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中国皇后記6 世を照らせし皇后·明徳皇后強氏

 こんにちは、翎浅(れいせん)と申します。今回は五胡十六国時代·前秦(ぜんしん)の皇后を紹介いたします。それではいきましょう。


明徳強皇后とは?

 前秦で有名な皇帝といえば、やはり符堅(ふけん)でしょうか?明徳強皇后は、後秦の初代皇帝·景明帝こと苻健(ふけん)の正妃です。"明徳皇后"と聞くと、やはり後漢の明帝の明徳馬皇后を思い出しますね。強氏はどのような人生を歩んだのでしょうか。

 強氏は氐族(ていぞく、チベット系の民族)出身の女性で、弟に強平がいました。強氏は即位前の苻健に嫁ぎました。苻健との間に長子の苻萇(ふちょう)、2代皇帝となる3男の苻生(ふせい)、8男の苻柳(ふりゅう)が産まれました。苻健には12人の男子がおり、末子が8男なのを見ると、夫を良く支えて長く大切にされていた事が分かります。翎浅の想像ですが…。
 夫が皇帝に即位すると、強氏は皇后に立てられ、苻萇は太子となりました。しかし、不幸にも苻萇が早世してしまいます。献哀太子と追贈されています。苻健は新たな太子を考えなければなりませんでした。強氏は嫡子の中で末子である苻柳を太子にと望みますが、苻健は占いの本である讖文(しんぶん、予言書)に"三羊五眼"の一節があるとして、隻眼(せきがん)で3男だった苻生を太子に立てました(五眼なので羊の目が1つ足りないことから)。しかし、これは最良とは言えませんでした。苻生は勇敢ですが、暴虐で残酷な性格だった為です。その後、強氏の不安は的中することとなります。

明徳強皇后の晩年

 苻健は即位5年にして39歳の若さで崩御します。苻生が跡を継ぎ、強氏は尊ばれて皇太后となりました。苻生は残虐でみだらな振る舞いをし、皇帝としての責務を果たしませんでした。夫との別れや息子や国の将来を案じ、気苦労の多い強氏ですが、更に不幸が襲いました。弟の強平が苻生の失政を厳しく諌めるのですが、これに酷く怒った苻生は叔父である彼でさえも、容赦なく殺害したのです。強氏は憂憤の為に亡くなりました。苻健の年齢を考えると、強氏もまだ40代だったのでしょう。彼の猜疑心は強く、その後殺される人物は、正室の梁皇后を初め、五百人に及びました。強氏は苻生により、明徳と諡号を贈られました。"明"は世界を照らし、誹謗中傷をしなかった、"徳"は諌め、争いを恐れなかった、民を穏やかに案じたという意味があります。

まとめ

 苻健を支え、皇后となった強氏。彼女は度重なる不幸に心を病んでしまいました。徳で世を照らした強氏、馬皇后とはまた違う人生でしたね。私の中では賢后の1人です笑今回も以上とさせていただきます。

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