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中国皇后記8 稀代の女政治家 興聖皇后尹氏(尹夫人)〜前編〜

 こんにちは、翎浅(れいせん)と申します。今回は、五胡十六国時代の後涼の賢后·尹氏についてです!かなり長いので、前編と後編に分けさせていただきます。今回は、尹氏の半生を紹介します。

はじめに

 興聖尹皇后(こうせいいんこうごう)は後涼の後主の母であり、興聖皇帝または武昭王と称される李暠(りこう)の妻です。生前の地位は、王后でのちに王太后となりました。様々な呼ばれ方があり、西涼を認めない国では尹夫人、西涼では尹太后、武昭王后また、夫が唐朝によって皇帝に追贈されたため、尹皇后とも呼ばれます。正式には追贈されていませんが、今回は夫の諡号を冠して興聖皇后として、五胡十六国時代の傑出した女政治家を紹介させていただきます。

生い立ち

 興聖尹皇后(363年~437年)の名は不明ですが、父は大姓(権勢のある家)として知られた尹文という人物でした。尹氏は幼い頃より頭が良く、才能があったようで、父母は「将来、尹家はこの娘に頼ることになるかもしれん」と自慢に思い、しっかりとした教育を受けさせました。知識が増えるにつれ、名高い才女である漢の班昭(はんしょう)や晋の左芬(さふん)のようになりたいと思うようになりました。尹氏は美しく、頭が良く、機知に富んだ女性で雄弁かつ志高く成長すると、生まれた隴西郡(ろうせいぐん)一帯で最も美しく、更に才女としても有名になり、尹氏は名声のある人物との結婚を望みました。そこで尹氏は、隴西郡の貴族である馬元正という人物に嫁ぎます。尹氏は夫から愛され、二人は仲の良い夫婦でした。しかし、馬元正は急病で亡くなってしまい、尹氏は寡婦となってしまいました。
 ちょうどこの頃、隴西郡の名家である李暠は妻である辛夫人を亡くしました。これは尹家の耳にすぐに届きました。2つの家は、どちらも名家であり、家柄が釣り合っていたので、尹氏の芳名を聞くと、すぐに求婚しました。結婚は瞬く間に成立し、尹氏は李暠に嫁ぐことになりました。

辛夫人と尹皇后

 しかし、夫婦は儒学の教育を受けてきましたから、夫や妻の喪に服していないにも関わらず、再婚するのは不徳であると少なくとも尹氏は考えました。その為、結婚はしたものの元夫の喪に服す3年間は、尹氏は夫と床を共にすることはなく、会話さえもしなかったといいます。李暠は妻の心をほぐそうと、支え合おうと諭したり、尹氏をからかったり、ふざけたりと試みましたが、氷のように尹氏は変わらなかったといいます。使用人達は、愚かな花嫁だと噂しました。しかし、尹氏は亡き辛夫人の遺児を懸命に養育したそうです。このように亡き夫に対しての礼儀を示した尹氏でしたが、一方の李暠も亡き妻の死を悲しんでいました。辛夫人についても少し触れておきます。
 辛夫人は辛納という人物の娘で貞順な性格で、婦徳がある女性でした。誰が辛夫人の子かは分かっていませんが、世子である長男を産んだのではと推測されます。辛夫人が亡くなると、李暠は悲しみ、十篇もの哀悼の文を書きました。

尹夫人と李暠

 この夫婦、夫婦仲が悪そうですが、3年の喪があけると関係は一変しました。尹氏は別人のように李暠を大事に世話し、挙案斉眉(きょあんさいび)のように礼儀を持って接しました。いきなり過ぎますが、もしかすると3年間の間に夫婦はお互いについて知り、敬い合うようになったのやもしれませんね。尹氏は夫の有能さと大志を知り、大局について見極めて地位を確立したければ、大義をできるだけ早く立てることを助言しました。李暠は啓発され、大いに助言を喜びました。ある日、尹氏に「私はそなたという西施や王昭君を手に入れた(傾国の美女のように美しい)だけではなく、諸葛亮(諸葛亮のように賢い)を手に入れたのだ」と冗談混じりで称賛したといいます。尹氏は辛夫人の子に対して、とても優しく、儒学について教え、正しく導きました。家族全員が彼女の美徳を褒め称えたそうです。夫婦仲は良く、次男で後の後主と長女·李敬愛(りけいあい)を出産しました。李暠は尹氏の男性顔負けの見識に感心し、確信が持てない事柄には、彼女の意見を求めるようになり、重要な決断をする時も尹氏と共にしました。このように大いに李暠を支え、彼を涼王への即位へ導いたのでした。

李尹王敦煌

 李暠は、仕えていた北涼から独立し、涼王を自称しました。これにより西涼が誕生しました。李暠が王朝を立てて、初めに行ったことは尹氏を王后として立て、共に政治を行うことでした。これは2人の8世孫とされる唐高宗と武則天や隋文帝と文献独孤皇后と同じように"二聖"と呼ばれます。当時の人々には、"李尹王敦煌"(李氏と尹氏が敦煌の王である)と呼ばれ、尊敬されていたといいます。2人は内政では水利の建設に重点を置き、農業生産の成長を進めました。尹夫人は、流民を呼び寄せるように進言して人口を増やし、2人が統治した18年間、農業の収穫は豊富で庶民は仕事を楽しんだと言われています。五胡十六国時代には珍しく、繁栄と安定が生まれ、独立政権の中心国となりました。
 李暠は大きな野望を抱いていましたが、領地はあっても人口がまだ多くなく、兵士は3万ほどで軍事力はあまりありませんでした。軍事物資が手に入らないだけではなく、北涼から脅迫を受けていましたが、北涼との戦を対処することが出来ました。李暠の力量があったこともありますが、もうひとつの理由として、尹夫人の"興儒重農"の政策が大いに成果を上げていました。儒学を繁栄させ、農業を重んじる政策で、乱世の時代の民心は常に変わるものであり、民心はこの政策によって西涼に傾きました。そのうち、北涼では謀反が起こり、西涼へ亡命する者もいました。その為、北涼はなかなか西涼を排除することが出来ませんでした。西涼は北涼との戦に勝利し、国が強くなったことで人々は喜んで働き、西涼はより発展していきました。夫が戦を熟す中、尹氏は内政に尽力していたといいます。しかし、志半ば…李暠は417年に尹氏の息子に天下統一を託して亡くなりました。尹氏が54歳の時のことでした。

まとめ

 今回は尹皇后の半生について紹介しました。尹氏は夫と共に素晴らしい治世を築き、その偉業は数えきれないほどです。すごいですよね(^_^)
 次回は尹氏の晩年について紹介します。激動の人生を良ければ、最後まで見て下さい。以上で終わりとさせていただきます。

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