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曖昧「かもしれない」

「はじめまして」

なんて言葉で初の投稿は始めるのだろうか。私は「そりゃあはじめましてだろ、お前のこと誰が知ってるんだよ」と考えてしまうほど捻くれ者なので、自己紹介云々は省こうと思う。今後、書き続けていく「予定」の投稿で私のことを知ってもらえればと思う。

今日は曇天の下、友達とランチを食べながら、オシャレなレストランには似合わない、変に深い話をしてしまった。その変な話と、私の思ったことを共有したい。

彼女が言ったことを要約すれば、「あるテーゼがあって、そのアンチテーゼが出てくる。その話の終着点として中立が一番美しいと言うがそれは絶対ではないと思う。堂々巡りのような不毛な行ったり来たりにも意味があるのではないか。」といった感じだ。

たしかにアリストテレスの時代から謳われる「中立が美しい」という考え方。私も一部賛同する。しかし、彼女が言ったことも分かる気がした。

そもそもこの世に「絶対的に」正しいことなど存在しない。ある事象には必ずその逆がある。「どちらが正しいのか」という議論において、「中立が一番だ」というのは余りにも短絡的で、機械的な思考ではないか。どちらが正しいか「分からない」という、その「分からない」という曖昧さの中に深い思考の余地があるのではないかと思う。その曖昧性にこそ不毛に見えるような行ったり来たりは生まれる。

これは日本語にも通じると思っていて、例えば友達と別れを告げるとき「じゃあ、また」と言う。私の好きな明石家さんまさんも後輩と別れるときに「ほな!」と吐き捨てて去っていくらしい。おそらく、友達に「じゃあ、また」と言われて、「またなんやねん!」と言う人はいないだろうし、明石家さんまさんに「ほな!」と吐き捨てられたいと思う人が殆どだろう。ここにも曖昧さがあると思うのだ。「また」の後ろには空白があって、曖昧さがあって、「会おうね」なのか「元気でね」なのかは分からない。しかしその曖昧さも含めて言葉を投げかけ、受け取るのである。そこに思考の種が芽生え、私たちは至高(思考)の時間を貪る。

人は常に意味や答えを求めすぎている。行ったり来たりの堂々巡りの先に、求めるものがあるかは分からない。しかし、どっちつかずの曖昧さの中に深い思考があるのは確かである。その不毛な時間を私たちはエンジョイするべき「かもしれない」。

では、また。

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