラックス、下着まで洗濯かごに脱ぎ捨て、そのまま風呂に入る。と言っても湯舟は空だ。ゴールデンウィークが明けた頃から夏の終わりまではシャワーのみで過ごすことがほとんどで、今日も例外ではない。長い溜息のように息を吐きながら、頭からシャワーを浴びる。1日の疲れもまとめて洗い流すような気持ちで浴びるけれど、僕は一刻も早くこのひと時を終えたかった。帰宅した直後に冷凍庫に忍ばせたビールを飲まずして、1日の疲れなど取れるはずがないのだ。急いで上がってビールを飲みたいけれど、長く風呂場にいればいる程、ビールはキンキンに冷える。その間で葛藤するのも日課になっているが、大抵急いで上がってしまう。

トランクス1枚でキッチンに立ち、冷凍庫を開ける。先ほど入れたビールにはひとつ仕掛けをしてある。濡らしたキッチンペーパーを巻いておいたのだ。こうすることでわずか15分のシャワー時間の間に、急速冷却することができる。冷蔵庫からグラスを選ぶ。行きつけのバーで1つだけ譲ってもらった、極薄のビアタンブラーだ。こいつで飲むビールの美味さを知ってから、僕は専らのビール党になってしまった。シュワシュワと立ち上る泡を見ているだけでうっとりとしてしまう。泡がグラスのてっぺんまで来たところで、一気にグラスを口元向けて傾ける。鮮度の良い泡とコクのある苦みが口いっぱいに広がり、ようやく僕の抱えていた疲労感が淡くなっていく。このために生きているとはよく言ったものだ。

「ふぅ・・・。腹が減ったな。」

思わず独り言が漏れた。そうだ、腹が減っていた。言葉にした途端改めてはっきりと自覚する。冷蔵庫を漁ってみるけれど、すぐに食べられるものがなかなか見当たらない。

「お、これは・・・」

先日上司からお土産でもらった笹かまがあった。賞味期限を見ると明日ではないか。今日見つけていなかったら確実に忘れていただろう。小さな笹かまが2枚入った袋が2つ残っている。早速1つ開けて食べることにした。完全密閉の袋を破ると、練り物特有の甘い匂いが漂う。大口を開ければひと口で食べられるサイズだけれど、僕はあえてそれを真ん中あたりで噛み切った。プリッとした触感がたまらない。口いっぱいに香りと甘さが広がり、ビールの苦みと一体化する。大げさだけれど、なんて美味いんだと目を細めてしまう。噛み切った意味などほとんどないくらいの早さで、もう半分も胃に収めた。もう残りのもう1枚も食べてしまおうと思った瞬間、ふと考えた。そして食器棚から小皿を取り出し、笹かま1枚を載せる。普段は弁当しか温めない電子レンジの中央にそれを置いて、15秒だけ回してみる。すると扉を開けた瞬間キッチン全体が香ばしくなった。鎌倉の小町通にある蒲鉾屋で同じ匂いがしたのを思い出す。触れてみると熱すぎないくらいの温度だった。また、僕は真ん中あたりで噛み切って食べた。

「うお・・・これは・・・」

先程よりふっくらとした食感と、なにより格段に増した甘みがたまらない。僕は思わず冷蔵庫を睨んだ。右手に持っている350mlの缶はほぼ空になっている。明日の土曜日、昼間から飲んでしまおうと思って買ってきた500mlの缶ビールが2本入っている。それは間違いなく、明日用に買ってきたものだ。2枚入った明日までの笹かまの袋もまだひとつ残っている。単純に考えて、明日の昼間にそれを楽しめばいいのだ。しかし僕の左手に摘ままれた、半分の笹かまには今相棒がいない。ビールがないと食べられない訳ではないが、こんなに美味い食べ方を知ってしまっては僕の自制心なんて簡単に折られてしまう。

カシュッ

開栓音が、やけに大きく響いた気がした。ゴクゴクと喉を鳴らして数口流し込み、まだ温かい半分の笹かまを口に放り込む。あぁ、美味い。眠い訳でもないのにさっきから目を細めてばかりだ。スーパーで売っていても見向きもしなかった笹かまだけれど、今の僕には最高のご馳走にも思える。これからは5枚入り110円のあの笹かまを頻繁に買ってきてしまうかもしれない。

「いや。ちがうな。」

またも独り言だ。酔っているのではない。自分の中に生まれたひとつの考えに対して声に出して突っ込んだだけだ。

今目の前にある笹かまがこんなにも美味いと思える。それは僕が週末まで仕事をやり切った疲労感と達成感、そしてシャワーを浴びた爽快感と極限の空腹感、その全てがスパイスとなっているからに違いない。何ならこの笹かまがタイミングよく冷蔵庫から発見されてたまたま賞味期限が明日だったこともスパイスと言える。つまりは明日以降スーパーで笹かまを買って来ても、同じ幸福感に浸れる可能性は極めて低い。だから目の前にある笹かま達は、最高に美味しく食べられる今このタイミングで食すべきなのだ。そして最後のスパイスとして欠かせないのがビールだ。ここまで一気に頭の中で唱えて僕は右手の500mlを正当化することに成功した。

残りの笹かまの袋を開けて、僕はしばらく静止した。このままでも温めても美味いけれど、僕は後者の方が好きだ。ただ、もう少し味の濃いつまみが欲しいところだ。なにか調味料をかけてみようと決めて、笹かまの袋をテーブルに置き、ビールは持ったまま冷蔵庫に向かった。

「魚だし、醤油か。」

自分の独り言に、なぜか脳内の僕が賛成を述べている気がする。冷蔵庫の袖に入っている醤油を取ろうとした時、その横にある物に目が止まった。パンを焼く時に乗せるスライスチーズが、半分の状態で残っている。朝半分だけ使った残りだ。僕は毎朝チーズトーストを食べるけれど、チーズだって毎日食べるとその分出費もある。なのでスライスチーズを半分だけパンに乗せて焼き、サンドイッチのようにして食べている。もちろん1枚丸々乗せるよりはチーズの味は薄いけれど、それがケチな僕の日課だ。

明日は土曜日で昼まで寝るつもりなので、朝飯の心配はいらない。僕は昼に起きてがっつりラーメンを食べられるタイプだ。つまり、このチーズに明日の予定はない。サイズも丁度いいので、僕は持っていたビールを一度冷蔵庫に入れ、醤油とそいつを取り出した。小皿に笹かま1枚を取り出して、醤油をかける。かけすぎると甘みが消えてしまうので、3滴にした。その上にチーズを重ね、電子レンジは今回20秒。チーズがとろけるには15秒では足りなかった。僕は冷蔵庫から飲みかけのビールを取り出した。別に数分放置したところで不味くなるようなものではないけれど、少しでもこいつの冷たい状態をキープすることが、笹かまへの敬意になるような気がした。馬鹿げた話だとは、思っているが。

ピーッ、ピーッ、ピーッ

電子レンジが加熱終了を告げた。開けると今度はチーズと醤油の香りも混ざった香りが広がり、思わずその香りだけでビールをひと口啜った。箸を使わずに素手でつまむと、もちろんだが先程温めたものより熱く、そして更に柔らかくなっていた。またも僕は、真ん中で噛みちぎる。蒲鉾とはんぺんの間くらいの柔らかさで、甘さと旨みが最高潮というレベルで口の中を満たしていった。チーズがとろりと伸びる。まるで今朝テレビで見たピザチェーン店のCMのようだ。今朝までは、ピザを美味そうだと思っていた。久々に食べたいとまでも考えていた。もし帰宅した時にピザ屋の広告がポストに入っていたら、注文していたかもしれない。そう、ほんの、45分前までは。

ピロリン

もう半分を口に放り込んだ瞬間、テーブルのスマホが短いメロディと共に振動した。画面を確認すると、メッセージ1件という文字の横にコロンを挟んで上司の名前が表示されている。笹かまをくれた、僕の直属の上司だ。僕は気になりメッセージを開いてみた。

「今週は激務お疲れ。残業も多かったから、月曜日はゆっくりの出勤で良いから。」

僕はにやりとした。遅出の許可は嬉しいけれど、それよりも文章から彼の機嫌の良さがわかり、それが嬉しかった。迷わず僕は、発信ボタンを押した。酔っている訳では、ない。3コールで、声がした。口の中に笹かまはもうないが、魚と醤油とチーズの香りは余韻が長い。

「なんだ、電話なんて。珍しいな。」
「お疲れ様です!あの、今、頂いた笹かま食べてて。これ、美味いですね!」

後ろからテレビの音が聞こえる。かなりのボリュームだ。そういえば、奥さんの耳があまりよくないという話を聞いたことがある。そんなことを考えていたのが伝わる訳がないけれど、テレビの音が遠のいた。きっとリビングから離れたのだろう。

「なんだ、まだ食ってなかったのか。期限は平気なのか?」
「明日までです。温めたり、醤油とチーズ乗っけたりして食べてるんですけど、もうめちゃくちゃ美味くて思わず電話かけちゃいましたよ。」

くっくっくっと小さく笑う声が聞こえる。彼の癖だ。

「醤油とチーズか。その発想はなかった。来月また、同じ場所で出張がある。また買ってこよう。」
「本当ですか!楽しみにしてます!」
「マヨネーズも、美味いぞ。まぁ、想像通りの味だけどな。どうせ飲んでるんだろう。程々にしろよ。じゃぁな。」

切った後、最後の1枚の笹かまを小皿に乗せて電子レンジに見送った。上司のアドバイスはありがたいが、最後の1枚は15秒温めただけで頂くと決めた。醤油チーズは美味いと思ったし、ビールによく合う。けれど最後の1枚は濃い味よりも素朴な旨味で締めたいと思っていた。そう、決してチーズがさっきのでなくなったからでも、マヨネーズを切らしているからでもない。どちらも揃っていたとしても、僕は最後はこれにしたと思う。
そしてもうひとつ決めていたことがある。最後は、噛み切らない。僕は電子レンジから皿を取り出すと笹かまをつまみ上げ、大口を開けてそこに放り込んだ。

プリッ

歯を入れた瞬間、震えた。噛み切って食べるよりも、香りがしっかり感じられる。断面からの香りが逃げることなく口内に収まっているのだから当たり前だ。何かを口いっぱいに頬張ることをこんなにも幸せに感じたのは、小学生の頃大好きだったスナック菓子を限界まで口に詰め込んだ時以来だ。今考えればあれは大して美味くなかったと思う。僕はスナック菓子とは比べ物にならない旨味を噛みしめるように、ゆっくりと咀嚼した。なくなるのが寂しくさえ思えて来るけれど、ちゃんとフィナーレを迎えなくてはならない。この、むちむちとした食感や魚の甘味とも、来月までお別れだ。大切に、飲み込んだ。

ほんの少しだけ残っていたビールはまだまだ冷たいままで、それも一気に飲み干した。完璧な晩酌だ。1週間の仕事を終えた以上の達成感さえある。そして、空腹感はまだ残っている。当たり前だ。成人男性の空腹なんて笹かま4枚食べたところで満たされる訳がないのだ。ふと時計を見る。23時。コンビニの納品はもう来ているだろうか。最悪インスタントラーメンでも買おう。

「マヨネーズ、買っとくか。」

Tシャツにハーフパンツを履き、財布を掴む。週明けは、月末だ。

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