八月の空港にて
「KIXのXはなに?」 搭乗時間の迫る夕のロビーに
八月某日、関西国際空港の国際線ターミナルは、家族連れの旅行客や新型コロナウイルスの水際対策の規制緩和に伴い再び増加する訪日外国人観光客で混雑を極めていた。夏季休暇を謳歌する多くの旅行客に混じり、僕は、職を新たに異国の地へと赴く友人とふたり、搭乗手続きまでのしばしの時間をともに過ごしていた。
数年ぶりに訪れた関西国際空港は、大規模な改修工事中により立ち入り可能なエリアに制限があって、営業中の飲食店や物販店舗も数えるほどだった。リニューアル前の関空は随分と簡素で殺風景な装いだったが、それは改修工事のせいばかりではなかったと思う。そう感じさせるのは、旅人であるのは友人であり、僕自身はというと彼を見送るのみという、決定的な立場の違いによるものだったのだろう。
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「空港と言えば、こんな短歌があって…」
やっとの思いで空席を見つけたスターバックスの片隅に今しばらくの時間をつぶしながら、おもむろに口を衝いたのは雪舟えまの代表歌だった。
ある短歌が優れていると感じるとき、作風や主題を問わず(また自身の好みは別として)、およそ95パーセントくらいの割合でその歌の〈良さ〉をことばで説明することができる、と思う。批評という文脈においては、技巧や韻律といった側面を含め、作者の意図や詩情の起点を探ることで解釈の突破口は開かれてゆく。
第一歌集の巻頭歌にして、言わずと知れた愛唱歌—— 先の雪舟えまの一首は、僕にとって、その良さを十分に言語化しきれない例外的な5パーセントの歌だ。
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軽やかな口語文体で一度耳にしたらすぐさま諳んじられるようなこの歌は、部分的にはよく分かる。
「目が覚めるだけでうれしい」という上の句の、あまりにもストレートなフレーズは、キャッチーかつ一首に陽性の解放感をもたらしている。第一歌集の巻頭歌として、魅力的であるとともにその方向性を定めている。
下の句における「空港」の特異性には、確かに強く惹かれるものがある。異国や見知らぬ土地への扉としての非日常感、けれどもそこは目的地でもなければ帰り着く場所でもなく、経由地にすぎない。限りなく機能的ゆえに無機的また無国籍的な空港には、どこか現実から切り離された浮遊感がある。
「空港が好き」という〈共感〉を〈驚異〉へと昇華しているのは、「人間がつくったものでは」という措辞だ。一字空けの後、一首の〈くびれ〉の位置に唐突に表れるこのフレーズは、まさに驚異的だ。文法的には《判断の前提》を表す「では」だが、ここでの文脈においては、単に自然物に対する人工物、というニュアンスではないように思う。そこには、創造主としての神や人間以外の存在があらかじめ想起されているような印象を受ける。その印象が、「空港」という場所の特異性を、さらにはある種の〈人間らしさ〉を感じさせてやまない。
「人間がつくったものでは」という第三句がこの歌の要というのは、衆目の一致するところだろう。それがもたらす効果についても自分なりの解釈をもつことはできる。けれども、この措辞がいったいどのようにして生まれたのか、そこは皆目見当がつかない。一首において、上句と下句はこれ以外ではありえないという絶妙なバランスの上に成り立っているが、その理由を上手く言語化できないでいる。
歌の魅力はわかるがその詩情の立ち上げ方の過程には想像が及ばない—— ごく稀にそのような歌に出逢あうことがある。技巧や修辞、あるいは実作者としての経験則を超えたところにはるかな詩の煌めきを垣間見る瞬間がある。短歌作品を読む上で、実作者の立場としてはそれは驚異/脅威であり、そして紛れもなく何にも増して大きな喜びに他ならない。そんなとき、作歌と読みの狭間において、優れた詩情とはおよそ不可逆的なものなのだと思う。
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雨にけぶれる関西国際空港を、友人の乗る便は定刻に飛び立った。灰色の空に機影が吸い込まれるのを見届けて、僕は帰路に就く。珍しく顔色に緊張を隠さずにいた友人との最後の会話が何だったのかを、結局、僕は覚えていない。次に会えるのは一年後か、あるいは二年後になるだろうか。友人の前途と旅の無事を祈りつつ、睡魔に身を委ねるようにしてやがて僕は眠りに落ちてゆく。そうして空港を遠ざかるにつれて、僕は現実の世界へと回帰してゆく。
神にも手出しできぬ領域だと思う空港といううつくしき場所
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