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呼吸する傷

痛みの見えない傷を描く

西山珠生

ステートメントに代えて

数日前、科博に出かけた。
常設展だけのチケットをポケットに、記憶をなぞりながら展示の間をあるいた。
相変わらずマングローブの根元にハゼがいる。ラフレシアが毒々しい。見慣れた植生の模型にきらきらしたトンボが止まっている。
時間を封じ込めたモノたちは20年前と同じように生き生きとしている。20年の間にすこし色あせてほこりをかぶって古びてみえる。

スケッチ、剥製、レプリカ、プラスティネーション。世界の流動をせき止めて、固めてガラスに押し込んでしまおうとする奮闘を私はいとおしく思う。そんな努力もむなしく、モノたちの表面は曇り、劣化し、風化していく。鳥肌のたつような興奮を覚える。

私の描く傷には、痛みがないようだと指摘されたことがある。
ぺらりとめくられた皮膚のしたに、肉は見えない。体液は流れない。〈わたし〉を形作る無数の虫たちがかわりにのぞいている。穴のなかは浅く、果てしない。束の間、時間は止まる。いや。だって虫たちが歩いている。

気づかぬうちに傷は穿たれる。ふとしたとき傷口に気づいて、戦慄する。生傷には虫が群がっている。傷穴はいつだって誘惑的だ。ずっと眺めていると、傷穴のへりはきっと崩れて砂になっていく。
私の眼の中には、20年前からずっと蟻が歩いている。


生傷

にたろ

傷は生えてくるものだ

傷は生えてくるものだ。種子が地中に根を張り、空中へと芽吹くように、傷もまた打撃を受けた一点から展開する。ひびが走り、成長する、枝葉が伸びる。水やりを忘れないように気をつけなくちゃ。

傷は生きている。中身が詰まっていて、今にも動きそう。僕はこれまで、何度も生きている傷を捕まえようとしてきたが、その度に失敗してきた。傷を固定しようなど、思い上がりにも程がある。せいぜいその残像を捉えることぐらいしか、今の僕にはできない。

ていうか、生きた傷をそのまま捕まえてしまった人などいるのだろうか?

ときどき西山珠生は、くねくね動く傷を前に絵筆を一閃、切り出した断面をこっそり見せてくれる。それは、僕の知っている傷ではない。隙間だらけで、まだらな傷。切り口からは、別の命が息吹いている。彼女の手を通して、傷は変形してしまったらしい。唖然とするほかない。

なまものの傷は、当然ながら劣化する。ほころびていく。動きは次第に硬くなり、中身が空っぽになって、手先から崩れ落ちてゆく。分解され地中に還った傷の欠片は、再び別の傷として蘇るだろう。

その足元に、うようよ蠢く蟻がいる。


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