ケーキを食べればいいじゃない。

土曜日の朝、始発で帰宅した私は世界中を嫌ってしまいそうなほど疲弊していた。

全ての原因は昨日の金曜日にある。恋人の裕也と食事の約束をしていたので、定時で上がれるように上手く計画して仕事を片付けていた私に、16時50分に上司の羽成さんが仕事を持ってきた。

「舞子ちゃん、この資料悪いんだけど、修正書いてあるところ直して先方にメールしておいてもらえる?」

羽成さんは他の社員が近くにいない時、私のことを舞子ちゃんと呼ぶ。普段は苗字で鈴木さんと呼ぶのに、2人だと「鈴木って何人かいて、紛らわしいでしょ」と言って、舞子ちゃんになる。2人しかいないのに何が紛らわしいのだろうか。

そんなことはどうでも良い。羽成さんの持ってきた資料に目を通して私の目つきは鬼のようになっていたに違いない。修正箇所は20以上もあり、その内の数箇所はかなり時間のかかるものだった。間違っても定時10分前に押し付ける仕事ではない。これは断る権利があるのではないかと顔を上げた時、羽成さんはそこにはもういなかった。疑問形で投げかけておいて返事も待たずに去る上司に、私は1人で舌打ちをした。

「ごめん、今日残業になっちゃって。食事はリスケしてもいいかな?明日も会うし、その時私おごるよ。本当にごめん」

疑問形で投げておいて最終的に自分で完結してしまう上司のことをとやかく言えないような内容のメッセージを裕也に送ると、私はすぐに仕事に取り掛かった。定時を過ぎると次々同僚たちは帰って行き、なんと羽成まで定時10分後には立ち上がった。

「ごめんね舞子ちゃん。俺、今日用事あってさ」

私も用事がありましたけど、という前に、羽成さん・・・いや、クソ野郎は帰って行った。ふざけんな。

怒りのせいもあってか、集中力が増して一気に3分の1くらい作業が進んだところで、スマホが振動した。裕也からの電話だ。もう誰も周りにいないことを確認して、私はスピーカーモードにして電話を取った。

「もしもし、舞子?」

「裕也、ごめんね今日。ちゃんと埋め合わせするから」

私は裕也と話しながらもマウスとキーボードを操作する手は止めなかった。

「今日、舞子が行きたがってた中華のお店予約してたんだけど」

裕也の一言に私は一瞬だけ手が止まった。今日の行き先は告げられていなかったのだ。以前私が、1度でいいから本格的な中華を食べてみたいと言ったら裕也はインターネットを駆使してお店の候補を出してくれた。その中の1つに、小籠包が有名だと書かれたお店があり、今度行きたいと話していた。まさか、今日の行き先がそこだったなんて。知っていたらこんな残業もっときっぱりと断ることができたのに。

「そうだったんだ・・・本当にごめん。キャンセル料とかかかるよね?私払うから」

「いや、そうじゃなくてさ」

私の言葉を裕也が遮るなんてのは、初めてかもしれなかった。

「舞子、今日以外にも残業でデート遅刻してきたりとかあったじゃん。で、今日はドタキャン。明日も会うからってメッセージにあったけど、明日は明日だろ。今日は今日で、俺は楽しみにしてたんだけど」

「そんなこと言ったって仕方ないじゃん」

裕也の言ったことは事実だし、楽しみにしていたのも本当だろうし、私が毎回残業を断れないのはいけないところだとわかっていた。わかっていたけれど、さっきの上司の態度や今この現状で責められている自分に耐え切れず、冷たい言葉を冷たいトーンで返してしまった。

裕也とは付き合ってもうすぐ3年になる。最近は裕也からプロポーズはないにしても結婚を思わせる話がちょこちょこ出てきていて、私はそれが嬉しかった。

今更こんなどうでもいい残業なんかを理由に喧嘩なんてしたくはないけれど、今は優しくしてほしかった。その気持ちが勝ってしまったのだ。

「わかったよ。とりあえずキャンセルはしとく。明日も無しにしよう」

裕也はそれだけ言って電話を切った。落ち込んでいる訳でも、自分の物言いに反省している訳でもないだろう。きっと彼は、私が話している最中に止めなかったキーボードとマウスの音に嫌気がさしたに違いない。

結局途中で空腹に耐えきれずコンビニで買ったご飯を食べ、仮眠を取ってまた作業に取り掛かってとしていたら、終わる頃には終電ギリギリになってしまった。そして長時間モニターを睨んでいた私の目は疲れ切っていて、終電で8駅も寝過ごすことになった。金曜の終電終わりでタクシーも捕まらず、ビールを2本買ってネットカフェに入ったのは深夜の1時前。ネットカフェに空室があったのは奇跡と言える。

そして始発で帰ってシャワーを浴び、今度は起きるまで寝ようと意気込んだもののあまり眠れず、私は9時には目を覚ました。本当なら今頃裕也とのデートに着ていく服を選んでメイクをしていたのだけれど。私は昨日の出来事を、上司とのやりとりから思い出してまたイライラしてきた。

朝食を食べる程の食欲はなかったけれど、冷蔵庫を開けてみる。乳酸菌飲料を取り出して飲みながら、中身をチェックする。大したものは入っていない。

「卵が4つか」

独り暮らしをしてから、独り言が増えた。実家では思ってもこんなどうでもいい言葉口にしなかっただろう。

野菜室に小麦粉が入っていることを確認して、私は再度時計を見上げた。うだうだ考えている間に、10時近くになっていた。よし、と気合を入れて、顔を洗い、Tシャツとジーンズに着替える。財布をポケットに突っ込んで、すっぴんのまま向かうのは徒歩10分の所にあるスーパーだ。

「白い粉、白い粉。」

またも独り言が漏れた。これは内容的にもちょっとやばいかもしれない。

私が着いた頃、ちょうど入り口が開いて、10時のオープン待ちをしていた年配の女性が見事1番乗りで店内に入って行った。私もオープン待ちの列の最後尾に続いた。

店内に入ると、生鮮食品コーナーの涼しい風を身体が一気に吸収した。残念ながらここには用がないので、芯まで冷える前に退散する。粉類を置いているエリアまで抜けて、私は念願の白い粉2種類を入手することができた。他に必要な物もないのでそのままレジに向かう途中、卵のコーナーを通ったので1パック買い足すことにした。4つ残っていたけれど、数時間後にはゼロになるからだ。

会計を済ませてお気に入りのエコバッグに商品を詰め、自宅マンションの前で足を止める。最近ラインナップががらりと変わった自動販売機に小銭を入れると、「ミルクたっぷりロイヤルミルクティー」のボタンを押した。ミルクたっぷりと言うけれど、そもそも牛乳で煮出した紅茶をロイヤルミルクティーと呼ぶのではないのだろうか。

帰宅するとまず手を洗い、調理器具を揃えた。ゴムベラはしばらく使っていなかったので、1回洗ってよく水気を取った。そして先程購入した卵は冷蔵庫にしまい、白い粉達は小麦粉と一緒に軽量する。粉の正体は、コーンスターチとベイキングパウダーだ。

3つを合わせて110グラムになったのを確認し、それは一旦置いておく。次に卵だ。2つのボウルに卵黄と卵白に分ける。この時卵黄は3つだけれど卵白は4つ分必要なので、卵黄は1つ余ってしまう。今日の夕飯は黄身がけご飯に決定した。私は卵白のボウルを一度冷蔵庫に戻して、卵黄のボウルを手にした。

バターを溶かして卵黄と一緒に溶き、そこへグラニュー糖と、先程自動販売機で購入したロイヤルミルクティーを90cc注ぐ。いい具合に混ざったところに、最初に軽量した白い粉達を入れる。本当は篩にかけた方がいいのだけれど、面倒なのでそこは玉が残らないよう念入りに混ぜるだけにするとしよう。

均一に混ざったところで、本日のメインイベントである。

私は卵白を冷蔵庫から取り出し、泡立て器を手にした。そして昨日の出来事を思い浮かべる。定時間際に残業を押し付ける上司と、それに文句をだらだらと述べる裕也。行き場のない週末の怒りをお腹の底から引っ張り出して、私は泡立て器を卵白の海に突っ込んだ。

カシャカシャカシャカシャッ

景気のいい音がキッチンに響く。しばらくすると透明だった卵白は白く濁りもったりとして来るので、そこで初めてグラニュー糖を投入する。軽量したグラニュー糖は3回に分けて入れるのが一般的だけれど、私は5回に分けて入れる。何度か作っているうちに、これがベストだと発見したのだ。

10分程腕を動かし続けていると、ぷわぷわと艶のあるメレンゲができあがった。電動のハンドミキサーを使っても良いのだけれど、これを手でやってこそ、ストレス解消になる。現に、昨日のストレスもこの10分程でかなり和らいでいた。

メレンゲを2回に分けて生地とさっくり混ぜ、真ん中に筒状の突起があるシフォンケーキの型に流し入れて2回程空気抜きをする。ちょうどよくオーブンが160度の予熱完了を告げた。私の怒りの結晶とも言える生地を見送って、私は使った器具を洗い一息つく。やらなければいけないことは、わかっていた。スマホをてに取り、裕也に電話を掛ける。なかなか出ないけれど、何故か彼もスマホの近くにいるような気がした。

「もしもし」

いつもの元気がない。まだ怒っているのだろうか。そうだとしても関係ない。私はもう折れる決心がついてしまったし、切り札だって持っている。

「もしもし?寝てた?」

「いや、起きてたけど」

多分嘘だろう。裕也は嘘をつく時言葉の最後の文字が短く切れる。時計は11時半を指している。ずいぶんと寝たようだ。

「昨日はごめんね。せっかく予約してくれてたのに、知らなかったとは言えドタキャンしちゃって」

「え?あ、あぁ。別に、仕方ないってわかってるし、俺も当たっちゃったし」

きっとこちらがすんなり謝ることは想像していなかったのだろう。というよりも裕也の性格的に、昨晩電話を切った後1人反省会をしたのだと思う。そういう人だし、そういう人だから好きになったのだ。

「あのね、お詫びって訳じゃないんだけど、シフォンケーキ焼いてるんだ、今。だから、家に来て一緒に食べよう?」

えぇ!っという声と同時に、なにかがガタンと落ちる音がした。

「ちょっと、大丈夫?」

「あ、大丈夫大丈夫!え、舞子んち行けばいい?うわ、めっちゃ楽しみ!急いで支度するから」

「慌てなくても、まだ焼けてないから。生クリーム買ってきてくれたら、ホイップにして乗せられるよ」

「絶対買っていきます。待っててすぐ行く」

乱暴な感じで電話が切れた気がしたけれど、何も嫌な気持ちにならない。かなり晴れやかだ。今頃さっき落とした何かを拾い上げて急いで着替えているに違いない。私も掃除機くらいはかけておくかと、立ち上がる。

裕也が家に着いたのは、電話からちょうど1時間程過ぎた13時前だった。

「お昼は食べた?なんか作ろうか」

「あ、もしよかったら、これ」

裕也は人気店のロゴが入った袋を掲げた。仲には野菜たっぷりの彩り豊かなサンドイッチが2つ入っている。

「昨日、俺もごめんね。舞子頑張ってたのにひどい言い方して」

嬉しくなった私は何も言えずに首を横に振ることしかできなかった。そして私たちは紅茶を飲みながら、裕也が優しさで買ってきてくれたサンドイッチを食べて、デザートに私の怒りが全て詰まったシフォンケーキを食べた。

「やっぱり、舞子のケーキは美味いよな。何か特別な物入れてるの?」

「あ、愛情じゃないかな」

裕也はそっか~と言いながら嬉しそうにシフォンケーキを2切れも食べた。真相なんてものは、まだ知らない方がいいのだよ、裕也君。

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