野球、このうつくしき世界に(Ⅲ)
白球に射貫かれし鳩ありしこと思いおり白き羽の無音を
世紀の瞬間、というのが何にも限らずにあって、その光景は長い年月を経てもなお鮮明に脳裏に浮かぶものだ。それが野球の場合なら、例えば名選手のメモリアルな記録達成の瞬間であったり、あるいは大一番の試合で勝利を決定づけるワンプレイだったりする。
分かりやすいところで言えば、2009年の第2回WBC決勝戦の延長10回表、2死2、3塁の場面でイチローが放ったセンター前タイムリー安打。さらに記憶に新しいところでは、今年の第5回WBC決勝戦の9回裏、大谷翔平が投じたスイーパーにマイク・トラウトのバットが空を切った瞬間、というように。
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なぜだが分からないけれど、ときおりふと思い出される一瞬の光景、そんな記憶の断片もある。
2001年3月24日、ダイヤモンドバックス対サンフランシスコ・ジャイアンツのオープン戦の7回。往年の大投手、ランディ・ジョンソンが投じた剛速球は、偶然グラウンドを低空飛行で横切った鳩に直撃し、不幸な鳩は命を落とした。2メートルを超える長身からサイドスロー気味にしなるように腕が振り下ろされた次の瞬間、ほとんど奇跡的な確率でボールの軌道に入った鳩の白い羽が、小さな爆発を起こしたかのように激しく舞った。
当時、たまたまリアルタイムでこの瞬間を目の当たりにしたのか、あるいは後にニュース映像などで見たのか、今となっては定かではない。けれども、この瞬間の光景は脳裏に強く刻まれている。球場に居合わせた観客たちにとって、当時まだ子どもだった僕を含めテレビ画面越しの目撃者にとって、何よりランディ・ジョンソン当人にとって、何とも後味の悪い不幸な出来事だったろうと、記憶のなかの映像を思い返してみる。
その一方で、この一瞬の出来事には、驚嘆の感覚がある。データや統計学で語られるようになった現代野球の世界において、確率的にはほとんど起こり得ないような出来事が、かつて実際にあった。あまりにショッキングな出来事、それゆえに強く記憶に刻まれている。ほんのわずかに世界の鼓動するタイミングがずれていれば、可哀想な鳩は命を落とすことはなく、ただ迷惑な鳩として球場を後にしたはずだ——その世界線を思う。
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神のいたずらのような、にわかには信じられないような出来事。その瞬間、世界に強烈な生の感覚が、再現不可にして不可逆的なリアリティが宿ったように思う。その感覚は、確率論的視座では表せず、また幾何学的なうつくしさとも一線を画している。
ランディ・ジョンソンの剛速球に当たって命を落とした鳩―— それは、バードストライクによって航空機に衝突する鳩や、ソウル五輪の聖火台の炎で焼死した鳩とも異なる、たった一羽の不幸な鳩だ。その不幸は、おそらくは他の競技ではまずありえない、野球という空間と時間間隔がもたらした負の奇跡だったのかもしれない。
ワインドアップで振りかぶる投手が少なくなり、メジャーリーグではピッチクロックの導入で投球間隔も短縮されるようになった。野球ならではの間や時間間隔というのも今や失われつつあるのかもしれない。それでも、マウンドの投手が投球動作に入りテイクバックのタイミングで、打者のバットがトップに入るその瞬間には、言い表しがたいうつくしさがある。
そんな一瞬の光景に、野球という世界のうつくしさを常に感じながら、ときおり胸の奥にはあの鳩のことがよぎるのだ。
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