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FGOでラクシュミー・バーイーが登場して驚いた件。英国統治時代のインドとインド独立についてざっくりまとめ。

なますて。天竺奇譚です。

まずはじめに。

かなり長くて雑なまとめですまない。

ちなみにこの長ったらしいメモというかまとめは、主にFGOというゲームに登場するラクシュミー・バーイーにからめた話だけど、ラクシュミー・バーイー本人やゲームについてはほとんど語ってない。ラクシュミー・バーイーが登場した歴史背景と、彼女の存在がインドに与えた影響についてざっくりとまとめたものなので。そこはすまない。

あと、ほんと雑なまとめなので、英国と東インド会社を同一に語ってたりとか、用語とかほとんど使わずほんとざっくりにしてる。英国の統治について是非を問うつもりも議論するつもりもないので、歴史オタクの人向けではないのでそこもすまない。

知らない人のために。FGOっていうのは史実や神話の登場人物が「英霊」となり召喚されて、主人公と一緒に冒険して世界を救うっていうゲームだ(超ざっくり)

ラクシュミー・バーイー。現代のインド人にとってそれはインド独立の象徴でもあり独立の女神でもある人。まさか彼女がゲームの登場人物になろうとは。と、マジでびっくりしたのが、これをまとめるきっかけになった。

ゲームの中の彼女は、とある世界に召喚され、圧倒的な力を持つ敵と対決する。レジスタンス側。まさに生前のラクシュミー・バーイー。必殺技は「ナヒン・デーンゲー」である。

さてご存知の通り、ラクシュミー・バーイーは19世紀インドのジャーンシー王国の王妃だった。1857年のインド大反乱のときのインド側の中心人物として自ら銃を取り戦い、最期は戦場に散った気高き王妃。現在のインドでは各地に銅像が建てられ、女神のように崇められている人物。

彼女の時代を知るにあたり、まずはインドの歴史を1000年ほどざっくり整理してみるところからはじめてみようとおもう
(かなり無謀?しってる。)

ムガル帝国がインドを統治していた時代

インドは古代にアーリア人がやってきて支配しバラモン教を広め、それがいろいろあって土着の要素と融合して「ヒンドゥー教」ができてからは、ヒンドゥー教徒がとても多い土地だった。(もちろん仏教徒やジャイナ教徒やキリスト教徒もいるが)(ざっくり説明ですまない)

で。11世紀頃までインドはヒンドゥー教王国がいくつも栄えていた
インドは海外ともじゃんじゃん貿易してて、豊かで、お金持ちで、北も南も西も東もインド全土にはでっかい寺院が山ほど建てられてた。(ジャイナ教寺院や仏教の僧院もあった)

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※カジュラーホーにあるカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院 11C 

でも、北方から侵略してきたムスリム(イスラム教徒)系の勢力にガンガン制圧されていった。13世紀にはデリーを中心にムスリムの国ができて(デリー・スルタン王朝)どんどん南下していった。映画では、日本でも公開された「パドマーワト 女神の誕生」あの時代だ。

映画「パドマーワト」は、ヒンドゥー教徒のラージプート族のメーワール王国に嫁いだ姫君が美人すぎたので、横恋慕したムスリムの王様が王国に攻めてくるというお話。史実をもとに後世で創作された物語。

イスラム教では偶像崇拝は禁止だったので、神様の像を拝むヒンドゥー教は徹底的に弾圧され、像は壊され、寺院は破壊された。仏教もこの時期インドからは消滅。数多あるヒンドゥー教王国はムスリムの圧倒的なパワーに勝てず、疲弊していく。

そして16世紀。ムスリム系のムガル帝国がインドを支配する。

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※1653年にはムガル帝国皇帝シャー・ジャハンがタージマハルを建てた。

ムガル帝国は、インド全土をほぼ制圧したあと、やっぱり弾圧とかよくないよね、と、イスラム教以外の宗教への締め付けを弱めた。
ヒンドゥー教王国の姫を嫁にもらった寛容なアクバル帝がいた時代もあり、文化が成熟して、それなりにうまくやっていたときもあった。

でも、ヒンドゥー教を弾圧した王もいた。特にアウラングゼーブ帝。タージ・マハルを建てた王様の息子。この人はかなりヒンドゥー教徒(圧倒的多数)に厳しかったので、民の不満は溜まっていった。

で、予想通りこの王様が死んだあと、ムガル帝国は一気に弱体化が加速して、部下だったムスリム系の領主(太守)が独立して王だと宣言したり、抑圧されていたヒンドゥー教王国が台頭して大変なことになった。
一応ムガル帝国はあるけど、直轄地みたいなところがどんどん減って独立していった。群雄割拠、日本だと戦国時代みたいなかんじだ。

支配者だったムガル帝国が弱体化していくなか、インドの混乱に目をつけたのが、英国の東インド会社。これがガチでヤバかった。

ムガル帝国からみると、英国は貿易相手国の一つにすぎなかった。実際、インドはヨーロッパ諸国と貿易しまくってたので。

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チェンナイのセント・ジョージ要塞。1639年に建設された。

東インド会社はボンベイ(ムンバイ)、マドラス(チェンナイ)、カルカッタ(コルカタ)を中心に活動したが、カルカッタがある東インドのベンガル地方に拠点を移すことにする。

インドの綿織物は世界的に最高級品で(モスリンっていう薄い布。貴族とか上流階級にめっちゃ流行った)、特にヨーロッパでの需要があって、ベンガル地方はその生産の中心地でもあった。

東インドを活動の拠点にした英国は、ムガル帝国から領地を賜って(ていうかムガル帝国側と二重統治的な)影響範囲を広げようとしてた。でもムガル帝国側のベンガル太守とモメて(英国が要塞作ったりしたからだ)、ベンガル太守側がフランスに助けを求めたことで戦争になった。

1757年 プラッシーの戦い

規模は小さな戦いだったんだけど、この戦いで、英国はインドからフランスを追い出し、東インドのベンガル地方を中心に土地から税収を得ることができる権利も獲得して、政治にもがっつり口出しするようになってくる。

英国はカルカッタを中心に直轄地を作り、どんどん影響を広げていく。

ところでインドの人たちは、英国に警戒しなかったのか。

しなかった。

ムガル帝国の皇帝も、英国側の活躍を褒めてたし、ムガル帝国の圧政に苦しんでたムスリム以外の人たちのほうも、英国を歓迎したくらいだったらしい。

でも英国は、土地からあがる税や収入を元手に、ムガル帝国支配下の大小さまざまな国と、貿易や条約とかを結んで、どんどん影響を増やしていった。


マラーター王国という大勢力

インドにはムガル帝国下で力をつけていた王国は多々あった。

その中でもパワーがあったのはヒンドゥー教徒のマラーター王国。
18世紀初頭、つまりムガル帝国が弱くなってきたころ建国したマラーター王国は、独立を求めてムガル帝国と対等に戦った。
めっちゃ強くて、皇帝は「すげえな、んじゃあいいよおまえらに国やるよ」と彼らの国を認めたのだった。
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※黄色い場所がマラーター同盟の影響範囲。1760年ごろ。右上は英国支配下のベンガル地方。

もともとマラーター王国はマラーター族の国で、西インドからデカン高原を中心にすんでた自称クシャトリヤ系の人たちだったと言われている。○○家、○○家、みたいに分かれてて、デカン高原あたりをそれぞれが治めていた。

マラーター王国は、彼らが中心となって、近隣のヒンドゥー教の諸侯やムガル帝国から離反したムスリム諸侯やマラーター一族たちをまとめ「マラーター同盟」を作った。
英国が力をつけるなか、ムガル帝国も英国もマジやべえな、やつらになんとか対抗できるようにしようぜ!と考えたのかも。実際、マラーター王国は、一時期はインドを支配するくらいまで大勢力になった。上の地図の黄色い部分はマラーターなのだ。

ちなみにこの時代はインド映画だと「Bajirao Mastani」が有名。あの「パドマーワト 女神の誕生」の監督が撮った映画だ。豪華絢爛な宮殿をご覧あれ。

映画の主人公はマラーター王国の二代目宰相バージー・ラーオさんで実在した人。この美人さん(ムスリムの姫君)が歌ってるとき、壇上で静かに座ってる男性がその人。バラモンなんだけどめちゃくちゃ強かったらしい。

だけども、その後マラーター王国はお家騒動とかいろいろあって、分裂したりして弱体化していく中で、英国と争うことになり。で、混乱に乗じた戦争で領土をどんどん奪われていって、最終的には、マラーター王国は英国に滅ぼされてしまった。

1817年。第三次マラーター戦争で、マラーター王国は滅亡する

マラーター王国は、「支配に屈せず独立を求め戦った誇り高き勇者たちの国」として、現在でも称えられている。20世紀のインド独立運動でも、マラーター王国のあった場所が中心となったこともある。

で、そんなマラーター王国の末裔が、ラクシュミー・バーイーだといわれているのだ。

やっとラクシュミーさんでてきたね。ながくなってすまない。
でもここからがまだ長い。もうちょっとまってくれ。

気づいたら英国に支配されていたインド

デカン高原あたりのマラーター王国を滅ぼした英国は、今まで以上にインドに入り込んでくる。すでにムガル帝国は力を失っているし。今がチャンス!みたいな。国々とはじゃんじゃん条約結んで、国同士の争いには英国が兵や資金を貸したりもしていた。その代償は大きかったんだけど。

1824年、インドからオランダを追い出す
1831年、南インドのマイソール王国が英国直轄になる
1849年、英国は北インドのパンジャーブ地方(シク教徒シク王国)を併合

いいですか。
プラッシーの戦いから100年の間に
インドのほぼ全域が英国によって支配されてしまった…

何を言っているのかわからねーと思うが
おれも何をされたのかわからなかった…

マジか。マジです。気づいたら英国に支配されてたんですわ。

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左1837年と右1857年のインド地図。赤い部分が英国の直轄地。

たとえば。国同士の争いがあった場合、英国が兵や資金を貸す。見返りに英国に土地や税金を取る権利を与えてもらったり英国が有利になる条約を結ぶ。拒んだら英国が兵を出してその国と戦い、勝ったら相手が不利になるような、つまり英国が有利になる条約を結ぶか直轄地にする。みたいな。(英国は軍備も兵も強いんでほぼ負けない)(どっちに転んでも英国おいしい)

インドの地図が虫食いだらけになるようなかんじで、英国の支配下に置かれる国々が徐々に増えていって、インドにある諸国は英国の「藩王国」となっていった。

なんでこんなことになったか。

もともとインドは一つの国ではない。
この時代の人々に「インド」という国家の意識はない。これ重要。

言語も風習も違う国が混在していたのがインドという土地。
現在のインドの紙幣には17の言語が書かれている。そういう土地。
だって隣の国と言葉が通じないんだから。
宗教と言葉が同じであればなんとなく一つだね、的な。
カーストなどの身分制度もあったので、知識も技術も意識も分断されてた。

あと、人々は支配者にあまり興味がなかった、というのもある。

インドの人たちは、国や言葉もそうだけど、ヒンドゥー教やイスラム教や、カーストなどで分断されていた。
それに、特に大多数のヒンドゥー教徒は何百年もムスリムに支配されていたので、異民族が支配者の場所にいることになれていた。「なに?こんどはムガル帝国じゃなくて英国が領主なの?」くらいなかんじか。

これは領主や王様クラスも同じで、「今度は英国に媚び売ればいいのか」とかそういうかんじ。英国にもあんまり興味がなかった。ふーん。てかんじ。

でも、英国はムスリムより酷かった。

どんなことしてたのかは以下どうぞ。

英国(東インド会社)がインドで何をやってたか

英国にとっては「インドの富をどう効率よく搾取して英国を豊かにするか」が重要だった(だって自分たちが定住するつもりないし病気怖いし)ので、支配した藩王国からはムガル帝国時代よりもガッツリと税金を取って搾取した。

安定した税収が欲しかったので、土地の売り買いができるようにして地主からも土地を取り上げた結果、村落の制度も破壊され、人々は路頭に迷い、飢饉も起こやすくなり、いっぱい人が死んだ。(ムガル帝国時代よりもっと前から、自給自足できるような村落の共同体があったんだけど、その根本が英国に覆されてしまった)

農地は税金を払うための商業用の植物(藍とかアヘンとか)を沢山植えることになったり、税金も増えたりで、人々は食べ物にも困るようになった。
(ちなみに1840年の英国と清のアヘン戦争は、インドのアヘンを英国が清に売りさばいていたことが一因)

つまり旱魃とかで飢饉が起こると、100万人単位でいっぱい死んだ。

インドは綿織物の技術もすごくて世界最高級で海外への輸出が盛んだったんだけど、英国の産業革命で作った布製品をインドで売りさばくために、インドの産業を潰しまくったので、人々は職を失い路頭に迷った。

英国は、ヒンドゥー教やイスラム教はよくない、キリスト教が至高、みたいなこともやりはじめた。
まあこれはたしかに、現代の視点から見ると、ヒンドゥー教徒のサティー(寡婦殉死。夫が死んだら妻も一緒に炎に入って焼死する)や児童婚の風習禁止や女性の立場向上とかそういうふうなところはまだ良いようには見えるけども、キリスト教最高!なウエメセな施策ではあったし、キリスト教徒に改宗したら仕事やるよ、キリスト教以外は邪教、な考えまるだしなアレだった。

さすがにこのへんになるとみんな「英国やばい、マジやばい」と気づく。

でも、もう遅かった。

この時期はもうムガル帝国の力はほぼゼロ。逆に皇帝は英国からお金もらってたし。英国が直接支配していない残った王国もバラバラだったので、一緒に英国を倒そうとかそういうことはしなかった。

まあでも、英国側も、全く何もやってなかったわけじゃなくて。それなりに法の整備しようとしていろいろ勉強すすめてたりもしてたけど、やっぱりちょっと方向性がちがってた。んで、いろいろやったことでインドで全体的に生産性が下がって税もとれなくなりそうになると、さすがにちょっとやりすぎちゃったかなとわかってきた。

特に18世紀の後半にでっかい飢饉で何百万人も山ほど人が死んで大変だったので、19世紀になったら税金を低くしたりいろいろ対策とりはじめて、少しだけ産業とかも盛り返しつつはあった。

でも、きわめつけのことがおこってしまう。ていうかやってしまった。

藩王国は国を奪われる

そんなとき英国は「正統な跡継ぎ、王に嫡出子がいない場合は国を没収しちゃうね!」という政策をとって国をどんどん吸収していった。(は?)

「失権の原則」というやつで、(やったら国つぶれちゃうからあえてだれもやらなかったやつ)これを、インドでは悪名高きダルハウジー総督ジェイムズ・ラムゼイが徹底的にやっちまった。

そしてその犠牲になった国の一つだったのが、マラーター王国の末裔であるとされるラクシュミー・バーイーが嫁いだジャーンシー王国だった。

ジャーンシー王国は、もともとはマラーター同盟の国でもあった。タージ・マハルで有名なアグラよりも南にある小さな国だった。

ジャーンシーの王様とラクシュミーの間には男子が生まれるが亡くなってしまう。養子を入れたんだけど、その後、今度は王が亡くなってしまった。

英国は「養子は嫡出子じゃないから認めないよ、王国は没収するね!」と迫った。結局、ラクシュミーは国を英国に渡さざるを得なかった。

「ナヒーン・デーンゲー(नहीं देंगे)」とはそのときの言葉だという。

ナヒーン=否定、デーンゲー=与える、なので、
「我らの国はそなたらには与えぬ!奪えぬ!」というような意味か。

まあ、そんなことやってたら、住んでる人たちは英国人への不満がたまるよね。でも、英国(ていうかラムゼイさん)は気にせずジャンジャン国を潰して統合していった。

だって英国は強かったから。インド人の兵士を沢山雇ってたし。
銃も大砲もいっぱい持ってた。インドのほとんどを実質支配してたから。

それは100年前のプラッシーの戦いのときあたりから伏線があって。

英国は、フランスを追い出すためにインド人の傭兵を沢山雇っていた。
彼らは英国に訓練され「シパーヒー(セポイ)」と呼ばれていた。

彼らはインドでは上流階級の人たちの傭兵たちで、ヒンドゥー教徒もムスリムもいた。その後一時期は20万人くらいいたらしい。
そんだけ兵がいたら、藩王国のほうも英国に反抗したくても何もできんわな。

で、多くのシパーヒーたちの出身地でもあった北インドのアワド王国は、まだ若い王様がいたにも関わらず、その「国を没収しちゃうね!」政策で無理やり取り潰されてしまったのだ。

1856年 アワド王国が英国に併合される

アワド王国はガンジス川流域にあった。当時英国が支配していたベンガル地方のお隣の国でもある。古代はアヨーディヤ(ラーマーヤナのラーマ王子の生まれた都)、ムガル帝国時代は文化の中心地となった豊かな国だった。

英国のやりかたはあきらかにいちゃもんだたったので、国民はめっちゃ怒った。英国許すまじ!もちろんアワド国出身のシパーヒーたちは、マジで怒った。めっちゃ怒った。

でも俺たち英国に雇われてるしどうすべ、というところで緊張が高まるなか、彼らの間に「とある噂」が広まった。
新式の銃の弾が入った包は口で食いちぎる必要があったが、そこについている脂には、ヒンドゥー教の神である牛の脂と、イスラム教にとって穢れている豚の脂が混ぜて使われていると。

実際それは噂ではなく本当のことだった。
シパーヒーにはムスリムもヒンドゥー教徒もいる。キリスト教徒からすればただの混ぜ物の脂かもしれないが。これはヤバかった。
シパーヒーでいるためには(つまり給料貰うには)キリスト教に改宗しろってことか。神を捨てさせるのか。おいふざけんなよ。と。

なんたる冒涜!ヒンドゥーもムスリムもあるか!団結しよう!
英国絶許!!!!

1857年 インド大反乱はじまる

アワド王国の件もあり、そろそろなにかおこるかもしれないと緊張が高まっていたそのとき、弾の脂の件もきっかけの一つになり、ついにシパーヒーたちは蜂起し、英国人を殺した。

まあでもシパーヒーの反乱はこれが初めてじゃなくて、過去に何度もあったんだけど、今回のは大きかった。

彼らはメーラトからデリーに進軍し、デリーで暮してたムガル皇帝を擁立して復権宣言する。行政会議を作って英国から支配を取り戻そうとしたのだ。

ジャーンシー王国の王妃であったラクシュミー・バーイーのほかにも、アワド王国の王子とかも中心にいたので、どんどん反乱は大きくなった。

英国のほうは、自分たちの兵だと思っていたシパーヒーたちが反乱しちゃったもんだから、一時英国はインドから出て行くしかなかった。

でも、すぐにもどってマジで本気でインドを制圧した。

ラクシュミーはもともと反抗するつもりはなかったらしいが、ジャーンシーの民が英国人を殺してしまったため、英国と戦うことを選んだらしい。

彼女は他の藩王国にも反乱するように呼びかけた。でも他の国々は二の足を踏んだのだった。

海外の文化に親しみ、銃や乗馬が得意だったとされるラクシュミー・バーイー。彼女は自らが最前線に立ち戦ったが、戦いのさなか亡くなった。

インド大反乱。残りの藩王国も加わってもっと大きなことになれば、歴史は変わっていたかもしれない。
でも、やっぱりそのころのインドには「自分たちはインド人である」という国の意識がなかったので、英国に反抗するの怖いし、英国と良好な関係を続けていたいと考える藩王国のほうが多かった。

ハイデラバードのニザーム王国とか、中立だったり英国に味方する国も多々あったりで、ラクシュミーたちの呼びかけもむなしく、当時のインドは、国としての団結は難しかった。

そんなこんなで英国はムガル皇帝を捕らえてビルマに流した。

1858年、英国はインド統治法発布。ムガル帝国は滅ぶ。

これでインドは正式に英国の支配下になったのだった。
ちなみに英国が反乱を鎮圧できたのは1859年。その翌年だった。

ラクシュミー・バーイー亡き後のインド

英国は反省した。
さすがに「失権の原則」とかヤバかったね強引だったね(また反乱されたら困るし)、ということで、宗教の自由を認めて、実際の統治は藩王国に任せようね。ってかんじにした。藩王国は潰しません、むしろ復活させちゃうから統治よろしくね。的な。(は?)

東インド会社の政策が失敗しちゃったね、東インド会社も解散しちゃうね。こんどはうまくやるね。と。議会作ったりして、いろいろ体制整えた。鉄道とか街づくりとか教育とか。

一方で、英国は、インドがもう立ち上がれないようにと徹底的に潰した。

生き残った反乱兵たちを惨殺し、ちょっとここでは書けないような方法で残酷に殺しまくった。(資料読んでたら吐き気がするくらいグロくて胸糞なので割愛するから察してごめん)

人間は、相手が同じ人間ではないと思えば、どんな残虐なこともできる罪深い生き物なのだろうなあ。と。そういうレベルのこと。

宗教を認めるのは、宗教で分断して大反乱のときみたいにヒンドゥー教徒とムスリムが協力しないようにするため。身分制度も都合がいいからとそのままにしておいた。また団結されたら困るし。むしろ断絶させようといろいろ画策した。

兵は必要だけど、また反乱されたら困るから(そればっかや)反乱起こしたバラモンとかラージプート族やムスリムじゃなくて、征服したシク王国のシク教徒たちやネパールのグルカとか、反乱を鎮圧した側の民族(少数派)を多く採用した。

もちろん白人のほうが偉いので、インド人は当たり前のように差別された。
(アメリカで黒人やインディアンがされた扱いみたいなかんじをイメージしてくれ)もちろん重要な地位は白人が独占する。

インド中に鉄道を敷いたけど、インドの富を吸い上げるためのものであって、国を豊かにするためではなかった。

大反乱以前よりは税も軽くなったところがあったかもだけど、前にも書いたけど、食べ物を作るための農地はアヘンとか藍とか商品になる植物に変わってしまったので、飢饉に備えるための蓄えは乏しくて、飢饉になったら人が沢山死にやすいというのは変わらなかった。

とはいえ、インドの人たちもなんとか生き残ろうと、英国からの輸入品である綿布とは違う種類の、たとえば結婚式用の高級布とか、もっと安い布とか、糸とか、そういう差別化をはかってがんばってたし、農地の開墾も進んでいろいろがんばってた。

でも、そうこうしてる間にまたまたインドで大飢饉が起こって500万人以上が死んでる最中に、ヴィクトリア女王がインド皇帝になったのだった。

1877年 ヴィクトリア女王がインド皇帝になる

19世紀末に、インドでは何度も大飢饉が起こって、1000万人近い人が亡くなったと考えられている。原因はエルニーニョ現象とか劣等地を農地開墾してそこに食べ物を植えたので旱魃時に食料を得ることができなかったとかいろいろあるらしいが、インドにとって19世紀は苦難の時代だった。

インド独立への機運が高まる

英国はインドを植民地支配するにあたって、反乱はもうこりごりだし、でもやっぱり現地の人の協力は必要だよね。だったら「インド人を教育して言葉も文化も同じにすればいいんじゃね?」という考えをもっていた。

実は英語教育とかはけっこう前から進んでて、1857年、インド大反乱の年にはインド人が英国式の高等教育を学ぶための大学が建てられてるくらい。英語がしゃべれて英国の文化に馴染めないと職がないという切実なこともあり、インドの上流層の人たちはどんどん英国文化を取り入れていたという経緯もある。

で、インド大反乱の後は、その流れがとくに強くなる。

この時期の藩王国は、ある程度の内政への自治は認められていたので、中には自国を豊かにしようとめちゃくちゃ頑張った王様たちもいた。特にマイソール藩王国ではじゃんじゃん教育をすすめて、学校や大学まで作っちゃうとか、女性の地位向上とかもすごくすすめてた。なので、とっても豊かになった藩王国もあった。(そうでない国ももちろんあるけど)

英国は、「教育によって見た目はインド人だけど中身は英国人ができるよね。これで支配しやすくなるよね」と考えていた。

でもね、英国が思ったとおりにはいかなかった。

英語を話し、ヨーロッパの本を読み、知識を得た人たちは、産業革命以降の海外のすさまじい力を知り、自国の国力の低さを知ると同時に、英国がどんだけえげつないことをしてるか知ってしまった(あたりまえだ)

「俺たち…インド人…だよな?」「インドは…支配されていていいのか!」と独立への気持ちが高まってしまった。特に抑圧されていた時期が長かったヒンドゥー教徒。

また、一方で、インドの文化を知った英国やヨーロッパ諸国の学者たちは、ヒンドゥー教の聖典の言葉サンスクリットは、ヨーロッパの言語、ラテン語とかと原点が一緒ということもわかってしまった。

ヨーロッパの学者たちは、インドってすげえ!とじゃんじゃん研究した。

インドの鉄道のレール敷くときに、インドの北のほうにたくさんあった遺跡っぽいやつを崩して焼きレンガを大量に持ち出したんだけど、それが実は「インダス文明」という超大昔の高度な文明の遺跡のものだということもわかってしまった。あと、南インドのほうでは、古代タミル語の文献とかも注目された。古代インドすごいねと。

学者たちは、インドに関する本を沢山出版した。

もちろんインド人も読んだ。

知識を得た上流社会のインド人たちは、「俺たち、英国人と原点が同じなんだって」「じゃあなんで搾取されてんの?」「俺の国にも文明はある!」と喜んで、それがまた「インドは英国支配から独立すべきだ」という流れになっていく。(特にヒンドゥー教徒。これが現在まで続くヒンドゥーナショナリズムにも繋がっていくのだ)

20世紀には、インド人も「インドは英国に搾取されてきたのだ」と本を出しはじめた。(もちろんそういう本はすぐ発禁になり、裏でこっそり売れ続けた)

あと、インドは地方によって言語が違うので言語で意思疎通が分断されていたんだけど(ムガル帝国時代はペルシャ語が共通語ではあったが)英国領になって英語を使うことがインド全土で増えていくと、北と南の出身のインド人が英語で意思疎通できるようになった。これとても重要。

英国は、そういう団結とか独立のアレを逃すために、ムスリムとヒンドゥー教徒の宗教的な対立をあおり、議会などでは宗教やカーストや職業で分断して互いの利益や権利を競わせるようにして、敵対させ、インドをバラバラにしたままにしようとする。

そんな中、マラーター王国のあった場所、今のマハーラーシュトラ州の政治家、ティラクが「ヒンドゥー教徒は独立すべきだ!」みたいな民族運動を煽り、一方で、少数派になってなにかと抑圧されたムスリムたちは「ムスリムにも権利を!」と対立し、その後あのインド独立の父といわれるマハトマ・ガンディーが「ヒンドゥー教徒もムスリムも同じインド国民だ」と間に入る怒涛の20世紀へと入っていく。

その後いろいろあって(詳しくはインド現代史とかそういう本を読んでくれ)第二次世界大戦後、インドは英国から独立する。

1947年 インド独立法が裁可される。

インドは東西パキスタンとインドに分かれた。(東パキスタンはのちにバングラデシュとなるので3分割ともいえる)

なんでインドが分かれてしまったのか。

英国が統治してからずっと宗教の対立を煽ってきた結果、ムスリムとヒンドゥー教徒は、お互いの憎しみやらいろいろにっちもさっちもいかなくなって、インドの少数派であるムスリムたちはインドから独立したほうがいい、インドはヒンドゥー教の国に、ムスリムたちはインドの東西に分かれて国をつくろうよ、という方向になったのだった。(雑な説明ですまない)

独立前はけっこうバタバタしてたんで、英国側の、インドについてほとんど知識がない人が国境線を決め(は?)「宗教で国を分けるから、違う宗教の人はどこかに移動してね」と何を言っているのかよくわからんほど雑なことになってしまったおかげで、該当する土地に住んでたムスリムとヒンドゥー教徒は住みなれた地を突然離れなければならなくなった。
でもこれは、インドの議会が決めたこと。そこまで両者がこじれてしまったということでもある。

独立後、インドは大混乱になって大暴動が起こったりして100万人くらいが死んだ。あとこの移動のせいで、1450万人が難民になった。

まあでも、なんとかインドは独立できた。国は分かれてしまったけれど。

ラクシュミー・バーイーの死から90年も経ってしまった。

でも、90年後に、インドは独立できたのだった。

というわけで、雑なまとめのまとめ。

ヒンドゥー教徒にとっては、インドという土地は13世紀からずーっと異教徒の脅威にさらされていたということになる。これはあまりにも長い。まあでも一時期はムスリムと仲良くしてた時期とかもあったり、南インドのほうは比較的ムスリムの影響は弱かったということもあったりはするけども、それでもやっぱりいろいろあった。

また、ムガル帝国時代の支配者層から一転、少数派へと立場が変わったムスリムたちにとっては、近現代はいろいろ辛い時代だっただろうと思う。ここではムスリムについてはほとんど語ってないのでアレだけど、英国統治時代には自分たちの、ムスリムだけの国を作ろうとインドを出ようとした集団もいたりした。(結局失敗するけどその思想はパキスタン建国にも影響してるぽい)

インドが独立したあと、初代大統領のネルーは、ラクシュミー・バーイーの銅像をインド中に建てることにした。

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※ラクシュミー・バーイーの銅像。王子を背負い馬に乗る姿が有名

ラクシュミー・バーイーの像はサリーを着ている。銅像がサリーなのは、インド独立を訴え戦場に散った美しき女神は、やはりサリーを着なければ。ということなのかな。動きにくそうだが。史実とされるラクシュミー・バーイーについては、また後日調べてまとめてみようとおもう。(サリーやドゥティーなど、縫い目のない1枚布を身にまとうのはヒンドゥー教徒の正装なのだ)

インドは、映画に登場した創作上のサントーシー女神に人気が出て、リアルな寺院まで作ってしまうという国だ。となると、ラクシュミー・バーイーは、独立の女神として神格化され、たぶんいろんな伝説も作られて、人々の心に生きているんじゃないかなあ、と思う。

もともとインドにはなかった「インド人であること」という意識を呼び覚ましたのがラクシュミー・バーイーだとしたら、20世紀にインド独立を目指した人たちの象徴になったのだろうな。と。

ラクシュミー・バーイーは映像化もされている。
映画もあるけど、2009年に大長編のTVドラマになってて、今年2019年にも映像化されている。どちらも『 झाँसी की रानी (Jhansi Ki Rani)』(ジャーンシー・キー・ラーニー。ジャーンシーの王妃)というタイトルだ。

2009年版のは、幼い頃の彼女がガネーシャ神にお祈りを捧げるところから物語が始まっている。(ガネーシャ神はマラーター王国の王様が信仰していておまつりもしてた。今の盛大なガネーシャ祭りの原点らしい。)

正義感溢れる彼女は、インド人を差別して酷いことをした英国人を、めったくそ鞭打ちにしてまわりの大人たちにめっちゃ怒られる。というようなパワフルエピソードも入っている。↓

あと、こっちは2019年版の『Jhansi Ki Rani』。セットとか10年前よりもゴージャスになってる。彼女は塔によじのぼって英国の旗を盗む。お転婆とかそういうレベルじゃないパワフルな少女の物語から伝説がはじまる↓

こういうの観るともうね、ラクシュミー・バーイーという存在がたぶんインドではもう史実を超えて伝説、いやいや神話になっちゃってるような気がする。颯爽と馬に乗り、英国人に物怖じせず立ち向かう三つ編み美少女。これは最強。かわいい。めっちゃかわいい。がんばれって応援したくなる。(おてんば三つ編み美少女が好きなのは世界共通か)

さて。

FGOのラクシュミー・バーイーが、ストーリー上で果たした役割とかは、また別の機会があれば語れればなあ、とも思う。(あれば)

でも、それ以上に、FGOという日本ではものすごくメジャーで世界展開もしてるスマホゲームに、ラクシュミー・バーイーが登場した、ということに「マジすげえな」と思う今日この頃なのだ。

ゲーム作った人たちはたぶんこういう背景は調べて知っててあえてゲームに登場させてるってことだろう。「インドのジャンヌ」というのはかなりのパワーワードだ。(個人的にはゲームのラクシュミーさんの神性があの神様なのは彼女の生前の物語を知ると悲しい気もするけどまあどちらも表裏一体なのでいいのか)

とはいえゲームユーザーが別に歴史云々を知る必要はなくて。
「へえ、ラクシュミー・バーイーってインドのジャンヌ・ダルクなのか。インドにもジャンヌがいたのか!かっこいいな!」と思ってくれたならとても嬉しいし、そこからもし、インドに興味を「少しでも」もってくれたらほんとすごくうれしい。

そして、伝説となり、ゲームの中で「英霊」とされる彼女の存在が、過去の歴史をふりかえることで、現在起こっている数々の問題がすべてどこかが繋がっているということへの気づきをだれかに与えてくれるのなら、もうそれだけですごいことだ。と思ったのだった。

たとえば。

今インドとパキスタンがやばい。

両国がもめているカシミール問題は、1846年に英国が作ったジャンムー・カシミール藩王国が発端になっている。その11年後にインド大反乱が起こった。インド大反乱を鎮圧した側にいたのは、ジャンムー・カシミール藩王国ができる前にあのへんを治めていた、英国に滅ぼされたシク王国のシク教徒たちだ。

カシミールはインド独立のとき、インドになるかパキスタンになるか選択を迫られたけど、住んでるのは大半がイスラム教徒で、支配者の王様がヒンドゥー教徒というねじれがあったから答えを保留にしてて。でも一応「インド側ね」ってことになったんだけど、いろいろあってパキスタンとインドでもめて戦争がおこってしまい、いっぱい人が死んだ。(第一次インドパキスタン戦争)

日本でもヒットした『バジュランギおじさんと、小さな迷子』。厳格なインドのヒンドゥー教徒のおじさんが、パキスタン出身の迷子の女の子をパキスタンに届けに行くっていう物語で、めちゃくちゃ美しいカシミールの自然が映像になっている。リアルだけども現代のファンタジーというか御伽噺というか、そういう素敵な作品。

映画ではカットされている最後のダンスシーン。ヒンドゥー教徒とムスリムが抱き合い、パーティーでお互いの幸せを願う。憎しみを超えてこんな未来がくるといいなと願わずにはいれない。
細かいことは置いといて、コレをみて幸せな気分になってほしい。↓


こんなふうに、歴史と世界はつながっている。
こじつけといわれればこじつけかもだけど。歴史をずっとみていくと、今ここにいる私たちも、やっぱり世界の一員なんだと感じる。

ラクシュミー・バーイーについて語りながら、さいごはバジュランギおじさんになってしまってすまない。おじさん大好きなんだ。

すまないので、今年1月に公開されたばかり映画『Manikarnika - The Queen Of Jhansi』の映像を紹介しておくね。ラクシュミー・バーイーが主人公の歴史ドラマだ。ちなみにタイトルの「マニカルニカ」はラクシュミー・バーイーの若いころの名前だ。
※最後に人が死ぬグロいシーンがあるので注意

もうね、マジかっこいい。強い女。

これが現代インドが描いたラクシュミー・バーイーの姿かと。

追記:なんとこの映画、日本でも2020年1月に、限定公開されるようだ。新宿ピカデリーで限定公開だって。気になる人は観にいってみよう。


まあそんなこんなで、今の世界はずっと過去から続いていて、今の私たちの営みもいずれは歴史として語られていくのだ。

誰の目線から見た歴史かはわからないけども。


ここまで長いまとめをよんでくれてありがとう。

あなたにインドの神様たちの幸がありますように。
ラクシュミー様のお恵みがありますように。

オーム・シャンティ・シャンティ・シャンティ。


※参考文献
・世界歴史体系 南アジア史2 中世・近代 2007年 山川出版社
・世界歴史体系 南アジア史4 近代・現代 2019年 山川出版社
・インド独立史 森本達雄著 1972年 中公新書
・近代インドの歴史 ビパン・チャンドラ著 2001年 山川出版社
・新版 南アジアを知る事典 2012年 平凡社 など。

※タイトル画像はインドにあるラクシュミー・バーイーの記念碑

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実業之日本社『いちばんわかりやすいインド神話』執筆。ヒンドゥー教図像学が専門。インドが大好きな、いにしえのオタク。FGOやバーフバリが沼。

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実業之日本社『いちばんわかりやすいインド神話』執筆。ヒンドゥー教図像学が専門。インドが大好きな、いにしえのオタク。FGOやバーフバリが沼。 http://www.tenjikukitan.com

コメント5件

世界史で習ったときは大雑把に覚えたのですが、改めて詳しく聞くと、勘違いしていたところもあり、大変学びになりました。

ただ、昔も今も変わらず思うのは「だいたい悪いの英国」です。
インドでもインドネシアに似た歴史があったのですね。インドネシアはほぼイスラムになってしまい、ヒンドゥーなのはバリくらいです。インドについて、より理解が深まりました。ありがとうございます🙏🏻
わかりやすく、読みやすく、興味深い記事をありがとうございました。
年表通りの情報だけでなく、何故そのようなことになったのかをサブエピソードで補完していただいたことで、読む側としてはとても理解しやすかったです。当時の人々の憤りや虚しさを想像し胸が痛くなったり、ラクシュミー・バーイー妃の勇敢さに貴さを見出すことが出来ました。投稿感謝致します。
タージ・マハールが気高い。
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