傘とサンセット

18時を過ぎ、いつもなら空が赤く染まる頃、会社を出るとひどく曇っていた。SF映画だと、何かが起きる直前だ。浩太は公開日をかなり過ぎて最近初めてDVDで観た映画を思い出していた。
「天気、やばいっすね。」
一緒に出てきた後輩の仁志が言う。彼のボキャブラリーに浩太は時々ため息が出そうになる。"やばい"と"マジで"を多用する仁志は26歳だが、見た目はどこからみても大学生だ。年齢だけが前に出すぎたのだろうか。先日取引先との打ち合わせで
「この資料がマジで使えるんで、良ければお送りしましょうか?」
と言った時には、マジで引っ叩いてやりたくなった。浩太は小さなため息を混ぜて、空を見上げる後輩に言った。
「傘あるぞ。持っていくか?」
共有の傘立てを見ると、使い込まれたビニール傘が1本あった。浩太と仁志が最後だったので、誰かが置いて帰ったのだろう。
「先輩のっすか?」
「いや、違う」
「じゃぁ、だめじゃないっすか」
大袈裟に笑う後輩に、浩太は目を見開いた。
「でも俺らが最後だし、明日の朝返しておけば少し借りるくらい大丈夫だろ」
「それ、絶対返さないパターンっすよ」
出た。パターン。これも仁志はよく使う。上司に提出した案について別の視点からの意見をもらった時なんて「勉強になります」とか言えば良いのに、仁志は「そういうパターンもあるんすね〜」と言う。マジで、敬語勉強した方がいい。
「まぁ、こんだけボロけりゃ持主も諦めるだろ」
浩太は頭の6割で仁志の言葉遣いに突っ込みながら、残りの4割に罪悪感を抱きはじめた。なんで俺がこんな言い訳みたいなことしてるんだ。仁志はイタズラをする子供みたいにニタッと笑って、先輩の浩太を指さした。
「だめっすよ先輩。傘は傘っす。明日返せば良いって、コンビニとか居酒屋でも同じことしますか?」
浩太はぎくりとする。確かに新品の傘だともう少し慎重に考えるし、コンビニや居酒屋で同じ状況だったとしたら迷わず頂戴して行く。仁志は、時々こういう核心を突いてくる。こいつの視点も、かなり勉強になると浩太は思った。
「コンビニとか居酒屋の店員に態度でかい奴っているじゃないっすか。ああいうのは日常生活にもボロが出るんすよ。コンビニ居酒屋で当たり前に出来ないことを日常で完璧にやろうとしても、できないって言われました」
「それは、お前の母ちゃんにか」
「元カノっす!」
良い話を聞いたオチが元カノかよ、と笑いながら駅まで歩いたところで、大粒の雨が降り出した。ギリだった。
「通り雨っぽいな。そこの高架下でちょっと飲んでくか。」
ネクタイを緩めながら浩太が言うと、仁志は子犬のように目を輝かせた。あるわけのない尻尾を振らして。
「マジっすか!ラッキー」
浩太は確実に傘より高い支払いをすることになるけれど、今日ばかりはこいつの元カノの話をもう少し聞きたいと思った。

高架下の焼き鳥屋は、近隣のサラリーマンに人気でいつもごった返している。浩太たちの会社の飲み会でも、よく利用していた。そういえば、いつも自分の店員に対する態度はどうだろうかと考えながら暖簾をくぐる。
「らっしゃい!」
いつもいる大将に笑顔で迎えられた。店内をざっと見たところ、満席のようだ。
「なんだ、いっぱいじゃねぇか」
浩太が呟くと大将はカウンターの中から隅のテーブル席を指した。
「あ!課長じゃないっすか!」
浩太より先に仁志が気づく。4人がけのテーブル席に、課長の田野恭介と、浩太の1年先輩の谷口純雄がビールを片手に手を振っていた。恭介が大声で呼ぶ。
「2人か!ならこっち来い!」
店内の視線が一瞬だけ自分たちに集中して、浩太は少し恥ずかしかった。仁志が小声で
「先輩、良かったっすね、飲み代浮きますよ」
と言った。うるせぇ、マジで。
浩太たちはお言葉に甘えて同席させてもらうことにした。恭介はそこまで酒に強くなく、少し赤い顔をして言った。
「なんだ、雨、平気だったのか。せっかく傘1本、置いてったのに。」
がははと笑う恭介の前で、浩太と仁志は目を見開いて顔を見合わせる。少しの沈黙の後、爆笑した。
きょとんとしている恭介と純雄に、さっきまでのやりとりを話していると2人のビールも運ばれてきた。
「ありがとうございます!」
仁志がハキハキと言って、自分と浩太のところにジョッキを置く。週末でもないのに、4人は景気良く乾杯をした。
「仁志は確かに、いつも店員に謙虚っつうか、ちゃんとしてるよな。そうか、元カノの教育か」
歳の割にちょっと老け込んでいて6つ下の仁志と並ぶと親子に見えてしまう純雄は、貫禄を感じさせる声で言った。
「元カノが飲食店だったんで。店員て結構客のこと見てるっぽいから、ちゃんとしとこうって思ったんす」
「で、その元カノとはなんで別れちゃったのかねぇ」
ニヤニヤしながら純雄が仁志を見る。そうそう、俺もその話がしたかったと浩太は身を乗り出した。
高架下で外は見えないけれど、入り口から微かに漏れている赤い光で雨が上がったとわかる。日が長くなってきた。ビールがいつもより美味いと、浩太は思った。

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