数秘術の信憑性(3):ローマ字の歴史
●ローマ字の伝来
1549年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸しました。これ以降、キリスト教の信者が増えるに連れて、教義書や祈祷書の翻訳が盛んになっていきます。1590年には印刷機が持ち込まれ、ローマ字書き日本語の文献が刊行されます。[注]
翻訳されたのはキリシタン文献だけでなく、天草本『平家物語』 などの日本の読み物もありました。これらはポルトガル式のローマ字で書かれているため、私たちが知っている平均的なつづり方とはだいぶ違います。
『御作業の内抜書』 は Gosagveo no uchi Nvqigaqi で、『平家物語』 は Feiqe no Monogatari となっています。「へいけ(平家)」 が「フェイクェ」 と綴られていますが、これにはわけがあります。この点については後で触れます。
●複数のローマ字の出現
その後、1613年以降のキリシタン弾圧により、ローマ字本はしばらく世の中から姿を消すことになります。再登場するのは徳川吉宗が洋書解禁(1720年)する約100年後です。
そして幕末にかけてはオランダ式、明治に入るとドイツ式やフランス式のローマ字が次々と現れ、ヘボン式として知られる英語式ローマ字がこれに続きます。[*1-2]
ただ、書き手による若干の個人差はあるらしく、江戸時代の後期にオランダ人 J.F.van O.フィッセルが日本を紹介するために書いた『日本風俗備考』 を見ると、チを tsi、ツを tsoe、ts などと表記しています。同書には「日本語構文法」という日本語の例文が載っており、発音がローマ字で書かれているのですが、時代を感じさせて楽しいので、いくつか見てみましょう。[*3]
Watakfs anata no oetsi ni or no wo mita.
私(ワタクス)、あなたのうちにおるのを見た。
Tsijoto frans go de jute miro.
ちょっとフランス語で言うてみろ。
Mata Watakfs ga kfoer koto wa itsoe anata wa konomka ?
また私が来ることは、いつあなたは好むか。
Omay wa watakfs wo jats han mata kokoni mats de aroo.
お前(オマイ)は私を八ッ半またここに待つであろう。
Watakfs sajoo ni wa omohan.
私、左様には思はん。
Sikaraba omay tookf wa jukf na.
しからば、お前遠くは行くな。
「うち(家)」を oetsi、「来る」を kfoer などと綴るあたりは、だいぶ変わっています。
●いろいろなローマ字表記
ここで話は先ほどの国語改革運動につながっていくわけですが、今までのところでずいぶん多くのローマ字表記がでてきました。それぞれがどのくらい違っているか、『日本のローマ字』(日下部文夫著)を参考にして、特徴的なものをいくつか表にまとめてみました。[*1]
以上からわかったのは、「どの方式が正しいか」 ではなく、「いろいろな方式がある」 ということです。もともと異なった言語、異なった発音を表現しようというのですから、無理なところがでてくるのはやむを得ません。
それに、言語によっては発音とつづり方の間にいくつかの約束もあるでしょう。つまり、シは xi にも、si にも、shi にもなるのです。
こう見てくると、同一の名前でもローマ字表記の仕方は無数にあり得ることになります。そして、そのどれもがある意味で正しいつづり方なのです。そうなると、どの方式でローマ字変換しようとも、姓名判断の結果は同じくらい疑わしくなってしまいます。
しかし、本当の問題はもっと別のところにあったようです。それは・・・。
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