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孔子は命名を重視したか?

『第三世界の姓名』(松本脩作・大岩川嫩編) には、旧中国では子どもが生まれて3ヶ月後とか1年後に名前をつけることが多かった、と書いてあります。このとき家長は玩具をならべ、子どもがどれを取るかによって、性格や好みを推測して名前をつけたそうです。[*1、4]

このように名づけの時期を遅らせたのは、おそらく考えを充分に練るためでしょう。このことからすれば、昔の人は命名に慎重だったと想像されます。

●『史記』にみる孔子の名前

そうだとしても、孔子の時代に名づけがそれほど大事にされたとは納得がいきません。なぜなら、孔子の名は「丘」 ですが、これは生まれたときに頭がデコボコだったので、それをそのまま名前にしたというではありませんか。司馬遷の『史記』 には、そのことがちゃんと書いてあります。

こんな安易な名づけ方をするようでは、名づけが大事にされたなどとは、とても信じられません。それとも孔子は、自分の名前を生涯気に病み、「子どもの名づけはもっと慎重にすべきだ」 として、後世に訴えたとでもいうのでしょうか。

ところが、『史記』 をよーく読んでみると、どうもそういうことではないようです。孔子世家の第十七には次のようにあります。

「・・・ 尼丘で祈祷し、孔子を授かったのである。・・・ 生まれながらにして頭の中央が凹み、尼丘に似ていたので、丘と名づけたという。」 [*2]

『史記Ⅰ』(筑摩世界文学大系6、司馬遷、筑摩書房、小竹文夫・小竹武夫共訳)

孔子の両親が尼丘山の神に子どもを授かるように祈ったら、偶然にも、生まれた子(孔子) の頭がその山の形にそっくりだったので、尼丘山にちなんで「丘」 と名づけたというのです。

●周時代の命名の習慣

そこで、当時の命名について調べてみると、意外な事実が判明しました。周の時代には特別な命名の習慣があったのです。これは、からだの特徴や生まれたときのできごとにちなんで名づける「五つの原則」のことです。[*4-5] [注1]

つまり、「丘」 の名は当時の命名の習慣に従ったものだったのです。孔子自身も自分の子どもが生まれたとき、ちょうどお祝いに大きな鯉をもらったので、この子に「鯉」 と名づけました。

というわけで、孔子の名「丘」 が安易な名づけだと思ったのは、当時の習慣を知らない私の誤解でした。ですが、「必ずや名を正さんか」 を子どもの名づけのことだと思ったのは、占い師の誤解のようです。

●「名を正す」とは?

これは『論語』の子路篇にでてきますが、ここでいう「名」は「ことば」とか「名分」などと訳され、ものの名称、概念の意味だそうです。「名を正す」も、名称とそれが示す意味・実体とを合致させることをいい、人の名前とは何の関係もありません。

原文の意味はおよそ次のようなものです。孔子の十大弟子のひとり、子路が軽率な質問をするので、孔子がたしなめている場面です。子路という人は、武勇に優れ、政治的能力を評価されましたが、慎重さに欠けるきらいがあったようです。[*6-10]

●「必ずや名を正さんか」

子路がたずねた。「今、もし先生が〔大混乱に陥っている〕衛の国の政治をまかされたら、何から先になさいますか?」

孔子が「ぜひとも名を正したいものだな」と言うと、子路が反問した。「これですからね、先生がまわりくどいと言われるのは。このさしせまったときに、どうしてそんなものを正すのです?」

孔子が子路を叱って言った。「お話にならんね、おまえは。君子は自分の分らないことでは黙っているものだよ。いいかね、名が正しくなければ、つまり名と実が一致していなければ、ことばが通じ合わなくなるではないか。そうなれば社会は成り立たない。」

「ことばが通じ合うという前提があればこそ、道徳は確立され、法律も規制力を発揮できるのだ。道徳が混乱し、法律が有名無実になったら、悪人が罰をまぬがれ、善人が罰せられるようなことが起こるだろう。そんなことでは人民はとても安心して生活できない。」

「為政者が名と実を一致させれば、それによってことばが通じ合うようになる。ことばの意味が明確であれば、発言の責任を取らせることができる。為政者はことばに対していい加減であってはならないのだよ。」 [注2]

●孔子はことばで政治を正そうとした

孔子が正名(ことばを正す) を説いた目的は、それによって政治を正すことだったそうです。

当時、衛の国では霊公の死後、他国に亡命中の霊公の子の蒯聵かいかいと、王位を継いだ蒯聵の子のちょうとが王権の相続争いをしていました。

蒯聵は、「父の霊公に追放されたとはいえ、相続権は自分にある」と主張し、王位を奪い取ろうとします。一方の輒も、「なにをいまさら、こっちこそ亡き祖父の意思で正式に即位したのだ」ということで、これを阻止しようとしました。

この問題をめぐっては、国内の党派の抗争だけでなく、国際的な利害も絡んでいたため、深刻な事態に発展したそうです。

しかし、こんなことが起こるのも、孔子に言わせれば、名が正しくない(名と実が一致していない) からです。誰が相続者であるかという名称を正せば、紛争はおのずから解決する、孔子はそう考えたのでした。

●孔子は「怪・力・乱・神を語らず」

孔子は子どもの名づけの重要性を説いたのでもないし、まして名前が運勢を左右するといっているわけではないのです。

『論語』に「子、怪・力・乱・神を語らず」(孔子は怪談、武勇伝、乱倫・背徳、鬼神・霊験については語らなかった)とあるくらいなので、孔子が姓名判断のことを語るとはおかしいと思いましたが、やはりそういう事実はありませんでした。[注3]

比較的最近の姓名判断の本にも、孔子が知ったら怒り狂いそうな、デタラメを書いているものがあります。

『孔子は「文字によって現される人間の姓名は単なる符号ではなく、それぞれの文字が持つ命・霊が複雑に絡み合い、その人の運勢を操っている」 と説いている』などとありますが、これは相当にひどい。いくら人間愛(仁) を説いた孔子でも、忍耐には限度があるというものです。

==========<参考文献>==========
[*1] 『第三世界の姓名』(松本脩作・大岩川嫩編、明石書店)
[*2] 『史記Ⅰ』(筑摩世界文学大系6、司馬遷、筑摩書房、小竹文夫・小竹武夫共訳)
[*3] 『史記』孔子世家(司馬遷、岩波文庫、小川環樹、今鷹真、福島吉彦共訳)
[*4] 『中国姓氏考』(王泉根著、第一書房)
[*5] 『春秋左氏伝』(竹内照夫訳、平凡社)
[*6] 『論語』(新書漢文体系1、吉田賢抗著、明治書院)
[*7] 『論語』(全釈漢文体系Ⅰ、平岡武夫、集英社)
[*8] 『論語新釈』(講談社、宇野哲人)
[*9] 『論語(下)』(朝日選書、朝日新聞社、吉川幸次郎著)
[*10] 『論語』(中国の思想9、徳間書店、久米旺生訳)

==========<注記>==========
[注1] 周時代の命名の習慣
 『春秋左氏伝』の「桓公六年」には次のようにある。これを見ると、孔子の名「丘」は象、その子の名「鯉」は仮であったことがわかる。

「・・・ 公は名のことを申繻にたずねられた。答えて、「名づけ方に五つございます。信といい、義といい、象といい、仮といい、類と申します。(はじめから)その名を持って生まれるのが信、徳を考えてつけるのが義、(顔かたちに)似かよったものからつけるのが象、(誕生にちなんだ)物の名を取るのが仮、父(にかかわりのある物ごと)に取るのが類、でございます。」

『春秋左氏伝』(竹内照夫訳、平凡社)

[注2] 名を「文字」とする解釈
 名を「文字」とする解釈もある。この場合も「文字が正しくなければ、発布する政令の言葉が分りにくい。政令の言葉が分りにくければ・・・」となって、大意に変わりはない。

[注3] 占い本にある出典不明の引用文
 論語に出てくる孔子のことばは、正しくは「必ずや名を正さんか、名正しからざればすなわげんしたがわず、言順わざれば則ち事成らず」である。姓名判断書の著者が引用(?)した「名正しからざるは乱の本なり」とか、「名正しからざれば師克たず(軍隊は勝てない)」などというのは、どこにも見当たらない。

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