見出し画像

人格と思想を切り分ける

おはようございます!

といつつ現在朝の5時になろうとしている時間なのですが、明日の朝起きてブログを書くよりかは今書いてしまったほうが楽だろうと思ってパソコンに向かっているwataruです。


この時間ともなると逆にやる気が出るというか、ランナーズハイみたいな状況に陥っていてこれはこれでありだなあと思っている今日この頃です。


ということで本日は「人格と思想を切り分ける」というテーマでお話をしていこうと思います。


というのも、昨日いや厳密には一昨日友達と飲んでいて言われたことがあって、それが”わたるって人によって対応を変えているように見えるんだけど気疲れしないの?”というような言葉だったんですね。


まあ正直僕自身は個人的にそんな上手く対応を変えることができているとは思っていなかったし、あからさまにこの人にはこういう対応をしようみたいな策を持っていなかったので、これを言われた時にあんまりピンときていなかったのですが、まあ自分のことは周りの人の方がよく見えているんだろうなとも思うので、周りの人から自分はそう見えているんだっていう新たな発見でもあるような指摘だったんですね。


まあ実際その場ではそこから軽い2ターンぐらいしかなくて、そんなに深い話までは繋がらなかったんですが、その言葉が自分の中に残っていて今日1日でもないですが、なんでそういう対応を取っているように見えているんだろうというようなことを考えていたら、ここに新たな発見があったんですね。


というのも、よくよく考えてみるとそもそもですが僕自身初めて会った人でも普通に会話を継続させるということが少し得意だったり、子供から学生から正社員から経営者までいろいろな職種や立場の人とも会話ができるなあとは薄々思っていて、ここが多分他者から見たときの”人によって対応を変えている”という部分が発揮されているところだと思っていて、そういういろいろな人と話ができている大きな理由として人格と思想を切り分けているからという部分が大きく関係しているんだろうなと思ったんですね。


ここをもう少し掘り下げていくと、基本的に僕は嫌いな人というのがいないタイプの人間で、それは大前提として僕自身もそうであるように人間誰しも聖人君主のような人だけではないし、嫉妬や恨みが出てくる場面も必ずあると思うし、いろいろな趣味趣向、思想が別れている生き物だと思っていて、ただ自分とは価値観や考え方、生き方が違うだけで、そこの少しの違いがあるだけでわざわざ人を嫌いになる理由にはならないということ、つまりその人の人間としての存在自体はそもそも肯定していて、思想や趣味趣向などが自分に合うものではなくても、それはそれで君のやり方で生きているんだねとなれているからなんだと思うんですね。


多分この考え方が僕の”人によって対応を変えている”という部分につながっていると思っていて、例えば人それぞれ違う思想や趣味趣向がある中自分と違うタイプの人に出会ったときに嫌悪感を抱いたり、そこで自分とは違うから少し苦手かもと自分の心を閉ざしてしまうタイプの人もいると思うんですが、そういう人は”私はこうだから”と、ある種排他的な言動をとったり、自分とは合わないから自分のスタイルを崩さないでこれを許容してくれる人と接すればいいというスタンスだったり、他だと表面上だけは取り繕って自分の思ってもないことに同意をしたり、その場の流れには合わせるんだが本心では全然違うことを思っていて、無言でいなくなるようなスタンスの人がいたり、まあ人それぞれいろいろなスタンスで人間関係を構築、整理したりしていると思うんですが、、、


僕の場合そもそもの考え方として僕と同じ人なんてそうそういないと思っているし、

人との違いこそ面白いと思ってしまうので、むしろ自分と感覚が違う人に出会った時に深いところまで話を聞きたくなるし、たかが思想や趣味趣向の違いだけで嫌悪することは一切なく、逆にその人について理解したいと思うので、その人それぞれに合ったテンションとか、喋ってくれそうなスタンスとか、ノリとか、相手にに合わせた対応を自然とやっているんだろうなと思いました。


ということで本日は「人格と思想を切り分ける」というテーマでお話をしてみました。

ではまた!



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?