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量子論が問いかける生き方

宇宙の始まりはビッグバンと呼ばれる大爆発だったと言われています。大爆発の瞬間、どんな音がしていたか想像できますか。

答えは、「無音」です。

音というのは物質の振動が周囲に伝わっていく現象です。具体的には、空気中の窒素や酸素分子が振動することで空気中の分子の密度に濃淡が生まれ、音が伝わっていくのです。したがって、空気のない宇宙空間では音は伝わりません。

では、光はどうでしょうか。

20世紀は「物理の世紀」と呼ばれるように、身の回りの現象が次々と解明される時代でした。その中に「光」の正体を探る動きがありました。有名なのはアインシュタインですね。

一方で「光」はいまだに謎の多い存在でもあります。アインシュタインは光を小さな粒の集合体を捉えていました。しかし光を粒子と捉えると辻褄が合わないことが起こります。

たとえば二人が向き合って懐中電灯を照らしてみます。光が粒の集まりなら互いに照射された光はぶつかり合って落ちていくでしょう。ところが実際には光は互いを通り抜け、反対側まで届きますね。このことから光は「粒」ではなく「波」ではないかという仮説が唱えられました。

ところが光が「波」だとすると、こちらもまた辻褄が合わなくなります。

冒頭の宇宙で音が聞こえないのは、宇宙空間には空気のような波を運ぶ媒質が存在しないから。光が音と同じく波であれば、太陽の光が地球に届く理由が説明できなくなります。

ここからが物理の面白いところです。「粒か、波か」の論争に対し、なんと「光は、粒でもあり波でもある」という喧嘩両成敗のような仮説に到達するのです。物質の性質である粒子性と、状態の性質である波動性を併せ持つ、「量子」と名付けられる性質です。

『「量子論」を楽しむ本 ミクロの世界から宇宙まで最先端物理学が図解でわかる!』では、この不思議な量子について、仮説の始まりから現在に至る論争、そして量子論に基づいた哲学・人生観まで、縦横無尽に思考の旅に誘ってくれます。

「波」とは確率に従う性質のこと

光は粒であり、波である。不思議な二重性を持つ、量子という存在。量子論において波の動きは波動関数というものでモデル化されます。波動関数が意味するところは大雑把に言うとこういうことです。

光は観測された時は粒のように一点に定まる。けれど、観測されていない時は波のようにどこに定まるかは分からない。

これを波の確率解釈といいます。

つまり、光とは僕たちの見ている時には粒子の性質を示し、見ていない時には波のように振る舞い、まるで神様がサイコロを振るように確率に身を委ねる存在ということです。

驚くべき仮説ですよね。当然、アインシュタインたちはこの仮説に異を唱えました。そもそも物理とは決定論であり、サイコロ任せの存在という結論を許さない学問のはず。それでも数々の実験結果をみると、光の粒子と波の二重性は「僕たちが見ている時と見ていない時で姿を変える」と仮説立てると、全てがうまく説明できてしまうのです。

この世界がパラレルワールドと考えれば辻褄が合う

この確率解釈の反証については、「シュレーディンガーの猫」など有名な思考実験が様々ありますが、詳細はぜひとも書籍を読んでみて下さい。こうした論争の中で、ある仮説に辿り着いた学者がいます。

この世界は、パラレルワールドではないか。

量子論の解釈のひとつ、「多正解解釈」と呼ばれる学説です。さきほどの「僕たちの見ている時には粒子の性質を示し、見ていない時には波のように振る舞い、まるで神様がサイコロを振るように確率に身を委ねる存在」を思い出してください。

世界の自然の摂理はこの目に映っているときは粒子のように、ある定まったかたちを形成しています。しかし、この目に映らない時には神様のサイコロが振られ続け「こうではなかった世界」が次々に生成されているのではないでしょうか。

僕たちは絶えず行動の選択を履行し、その結果を受け入れて生きています。選択と結果の答え合わせを繰り返していくうちに、両者の因果関係を学習し、「結果から逆算した行動の選択」を思い描きます。

しかし量子論の解釈は異なります。たとえばAとBの選択肢に迷い、Aを選択するとします。そしてAの選択に応じた結果が後から分かる…と捉えるのではなく、Aの選択と結果には何の因果関係もなくただの確率論だというのです。さらに、Bを選択した世界も僕たちが認識しない場所に枝分かれして存在して、僕たちの生活に干渉することなく進行しているのです。

この仮説は検証しようがなく、したがって真偽を確かめようがありません。ただ、量子論と実際の現象の結びつきを考えると、非常に「素直」な解釈だと言われているのです。

確率論は自己責任の呪いを解く

もちろん、この多世界解釈は量子論の主流ではありません。面白いのは、普段なら一笑に付すSFのような話も、量子論のようなエスタブリッシュな文脈の中にあると不思議な説得力を持つということです。有数の頭脳を持つ物理学者たちが大真面目にパラレルワールドの存在を議論しているのも、なんだか微笑ましく思えます。

僕はパラレルワールドを信じているわけではありませんが、自然の摂理に因果関係はなく、全ては確率で決まると考えています。

要するに、因果関係など人間のバイアスに塗れた認識の中にしか存在せず、自然はもっとシンプルに「起こる時もあるし、起こらない時もある」という確率に支配されています。

成功も失敗も確率です。もっと言えば偶然です。どんなに努力しようとも怠惰になろうとも、結果は確率で支配されています。誰かのうまくいかない時期や予想外の苦難を見て「自己責任」などと片付けるのは自然の摂理への無理解だと思っています。

「努力すれば報われる」は対偶として「報われないのは努力が足りないから」が成立しがちで、自己責任の呪いの最たるものでしょう。努力が結果に及ぼす影響は、世間が言うほど大きくありません。努力と成功の関係の正体は、神様のサイコロで結果が成功になり、プロセスに努力が伴っている場合にエピソード記憶として強く刻まれた生存者バイアスです。

努力が馬鹿馬鹿しいと言っているのではありません。むしろ、僕は結果よりも努力が大切で、プロセスは手段ではなく目的だと捉えています。「結果の出ない努力が無駄」など、自然の摂理に反しています。結果は確率に過ぎないのだから、プロセスに充実を見出さなければ人生は豊かにならないと言いたいのです。

量子論は物理学者の議論を超え、学説の成立過程で為された思考実験や仮説構築に生き方のヒントが見え隠れします。考えてみれば、量子論の生みの親であるボーアも、確率解釈に抗ったシュレーディンガーも、そしてアインシュタインも、自然の正体を完全に解明できずに生涯を終えました。

けれど、彼らはメカニズムの解明への飽くなき探求の中で、人生を捧げるに足る充実を見出していました。これもまた「解明できるか否か」という結果は確率に従うものの、そのプロセス自体に目的を見出せることの証左ではないでしょうか。

量子論が問いかけているのは自然の摂理だけでなく、僕たちの生き方なのかも知れません。

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