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孤城閉〜仁宗、その愛と大義〜 北宋時代のドラマの後宮ー仁宗編

 こんにちは、翎浅(れいせん)と申します。BSで放送予定の北宋時代のドラマ「孤城閉~仁宗、その愛と大義~」。前回は真宗の後宮について紹介しましたが、今回は仁宗の後宮について紹介します。史実に基づくドラマのため、ネタバレが含まれています。

 仁宗(1010年~1063年)は、北宋の四代皇帝で「孤城閉~仁宗、その愛と大義~」の主人公です。仁宗は北宋の皇帝の中で最も有名で、慶歴の治(けいれきのち)と呼ばれる時代をつくりました。仁宗の治世は41年、父・真宗が早くに亡くなったこともあり、その治世はとても長いです。初めは二人の皇后について紹介します。


正室

1 郭皇后(かくこうごう、1012年~1035年)
 仁宗の最初の皇后です。郭允恭(かくいんきょう)の娘に生まれました。仁宗の後宮に入り、間もなく皇后に立てられました。仁宗は寵愛する張美人を皇后に立てたがりましたが、劉皇太后は反対しました。その為、仁宗の寵愛を受けられない日々を過ごしていました。しかし、郭皇后には皇太后の後ろ盾があったため、気位が高く気まぐれな性格をしていたそうです。皇太后の権勢を利用し、妃嬪や宮女が仁宗の寵愛を受けられないようにしました。仁宗は激怒しましたが、皇太后のこともあってか口出しもしませんでした。
 寵愛していた張美人は間もなく亡くなりましたが、仁宗は新たに尚美人と楊美人を寵愛し、郭氏は激しく嫉妬しました。ある日、尚美人は皇后を遮って話すという無礼を働きました。怒った郭皇后が尚美人の頬を叩こうとしたところ、止めに入った仁宗の顔を誤って叩いてしまい、また皇后の爪が仁宗の頬を傷つけました。仁宗はこれに激怒し、郭皇后を廃位しました。郭皇后は出家させられ、郭浄妃(かくじょうひ)と呼ばれました。一方、皇后を侮辱した罪で尚美人も廃されて出家、楊美人も別宅に置かれることとなりました。郭浄妃に代わり、曹氏が皇后となりました。
 しかし、仁宗は曹皇后と夫婦仲が悪く、郭氏を恋しく思うようになりました。(仁宗はかなり矛盾した性格のようです)文を使わすと、郭浄妃の返事があまりにも痛々しいため、仁宗は憐れんで呼び戻そうとしました。妃は「もし、再びお召しを賜るのなら、百官の立つなかで冊立する場であって下さい」と言いました。しかし、欠陥のない曹皇后を廃するわけにもいかず、その願いは叶いませんでした。やがて、郭妃が軽い病を患ったので、仁宗は典医を遣わしたが、数日後に郭浄妃は急死しました。享年23。毒殺されたともいわれています。仁宗はその死を非常に嘆き、皇后に復せしめましたが、何を思ってか諡を賜ることと宗廟に祀ることは停じました。

2 慈聖光献皇后曹氏(じせいこうけんこうごう、1016年~1079年)
 仁宗の二番目の皇后です。元勲・曹彬(そうびん)の五男の娘として生まれました。郭皇后が廃されると、代わりに皇后に立てられました。曹皇后は慈悲深く徳の高い女性でしたが、容姿などの理由で仁宗は気に入らず、いつもよそよそしく無関心に接し、張貴妃などを寵愛したといいます。しかし、賢く寛容だった曹皇后は、嫉妬せず郭皇后とは違って争いを起こしませんでした。また、皇后ながら畑を作って種々の穀物を育て、また養蚕を好み、布帛を作ることに巧みでした。ある時、張貴妃は皇后の馬車を借りて旅に出たいと言いました。ありえない無礼ですが、曹皇后はあえてそれを許しました。仁宗は「国の儀式や規則には順序がある」と、曹皇后を厳しく説きました。これにより張貴妃はあきらめるしかありませんでした。これは張貴妃を愛するあまり仁宗が行き過ぎたことをしないようにした、賢い行動として伝わっています。
 他にも曹皇后の賢い行動が伝わっており、宮中の衛兵が乱を起こし、寝殿へ侵入したことがありました。仁宗の側にいた曹皇后は宦官や宮人たちを集めて宮門を守らせ、1人1人の髪を一房ずつ切り落としました。 反乱軍が鎮圧された後、その髪を目印に褒美として与えることを宣言しました。曹皇后の働きで瞬く間に反乱を鎮圧しました。しかし、この功はなぜか張貴妃の功績になってしまいました。曹皇后が可哀そうです。
 仁宗の崩御後も英宗と神宗の治世を支え、後宮も朝廷も良く治まっていたといいます。享年は63。慈聖光献と追贈され、仁宗と合葬されました。「孤城閉」では、曹丹姝(そうたんしゅ)という名で登場します。仁宗が主人公ですが、曹皇后の心情も丁寧にえがかれています。

側室

3 温成皇后張氏(おんせいこうごう、1024年~1054年)
 仁宗の追贈皇后です。張堯封(ちょうぎょうふう)と妻の曹氏の間の娘に生まれました。8歳で父は死去し、伯父には扶養を拒否されました。母は張氏を売り、再婚しました。張氏は公主の許で歌舞女となって成長しました。そんな多難な人生を送ってきた張氏でしたが、その後、転機が訪れます。宮中に入って仁宗に見初められ、清河郡君に封ぜられました。寵愛が深く、さらに才人、次いで修媛に上りました。女子を3人産んだが、みな夭折しました。張氏は絶世の美女で気立てが良く、多芸多才にして明晰かつ弁の立つ女性で、魅力的な性格の持ち主でした。そのため、天子の心をとらえて離しません。仁宗は曹皇后に代わって、張氏を皇后にしようとも考えました。
 宮中の衛兵が乱を起こしたとき、曹皇后の働きで鎮圧されました。しかし仁宗は曹皇后に対して疑いを抱き、その功は張氏に帰して、張氏は貴妃に立てられました。生前に貴妃に立ったのは、北宋の妃嬪で張氏ただ1人だそうです。しかし、張貴妃は31歳でこの世を去り、仁宗は悲しみに打ちひしがれました。曹皇后が生きているにも関わらず、温成皇后と追贈されました。これは前例のないことで、いかに仁宗が張氏を愛していたかが分かります。温成皇后陵に埋葬され、親族達も厚遇を受けました。

4 皇后張氏(?~1028年)
 温成皇后とは別人。郭氏と共に入内し、甚だ寵愛を受けました。仁宗は彼女を皇后としたかったのですが、劉皇太后により実現しませんでした。間もなく病没し、悼んだ皇帝により皇后に追贈されましたが、温成皇后のように諡を賜ることと宗廟に祀ることはありませんでした。

5 昭節貴妃苗氏(しょうせつきひ、1023年~1091年)
 仁宗とは乳兄弟の関係でした。突出した美貌と品徳のある女性で寵愛を受けて、1男1女を生みました。仁寿郡君に授され、才人となり、昭容、賢妃に進み、徳妃に至りました。幼き頃の英宗を養育し、英宗が即位すると、その功から貴妃に進みました。昭節と追贈されました。

6 昭淑貴妃周氏(しょうしゅくきひ、1022年~1114年)
 はじめ、温成皇后の侍女でした。2人は母子の契りを交わすほどに信頼し合っていました。仁宗に召され、安定郡君となり、2人の皇女を産みました。その後才人となり、美人、婕妤、婉容に昇進しました。仁宗が没すると、一日一食菜食し、1室に引きこもって仏書を誦するという生活を40年余り続けました。死後、昭淑貴妃を追贈されています。

7 昭懿貴妃張氏(しょういきひ、?~1104年)
 温成皇后とは別人。延安郡君となり、母を亡くした公主を養育しました。養女の結婚の頃、美人の位になりました。仁宗亡き後も長く生き続け、昭懿貴妃を追贈されました。

8 貴妃董氏(?~1062年)
 はじめ、仁宗の侍女でした。仁宗は跡継ぎである息子をすべて亡くし、また寵妃の温成皇后が亡くなったことで、過度のストレスのため自殺を図りました。その場にいた董氏は必死に剣を奪い取って、自身の指を切断されてまでも止めました。このことに仁宗は恩を感じ、寵愛して聞喜県君(ぶんきぐんくん)に封じました。董氏は3人の皇女を産み、昇進を仁宗は提案しましたが、董氏は父の昇進を願い出ました。その後も寵愛され、父は昇進し、自身も貴人の位となりました。しかし、董氏は病となり死去しました。父の昇進を遺言とし、その孝の精神に仁宗は大いに感動しました。遺言の通りにし、董氏を淑妃に封じました。仁宗は董氏を悼み、更に厚遇しようとしたが臣下に諫められました。仁宗の死後、貴妃を追贈されました。

9 徳妃楊氏(1019年~1073年)
 名を宗妙(そうみょう)といいました。容貌が美しく、繊細な性格と音楽の才能で人に好かれ、顔が広い女性でした。初め、原武郡君に封ぜられ、美人に進みました。仁宗が楊氏の父を昇進させようとしましたが、楊氏は「官吏は努力することで昇進するはずです。陛下の御恩を賜れば逆恨みされるのではと危惧します」と言いました。これは仁宗を喜ばせ、楊美人の5人の親族に官職が与えられます。楊美人は尚美人と共に仁宗の寵愛を受け、郭皇后としばしば諍いを起こしました。それが原因で郭皇后が廃されると、甚だ寵愛されたが、楊太后に諫められ、楊氏は別邸に置かれることになりました。しかし、仁宗は楊氏を恋しく思い、呼び戻さして美人に立てました。1人の公主を産み、婕妤に昇進しました。死後、徳妃に追贈されました。

10 徳妃兪氏(?~1064年)
 容姿が美しい女性で、仁宗の若い頃に側室となりました。1男1女を産み、才人、美人と昇進しました。死後に徳妃に追贈されました。

11 尚充義(?~1050年)
 妖艶な美貌の持ち主でした。楊美人と共に寵愛を受け、郭皇后と対立しました。ある日、尚氏が郭皇后の言葉を遮って話すという無礼を働きます。郭皇后は誤って仁宗を傷つけてしまい、怒りを買って廃后となってしまいました。尚美人は得意のあまり、しばしば朝政に干渉し、楊美人と仁宗を誘って酒色に溺れました。楊太后に諫められ、仁宗は尚美人とも楊美人とも疎遠になりました。尚氏は出家させられますが、仁宗に呼び戻され、美人に立てられました。間もなく死去し、充儀に追贈されました。

12 朱充儀(?~1095年)
 沛国郡君(はいこくぐんこく)に封じられ、皇子を生みました。死後、充儀と追贈されました。
 

まとめ

 主に史書で詳しく書かれている妃嬪は以上です。仁宗は廃したはずの郭皇后と2人の妃嬪を呼び戻したり、側室の温成皇后を最も愛していました。曹皇后が愛されることがなかったのは悲しいです。寵妃の数が多すぎて、ある意味典型的な皇帝とも言えると思いました。翎浅は正妻を大事にする皇帝が好きですが、そのような皇帝は少ないですね。「孤城閉」では仁宗と曹皇后の夫婦関係が描かれますが、どのように描かれるのか楽しみです!少しでも楽しんでいただけたら幸いに思います。以上で終わりとさせていただきます。

※追記
孤城閉を見て、仁宗の印象はだいぶ変わりましたね(^^) 若い頃は嫡母の劉皇太后への反発が大いにあったのやも。



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