[11]「無知の知」を自分が考えたかのように言うだけ。
見えるものが全てじゃない。
全て知っていないと喋れないわけではないが、
全て知っているかのように話すのは幼稚だ。
同じ「話す」でも、「自分は全てを知らない」という意識の有無の差は大分大きい。
人は基本的に自分が正しいことをやっている、自分の意見が多数派の意見だ、という気持ちがあって行動している。
かく言う私も「私は正しいことを言っている」思ってこの文章を書いている。
ただ「私の意見が全てでは無い」ことも知っている。
「正しい」と「それが全て」は同義ではない。
だから「自分は全てを知らない」という意識があれば、言葉にもきっと表れる。
全ての人がSNSをやっているわけでもなければ、
SNSをやっている全ての人が発信をしているわけでもなければ、
発信されている内容が世の中の全てであるわけでもない。
自分が見たり聞いたりしている事は
全体のほんの一部だということは真理だ。
「多様性を受け入れる」を言い換えると「自分が知らない事を受け入れる」だと思う。
私は時折、自分が物事の一部分しか知らないことを忘れる事がある。
まるで自分が絶対に正しいいという感じで人に接してしまうこともある。
感情的だったり、あまり物を考えられない時にそういう態度を取ってしまう。
でもアイドルを好きになってから、「私って彼らのほんの一部しか知らないんだな」と思うことが増え、「世の中そういうことばっかりだな」と気づいた。
私が最初に好きになったアイドルは嵐。
きっかけは「嵐結成15周年特別映像」みたいなもので、ハワイでライブをやる彼らに密着したドキュメンタリーみたいな映像だった。
ライブ本番中にケガをしたが、最後までパフォーマンスを続けたニノ。
インタビューで怪我について聞かれた時、彼は
「ライブの時間にお金を払ってもらっているのに、自分の都合でクオリティを下げることは許されない」と答えた。
当時の私は「アイドルとかジャニーズとか安っぽくて好きじゃない」、
テレビでアイドルが歌ってたら興味ないのでチャンネル変える、
くらいのアイドル好きじゃない人間だったので、
ニノの言葉に「アイドルってこんなこと考えるのか」(今考えると失礼極まりない)とデカめの衝撃を受けた。
それがきっかけで、「私が見ているものが全てじゃない」と思うようになった。
おかげさまで、今の私は大好きなアイドルに出会えたし、彼らを媒介して幸せを享受している。
そうやってアイドルを推す時間が長くなればなるほど、
彼らのことをもっと知りたいと思えば思うほど、
彼らが見せてくれるのはカメラの前で仕事をしている彼らでしかないと思う機会も増えていくのだ。
きっと熱を持って対象を観察すれば、対象が何であれ「私は全てを知ることは出来ない」ことに気づくフェーズが来るのだと思う。
例えば、学ぶことも同じだ。
特定の分野に興味が湧いてそれ関連の勉強をしても、分からないことがどんどん増えてくる。
語学を勉強すれば、確かに単語や文法の知識はつくけど、
どうしてこんな言い回しをするのだろう、
日本語とここが違うのはなぜだろう、ということに気づく。
その疑問を解決するには、その国の歴史や文化や価値観を理解することに繋がっていく。
そうやって知識が増えると同時に、分からないものも増えていく。
これは対象をきちんと理解しようとするがゆえに起こる現象だと思う。
対象を知りたいという目的があるなら、
その過程で「自分は一部分しか知らなかったのだ」「全てを知ることは出来ないのだ」ということに気づく。
だから、自分が全てを知らなくて当たり前というスタンスが生まれ、自分が理解できない事象が現れても
「そういうこともあるか」と受容できることに繋がると思う。
「自分が見えるものが全てじゃない」と思えない人は、
本気で何かを知ろうとしたことがないんじゃないかしら。
知ろうと情報を集めていても、
その情報が嘘でも本当でもどうでもよくて、
真偽を確かめる作業を経ずに、
自分の心を満たす道具として使ってしまうのではないかと思う。
もちろん全ての物事においで真実のみ追い求めるべきだなんて全く思わない。
興味あるとか大事だと思うものぐらいでいいとは思う。
ただ自分のバイアスや情報の真偽を吟味しないで自分の意見として主張するのは、
浅はかだと思うのです。
情報に基づいて自分の意見を発信する時は、自分の意見だと責任もって人前で言えるものに整えてから言うべきだ。
なかったことにするとか、「記憶にございません」とか、
「自分あんまりもの考えないで発言するタイプの人間です」って自己紹介してるようなものだよなと思うのです。
人にあんまり見られたくないけどどうしても意見を言いたいなら、人の目に触れないように工夫すべきだろうと思うのです。
みなさん、私を見てください。
私こそ、自分の意見を知って欲しいけど自分の浅はかさが他人に露呈することを恐れるあまり多くの人の目に触れないように工夫している人間の1人です。
私は自分のnoteのリンクをインスタのリア垢に載せてはいるものの、
私の記事が更新されたことを知るのは極僅かの人間しかいない。(noteで私の記事を見つけてくれた人を除いて)
ゆえにきっと、私の文章を読んだことがあるリア友は本当に少ない。
代わりに身元を晒して(リア友のみ)「私が書いています」と明言している。
その点で、私は自分が書いた文章に責任を持って発信していると言えると思う。
「情報は吟味してから発信せい」とか説教みたいなこと垂れながらも、私だって自分が全ての情報を吟味出来ている自信はない。
自信はないまま発信しているが、「この意見を言っているのは私だ」と身元を晒すことで、吟味の甘さも含めて、自分が浅はかであることも含めて、他人に晒す覚悟もして発信しているつもりだ。
そして私のズルい所は、私の浅はかな一面を見ても嫌いにならないでくれるだろうと感じる人にだけ、記事の更新をお知らせしているのだ。
だから、今私のnoteを読んでくれているあなた、
私がどんなにアホ発言しても嫌わないでいただけませんか。お願いします。(土下座)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?