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山体崩壊と天然ダム湖

はじめに

先週のNHKの番組、日本人のおなまえっ!で海のない長野県の海地名の由来の話がありました。小海、海ノ口、海尻、という地名は、かつてここに海のような湖があったからという説明でした。この湖は河道閉塞による湖だと言われています。すなわち、八ヶ岳の山体崩壊により土砂が千曲川を堰き止めて天然ダムによる湖ができました。こんなことがあったのかと驚かれた方も少なくないかと思います。今回は山体崩壊とその影響についてまとめてみます。

河道閉塞とは

河道閉塞はそう珍しいものではありません。あの有名な上高地の大正池も大正時代の焼岳の火山活動の泥流による河道閉塞でできたものです。2004年の新潟県中越地震でも河道閉塞が起きていますし、2011年の台風第12号による紀伊半島の記録的な大雨でも奈良県、和歌山県で河道閉塞が発生しています。川の流れを何らかの原因で流入した土砂がダムのように止めることで水がたまる現象ですが、その原因には火山もあり地震もあり、さらには大雨による土砂崩壊もあります。

以前に投稿したnote記事にも、善光寺地震など河道閉塞が顕著だった災害について触れています。あの記事では江戸時代以降の災害を紹介しましたが、河道閉塞の中でも有史以降で最大のものが、平安時代の千曲川流域での河道閉塞だったようで、水深130mにもなったとのことです。

仁和地震

この天然ダムによる湖の出現ですが、西暦887年(仁和3年)に発生した仁和地震で八ヶ岳が山体崩壊したのが原因と言われています。この地震、いわゆる南海トラフ地震で、大阪などで津波の被害が出ています。南海トラフの地震は、西から順に南海地震、東南海地震、東海地震があり、この3つが同時に発生するときわめて巨大な地震となるわけですが、仁和地震では南海、東南海の2つが同時に発生して、東海地震は発生していないのではないかと見られています。それで長野県の八ヶ岳の山体崩壊を発生させることができるのか、という議論はあるようです。ただ、東北地方太平洋沖地震でも、発生翌日の早朝に新潟と長野の県境付近でM6.7の内陸型地震、4日後には静岡県東部でM6.4の内陸型地震と東北地方太平洋沖から遠く離れたところでけっこう大きな地震が発生していますので、同じようなことが起きた可能性はあったのかもしれません。

この地震の18年前、西暦869年に東日本大震災と同じ地域を同じ規模で襲った貞観地震が発生しています。その2年後の上級官吏登用試験には地震とは何かを問う記述問題が出題されていて、その試験に合格したのが菅原道真、という時代です。当時は疫病も蔓延していて、さらに富士山噴火に貞観地震といった天変地異に対する社会不安が広がっていた中で、それを鎮めようと京都の祇園祭が始まったのも869年です。

仁和の千曲川河道閉塞

河道閉塞が起きてもすぐに湖ができるわけではありません。ダムが完成してそこに水を貯めるのに時間がかかるのと同じです。小海のあたりは、内陸部でもあり、それほど雨量が多いところではありません。北相木のアメダス観測では、年間の降水量は1000ミリ前後です。1年間の降水を水槽にためたとしても1m程度にしかなりません。これが130mの深さの湖になるには130年かかるのかというとそれも正しくありません。

国土交通省のホームページから千曲川の流域を転載するとともに、天然ダム湖のおおよその位置を星印で示します。

画像1https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0406_chikuma/0406_chikuma_00.html

この星印から上流の流域全体から水が集まってきます。この流域全体に水が貯まれば1年間で1m程度の水深ですが、それが星印付近で貯まる面積(湖の面積に相当)がこの流域面積の1/130であれば、ざっと水深は130mになります。このことは、大雨による浸水や洪水災害を考える上でも非常に重要な概念です。200ミリの大雨と言われて、なんだたったの20cmの水か、と考えるのは大間違いです。広い面積で降った200ミリの降水が、狭い面積の低い標高の地域に集まってくると、それが1m以上の深さになります。アンダーパスでの浸水の状況を考えると直感的にも理解できるかもしれません。

さて、地震発生の翌年の梅雨期に水深が130mにまで水が貯まりました。その水の重さが、堰き止めた土砂にのしかかり、土砂が決壊して水が土砂とともに勢いよく下流に流れ出し、下流側では洪水・土石流災害が発生しました。水が流れ出したことにより、天然ダム湖の水深は50m程度になり、それがその後123年間も湖として残ったということです。また、流出した土砂が下流に流れ出したことで、下流に当たる地域でも河道閉塞による湖が出現し、そちらは700年間も湖として残ったということです。詳しくは、いさぼうネットというウェブに参考文献も含め紹介されています。

この湖がどのようにして解消したのかも関心のあるところです。この湖の水の量をお財布のお金に例えると、収入はこの湖の上流域の降水量総量で、支出は湖からの蒸発量と下流に流れ出す量となります。100年以上も湖が安定して存在したということからすると、この収入と支出がほぼバランスしていたのでしょう。それが消失する段階では、おそらく流れる水による土砂の侵食が進んで下流に流れ出す量が増えていったのではないかと思います。

他の山体崩壊の例

明治以降でもっとも顕著な山体崩壊は、1888年の磐梯山の噴火に伴うものでしょう。噴火そのものおよび山体崩壊により477名の犠牲者が出て、明治以降の火山災害としてはもっとも大きな被害が出ています。河道閉塞により生まれた桧原湖では、桧原村が村ごと水没しています。

江戸時代に遡ると、1792年、雲仙岳の火山性地震が影響して眉山が山体崩壊し、大量の土砂が海に落下しました。この土砂が津波を発生させて大潮の満潮時と重なったことで甚大な津波災害が発生、島原半島で1万人、対岸の熊本で5千人と合わせて1万5千人の犠牲者を出す大災害となりました。「島原大変肥後迷惑」と呼ばれた災害です。これについては、また機会を改めて紹介してみようかと思います。

江戸時代の直前、天下統一の仕上げの時期でもある慶長年間も、災害頻発の時代でした。1596年の慶長伊予地震、9月4日の慶長豊後地震、9月5日の慶長伏見地震、1605年の慶長地震、1611年の会津地震、慶長三陸地震と大きな被害をもたらす地震・津波が文字通り立て続けに発生しました。1596年の相次ぐ地震を背景に1596年は文禄から慶長に改元されたのですが、あまり効果がなかったようです。1611年の慶長三陸地震は、実は東日本大震災や貞観地震津波にも匹敵する規模の地震ではないか、という最近の研究もあるようです。

このうち、慶長豊後地震では、別府湾にあった瓜生島が沈んだと伝えられています。これも山体崩壊のようなものだったのかもしれませんが、実際のところはまだよくわかっていないところが少なくないとされています。海に沈んだとされる伝説をもとに「瓜生島」というオペレッタ芸術作品にもなっています。

国造りは荒々しい

いまも、日本のはるか南海上では西之島が荒々しい火山活動により島を拡大中です。火山活動や地震により島ができて山ができて、大雨で川が氾濫し平野を作り、山体崩壊で湖を作り、こうして今の日本列島が形成されているとうことになります。今の状態も最終形ではなく、これからも変化し続けていくことでしょう。人類はダムや堤防の建設や河道閉塞解消作業等、土木工事という自然と戦う手段(ハード対策)と、緊急地震速報や津波警報、気象警報などの情報手段(ソフト対策)を得て、荒々しい自然から受ける被害を小さくすることはできますが、自然の大いなる力には今後も謙虚に接していくことが必要ではないかと思います。そのためには、この大いなる力というものを歴史から知ることも重要だと考えます。



 

 





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