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察する優しさ

昨夜日付が変わった時、ネットの占いを見た。

97点!やった明日はどんないいことがあるのかな、と期待をした。

ところが目が覚めると、強い雨の音。
目覚ましより早く目が覚めた。

今日は朝から夏期講習なのに、自転車で来る子達大丈夫かな?と案ずる。
夏休み中、この地域の中学校でもコロナが広がっているらしいけど、夏期講習で人集まって大丈夫かな?と案ずる。
コロナと言えば、私達夫婦60歳なのに、なんでワクチンの予約取れないかな、よっぽど運悪いのかな?と案ずる。

目覚ましが鳴るまでしがみついてるベッドの中で、芋づる式に心配が広がって重くなる。

おーい、97点!


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目から耳から情報を取り入れ、言語化する時、勝手な判断が加わり気持ちが波立つ。


3年前の夏、体調不良から精神的に落ち込んだ時、這い上がるきっかけを求めて読み漁った本の中に、池田晶子の『14歳からの哲学』がある。すごく腑に落ちて、これこそ運命の出会い、と思ったものだった。


ー他人とは何かー
。。。自分が絶対的であるというのは、考えているのは自分だし、見ているのも自分である、自分でないものが考えたり見たりしているということはありえない、そういう意味で絶対的だということだ。この自分を「大きい方の自分」と呼ぶことにしよう。中学三年生の君は、「小さい方の自分」だ。

中略

他人の痛みはわからない、他人の心もわからないのは、それは小さい方の自分からしか見てないからだ。小さい自分は、それぞれ別々の人間だからね。でも、他人が痛がっているのを見て、痛そうだなと思う、悲しんでいるのを見て、一緒に悲しくなる、これだけでもずいぶん不思議なことじゃないだろうか。そのとき、人はどこかで、その人は自分だと知っているんだ。大きい自分で小さい他人同士はつながっているからだ。。。


ワンネスの考え方。

人は言葉を通すと、小さい方の自分になりがちなのだと思う。

言葉を使わないからこそ、大きい方の自分でいられる存在を、私は知っている。


***

先日、両親と姉夫婦と私達夫婦で、山の中のコテージで半日を過ごした。

姉夫婦には、子どものように可愛がっているしば犬がいる。
家族のようなペットがいる人達なら、今更の話だろうが、犬の察する能力ってすごい。

その6人の中で、私だけはトラウマがあり、犬が苦手だった。
しば犬モモは、年老いた父が咳をすれば寄って行き、犬好きな主人がちょっかいを出せばじゃれ合う。

けれど、私には足元にさえ来ない。その代わりに、じっと私を見つめる。

凄い子だなと思った。
これは、理屈を通り越して大きい方の自分で、感じているんだなと思う。


***

乳幼児も、言葉を使わない、大きい方の自分でいられる存在だと思う。

私には、4歳と8ヶ月の2人の孫がいる。
息子夫婦は、遠くてなかなか会えない私達のために、成長記録のように、動画を撮って送ってくれる。

その中で、4歳児がまだ2歳になったばかりの頃、単語しか喋れない頃の動画で、私のお気に入りがある。

動画のスタートと同時に、2歳児がいきなり「ばんちゃん(私のこと)」とカメラに向かって発する。手には自分の掌ほどもある大きな苺を持って、かじっている途中のようだった。
「よく分かったね」と息子の声だけ入る。ある日のイチゴを食べている様子をそっと撮って、私に送ろうとしたのを2歳児は察したのか。

おばあちゃんの私としては、たまらなく嬉しいけれど、そこに居ない人を2歳児が察するのだから、不思議だ。


そして、4歳になったばかりの頃のことだ。

その夜、授業を終え、一人の家で、昼間実家の父の様子がよくないと聞かされたことを思い返し、沈んでいた。

するとLINE電話の呼び出し音が鳴る。
テレビ電話は孫からだ。でも、もう11時半。本当に孫かな、と思いつつタブレットを開け、受信マークをタップすると、

「ばんちゃーん」

え、なんでこんな時間に起きてるの?
明日も幼稚園でしょ?
と、こちらが聞く間もなく

「ばんちゃんに絵本読むよ。」

と言って、私がプレゼントした絵本をすでに膝の上に持っている。

『なにもしたくないカエル』の話を、覚えたセリフで一通り「読み」終わると、絵本をそっと閉じて、やり切った感じで

「ばんちゃん、バイバーイ」

と、静止画になる。

なんだったのか。
私の沈んだ姿があの子には見えたのか。感じたのか。

さて一体どこで察知したのか。


***

長年子どもと接していて感じるのは、小学校4年生あたりから、自分と他者が違うことを認識する、ということ。

その時、自分は人より劣っているとか、浮いているとか、逆に、アイツは自分と違うとか、と感じ始めるのと同時に、顔つきが一段変わってくる。
記号としての言葉以外の、感情を持たせた言葉も認識するようになる成長の過程だと思う。

それと引き換えに、大きい方の自分の姿が薄れてしまうのだろうか。

ならば、大人の私は、わざわざ他人と小さい方の自分を区別するためのアイテムを一つでも多く手に入れるために、大きい方の自分をすっかり見失ってるのかもしれない。


***

ワンネスという哲学、頭で言葉で理解しようとすると、どんどん遠ざかって行く気がする。


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