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セカイ系とは?~定義、誕生と衰退~

この文章でやりたいこと

 「セカイ系」という作品ジャンルがあります。どっから語ったらいいのかわからない「セカイ系」について整理するのがこの文章の目的です。

 「セカイ系」の定義、誕生、衰退を順番に書いていきます。

導入~「世界」と『セカイ』の違い~

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「『セカイ』っていう言葉がある」                  「私は中学のころまで『セカイ』っていうのはケータイの電波が届く場所なんだなって漠然と思っていた」

 『君の名は』や『天気の子』で有名な新海誠のアニメ作品『ほしのこえ』は、ヒロイン美加子のこのようなモノローグから始まります。このセリフの中で語られる『セカイ』というものは、僕たちが考える「世界」という言葉とは違ったニュアンス、感触を持っています。

 美加子が語る『セカイ』という言葉は、「ケータイの電波が届く」範囲に収まる『セカイ』であり、ニュースで耳にする「世界情勢」や「世界陸上」の「世界」、地球儀に表れているような広大な「世界」のことではありません。『ほしのこえ』だけでなく、登場人物がこのような『セカイ』観、自分を取り巻く極めて限定された空間としての『セカイ』を語るサブカルチャー作品群を、一般に「セカイ系」と呼びます。

 『ほしのこえ』以外では『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』、有名どころでは『魔法少女まどか☆マギカ』『新世紀ヱヴァンゲリオン』といった作品が「セカイ系」とされており、「セカイ系」の作品はかなりの数に及びます。

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「セカイ系」の定義

 「セカイ系」は、サブカルチャー作品のジャンルを表す言葉として2002年にネット上のスラングとして誕生しました(諸説あり)。ネットスラングの性質上、「セカイ系」についての定義は人によって様々であり、全員が納得できるような確固とした定義はありません。

(だから何が「セカイ系」作品なのかも実は人によって様々です。先に「セカイ系」の例として挙げた作品も、万人が「セカイ系」だとみなしているわけではありません。)

 しかし僕は『社会は存在しない~セカイ系文化論~』(限界小説研究会・著)という本の中で定義されている「セカイ系」の定義が、一応「セカイ系」を語る人たちの中である程度共有されている、カッコつけて言えば最大公約数的な定義であると考えています。以下その定義になります。

P5「物語の主人公(ぼく)と、彼が思いを寄せるヒロイン(きみ)の二者関係を中心とした小さな日常性(きみとぼく)の問題と、『世界の危機』『この世の終わり』といった抽象的かつ非日常な大問題とが、一切の具体的(社会的)な文脈(中間項)を挟むことなく素朴に直結している作品群」

 この定義を紹介するだけでは「セカイ系」について抽象的なイメージしか伝わらないので、冒頭で紹介した新海誠の作品『ほしのこえ』を使ってこの定義を確認したいと思います。

「セカイ系」としての『ほしのこえ』

 『ほしのこえ』には恋愛関係で結ばれた2人(きみとぼく)以外は登場しないという特徴があります。それにもかかわらず、『ほしのこえ』のストーリーは銀河規模で展開される壮大なSF物語となっています。

 ヒロイン美加子が異星人「タルシアン」と戦う戦闘ロボのパイロットに選出され、そのまま「タルシアン」駆逐のための宇宙遠征に出発するところから『ほしのこえ』の物語は始まります。美加子の宇宙遠征が進むにつれて2人の距離は銀河系レベルでどんどんと離れていき、ケータイのメールだけが2人の間を繋ぐ唯一の手段となります。

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 メールを主軸として物語が進行してゆくことで、次第にメールでつながっている二人(きみとぼく)のコミュニケーションの間に、二人だけにしか共有できない一つの「セカイ」が立ち現れます。『ほしのこえ』はこのような話です。
 この作品が「セカイ系」と呼ばれる理由は、その奇妙な物語構造にあります。というのも、ケータイを通じて現れる2人の関係性(小さな日常性の問題)が全編を通して詳細に語られているのに対して、「タルシアン」とは何か、なぜ戦っているのか、美加子はなぜパイロットに選出されたのかといった情報(具体的な文脈)は全く語られることがないのです。

 『ほしのこえ』の物語の中には、美加子と主人公(きみとぼく)のコミュニケーション(小さな日常性)と、「タルシアン」討伐の為の宇宙遠征(抽象的かつ非日常な大問題)だけが存在しています。「なぜ世界の命運を握らされているのか」「なぜヒロインが責任を負うのか」その「なぜ」にあたる部分(具体的な文脈)が抜け落ちた、非自明で理不尽な「セカイ」を「セカイ系」は語っていくのです。 

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         ↑美加子が乗っているロボット ↑異星人「タルシアン」

(『ほしのこえ』を使って「セカイ系」を紹介するというのは、『半径1メートルの想像力~サブカル時代の子ども若者~』(山崎鎮親・著)のアイデアです。ただ山崎は『セカイ系とは何か』(前島賢・著)という本を参照しながら説明をしています。この文章ではそのくだりを省いてコンパクトにしました。)

「セカイ系」、誕生の背景

 ここまでの文章で、「セカイ系」の定義を確認しました。「セカイ系」では、きみとぼくの素朴な関係性が、『世界の危機』や『この世の終わり』といった大問題と繋がっているといういびつな物語構造を持っています。ここからは、「セカイ系」がなぜ誕生したのかを整理していきたいと思います。

「セカイ系」はなぜ生まれたのか?

 「セカイ系」が誕生した原因として、批評家の宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』という本の中で「大きな物語の凋落による意味の失効」を提示しています。

 宇野は「大きな物語の凋落による意味の失効」なんて難解でカッコつけたことを言っていますが、これを簡単に言えば「社会が生きる意味を与えてくれなくなった」ということになります。もっと詳しく説明します。
 現代の僕たちには実感できないことかもしれませんが、1990年頃までの日本では、全員がある程度「生きる意味」「人生の意味」を共有できていたそうです。

 例えば高度経済成長期下(1955~1973年)の日本では、「良い学校に入れば良い会社に入れる、良い会社に入れば良い人生が送れる」「頑張って働けば豊かな未来が待っている」といった「生きる意味」が共通して信じられていたそうです。『ALWAYS 三丁目の夕日』という作品は「生きる意味」が共有されていたその時代の感触が表れている作品としてよく参照されています。

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 そしてこれらの「生きる意味」というものは両親や周りの大人、社会や歴史といった、「セカイ系」でいうところの具体的な文脈(中間項)から個人に与えられていました。

 しかしそれらの共有可能な「生きる意味」というものは、現在僕たちにはありません。良い学校→良い会社→良い人生なんて生き方は今や全く保証されていませんし、身を粉にして働いたところで日本には低成長の未来しか待っていません。

 宇野は(というより「大きな物語」を語る論者たちは)この共有可能な「生きる意味」というものが、現代の僕たちが感じているように信じられなくなった、自明ではなくなったのが1990年代(もっと限定すれば1995年)だとしています。
 
 そして宇野は、「セカイ系」成立の原因をここに発見します。もはや個人に生きる意味を与えてくれる保証のない、それゆえに信用できなくなった大人、社会、歴史といった具体的な文脈(中間項)が物語の中で消えていき、「自己の内面」(小さな日常性)と「世界」(抽象的かつ非日常な問題)が直結するのが「セカイ系」だとするのです。

 宇野のこの考え方は大胆ではありますが、「セカイ系」と呼ばれる作品たちが世紀末からゼロ年代(2000年代)前半という特定の時代に流行していた理由としては、かなりの妥当性を持っています。

 きみとぼくの素朴な関係性が『世界の危機』や『この世の終わり』の大問題へと繋がっていく「セカイ系」のいびつな物語構造は、大人、社会、歴史といった具体的な文脈(中間項)が信用されなくなり、物語から消えていくことで成立したのです。

「セカイ系」、衰退の原因

 「セカイ系」の定義、「セカイ系」がなぜ誕生したのかをここまでで整理してきました。ここからは「セカイ系」がなぜ衰退したのかを考えます。

  結論から先に言えば、「セカイ系」が廃れた原因として、僕は「日常系」(「空気系」)の台頭が原因だと考えています。ここからはまず、「日常系」について説明したいと思います。

 「日常系」とは、「セカイ系」と同じように、2006年ごろからネットスラングとして盛んに用いられるようになった、サブカルチャー作品のジャンルを表す言葉です。

 「日常系」の定義について、先ほど紹介した宇野常寛は「自己目的化した『青春』を描く作品群」であるとまたもカッコつけていますが、ニコニコ大百科ではより簡単に「劇的なストーリー展開を極力排除した、登場人物達が送る日常を淡々と描写する」作品群であるとされています。

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 『涼宮ハルヒの憂鬱』『らき☆すた』『けいおん!』『ゆるゆり』『ご注文はうさぎですか?』『ゆるキャン△』といった「日常系」の一連の作品群では、「セカイ系」のような『世界の危機』や『この世の終わり』は描かれることはありません。「日常系」の物語には、かわいいキャラクターたちのかわいいコミュニケーションだけが存在するのです。

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  「日常系」が台頭してきた原因について、『東のエデン』『ひるね姫~知らないワタシの物語~』を制作した神山健司監督はシネマトゥデイのインタビュー内でこう述べています。

「(観客は)自分たちからあまり距離があるような作品を観たくないんじゃないのかなと思う」                         「アニメの中に出てくる人たちが自分たちの生活のフィールドにないものは、求められなくなってきた。」                    「自分もそうだが、今はあまり重い作品、深刻なストーリーを観たくないという感覚がある」

 僕が「セカイ系」の衰退の原因を「日常系」の台頭だとする根拠はまさにここにあります。神山監督のいう「自分たちからあまり距離があるような作品」「重い作品、深刻なストーリー」というものは、まさに「セカイ系」の作品に現れているものだからです。

 「セカイ系」の描く『世界の危機』『この世の終わり』といった抽象的かつ非日常な大問題は、ゼロ年代(2000年代)後半から次第に求められなくなりました。『世界の危機』『この世の終わり』といった抽象的な事柄ではなく、日常を取り巻く具体的なコミュニケーションの方を大切にする価値観が、「セカイ系」を衰退させていくことになったのです。

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おわりに

 以上、「セカイ系」という作品ジャンルについて、その定義、誕生、衰退を整理していきました。「セカイ系」衰退の原因となった「日常系」が、なぜ2000年代後半という時期に求められるようになったのかはまだ分かりません。今後の課題とします。

「セカイ系」について読んだ本

宇野常寛『ゼロ年代の想像力』早川書房

限界小説研究会編『社会は存在しない-セカイ系文化論-』南雲堂

山崎鎮親『半径1メートルの想像力-サブカル時代の子ども若者-』旬報社